その穢れのない瞳が見えなくなるまで
寒い、寒い、凍てついた山の頂上に、少女は置いていかれた。帝国の民が謎の病に倒れたからだ。
神に捧げられた少女は、清らかな心を持っていた。少女は既に、美女となる片鱗をのぞかせていた。もし少女が大人になれていたなら、さぞかし美しい女性になっていたことだろう。そして、何人がそれを待ち望んでいることか。今すぐに帰ってきてほしい、そう願う人間が、どれほどいるだろうか……。
「ああ……神よ。みんなをお救いください。悪い人なんて1人もいないんです。お願いします」
わずかに幼子の面影が残る少女は、神に祈った。神殿の固い大理石の上で、満足に動けないほど縛られた姿で。もう山の寒さは少女の体力と体温を奪っていた。指先の感覚も、足先の感覚もない。頬は人形のように青ざめている。
ふと、柔らかな羽の音がした。大きな鳥が飛び立つときのような、シュッという音。
男がいた。まったく青ざめていない頬、血の通った指先。なにより目を引くのは、羽。ビロードのようにつやつやと輝く黒い翼が、男の背から出ている。優しそうな顔の男は美しく、思わず少女は見惚れた。
「おやおや、生贄にされたのかい?」
優しい笑みで男は言う。どこかからかうような口調だった。笑いごとじゃないのに、と少女は少しだけ怒る。けれど、その笑顔を見ていたら怒りは収まってしまった。傲慢で、優美で、艶やかな笑み。神様みたい。お迎えかな。少女はそう思った。
「そうだよ。あなたは誰? 私を迎えに来たの?」
男はフッと楽しそうに笑って首を横に振ると、歌うように言葉を紡いだ。
「いや、違うよ。かわいいお嬢さん」
少女は不思議そうに首をかしげる。じゃあ、なんなのだろう。少女が問うと、男は自分の顎に手を添えた。なんと言えばいいか考えるように。
「僕は、悪魔だよ」
悪魔。少女は驚いた。悪魔って、もっと怖いものじゃないの……?
「悪魔? 神様か、天使かと思った。優しい顔だもの」
「やっぱり? 悪魔なんだから、もう少し怖い方がいいと思ってるんだ」
悪魔はペタペタと自分の顔を触って、困った顔をした。
少女は、悪魔の印象が変化するのを感じた。恐ろしいもの、というぼんやりした想像は消えて、優しくて温かい人だと思った。
「怖いの、嫌だな。私は今のあなたがいい」
「え、でも僕、悪魔なんだけど……」
「似合わないね」
目に見えて悪魔は落ち込んだ。少女は、呆れるほどに率直だった。嘘は吐かない。そんなところも、生贄に選ばれた理由だ。だが、少女は自分を曲げようとはしなかった。自暴自棄になっているわけではなく、ただただ、それが正しいと信じているから。
「契約をしないかい? 死後、君が地獄に堕ちる代わりに願いごとを叶えてあげる。君をこんな目に遭わせた大人たちに、復讐できる。どう?」
軽やかな声が少女を誘った。受け入れれば、帝国は滅びる。拒絶すれば、少女は確実に死ぬ。少女は、一切迷わず口を開いた。
「しない。私の命でみんなが助かるなら、それでいいよ」
少女の頭をよぎるのは、たくさんの人々だった。
仲の良かった友だち。いつも畑にいたおじさん。学校の先生。診療所のお医者さん。占い師のおばあちゃん。そして……家族。彼らを殺すことなんて、考えられなかった。
「憎くないの? なぁんにも悪いことしてないのに、君、殺されちゃうんだよ? こんなとこに置き去りにされて」
食い下がる悪魔に、少女は微笑んでみせた。
「憎くないの。それに、私が生贄をやめたら……他の人だよ。私は、他人を犠牲に生きたくない。人を殺して生きるなら、殺される」
普段の悪魔だったら、くだらないキレイゴトをと一蹴しただろう。でも、しなかった。できなかった。少女の目の光は、本物だったから。偽善者なんかじゃないと容易に分かってしまったから。
本当に信じているのだ、この少女は。
そんな想いを、顔にも態度にも出さずに悪魔は微笑み返した。
「そう、それは残念。これで僕は君に用事がなくなった。でも……」
悪魔が束の間黙り込む。数秒後、悪魔は初めて心の底からの笑みを浮かべる。
「僕は、君に惹きつけられているんだ。だから、君のその穢れのない瞳が見えなくなるまで、側にいる。世界中のお話をしてあげるよ」
悪魔は、清らかなものに触れられない。少女は清らかすぎるから、触れられない。でも、せめて側にいたかった。少女の寒さを、少しでも和らげたかった。
「優しい悪魔さん。どんなお話をしてくれるの?」
好奇心に目を輝かせ、少女は聞く。
汚いものはたくさん見てきた。でも今は、美しいものの話をしよう。少女が安らげるように。楽しめるように。
「じゃあまずは、海の話をしてあげる。海を見たこと、ある?」
知らないと少女は答えた。海だけじゃなく、山に作られた帝国以外の場所を見たことがなかった。
「外にはね、海ってものがある。塩辛い水がたくさん溜まっている」
「どのくらい? 私が飲み干せるくらい?」
いやいや、と悪魔は首を横に振る。
「月が100回消えるくらい歩かなければ、海のすべてを知ることはできないよ。水だから歩けやしないけど」
それからも、悪魔は語った。太陽が海から顔を出した瞬間を。色とりどりの鳥が飛ぶ風景を。澄んだ水の流れる音を。木々が風に揺れてざわめく声を。人々が買いものをする市場の活気を。
山に太陽が沈んで、夜がやってきた凍てつきを。
「ありがとう……優しい、優しい悪魔さん。楽しかった。ずぅっと高いところに……空の上に来れたら、また、お話……してね」
最も冷え込んだ明け方。いつもなら、ああ死んだかと嘲笑する。少女が優しいと言った顔を歪ませて。今回は、違う意味で顔が歪んだ。悪魔は初めて経験する、「悲しみ」に。
「僕は君を抱きしめることすらできなかった! 温めてあげたかったのに! なぜだ、なぜ僕と君は、出逢った? どうして僕は、ここに来てしまった?」
冷たくなった少女は、悪魔に幾度となく向けた笑みのまま動かない。悪魔もまた、少女に幾度となく向けた笑みを浮かべる。
「僕が死んでも、君の側には行けないだろう。僕は翼をもがれ、地の底に堕ちていく。……君なら、」
怒った顔で、「生きて」と……そう、言うのだろう。
「でも……君と出逢ってしまったから。君がいることを知らなきゃ、胸を抉られるみたいな苦しみに、苛まれずに済んだのかな」
悪魔は、漆黒の目を閉じた。
「だけど……。君に出逢えて、僕は幸せだった。君の側に行けるように、祈るよ……」
悪魔は、そのあまりの苦しみに自らを滅ぼした。美しく優しい悪魔は、黒い灰になって崩れた。その灰の中に、青く海の色に輝く水が流れ落ちた。水は灰から溢れ、神殿の床へ流れていく。床の氷が、水の通った場所だけ溶けていく。まるで、人間の温かな涙が流れたかのようだった。