休日のあれこれ
あれ……動けない……。
ぼんやりとしていたリョウの意識がハッキリしてくる。
そろそろ起き出さないと、みんなの朝ごはんを作る時間。
そんな事が頭の片隅にあって、意識がハッキリしてくるにつれその時間がカウントダウン的に近づいているような気がするのだが。
なにせ動けない。
「んーーー」
小さく唸って体を拘束しているものをひっぺがそうとする。
「……まだダメ」
掠れかかった甘い声が耳元でして、リョウが脱力する。
自分の体に巻きついたレンブラントの腕から抜け出すのを一旦諦めて。
「ね、そろそろ起きないと。朝ご飯」
「今日は休みです。昼までこのままでいいですよ」
不満げに唇を尖らせるリョウに対してレンブラントは口元にゆったりと笑みを浮かべている。
そんなこと言ったって今、うちには他に三名ほどお腹を空かせている男たちがいるわけで。しかも、そのうち一人は動けない怪我人だ。
あ。
怪我といえば。
もぞもぞと動きながらリョウが自分の左手を目の前に持ってくる。
巻きっぱなしの包帯は少し緩んで取れかかっている。
昨日アルフォンスに簡単に薬を塗ってもらって包帯を巻いてもらったけれど、夜シャワーを浴びようと一旦外した段階でかなり回復していた。
もうこのまま外してしまおうと思っていたのにベッドに入るときにレンブラントが壊れ物に触るようにしてこの手を掬い上げ「まだ赤いし痛そうだ」と包帯を巻き直された。
あの時の微かに震えるレンの手と、僅かに潤んだような瞳が忘れられない。
別にレンが悪い訳でもないのにまるで自分が傷つけたかのように何も言わずにそっと手を取られた。包帯の巻き方もきつくなり過ぎないように、かといってゆるすぎもしないようにと何度も顔を覗き込まれて「痛くないですか?」「きつくないですか?」なんて聞かれるから最後にはつい笑ってしまった。
リョウが動いた意味がわかったらしくレンブラントがリョウの背中に回していた腕を緩めてくれたので。
「これ。もう外していい?」
リョウが左手をそっとレンブラントの目の前に持っていく。
「痛みは?」
軽く身を起こしながら尋ねられてリョウがくすりと笑う。「竜族の回復力を甘く見ちゃいけません」とおどけて寝そべったままかろうじて包帯が巻きついている左手を思い切り握ったり開いたりしてみせる。
「え、ちょっと待ちなさい! そんなに強く握ったら……」
レンブラントが慌てて本格的に起き上がってリョウの手を掴み、解けかけた包帯の端を捉えた。そのままゆっくり解いて最後の一巻きがするりとリョウの手から落ちると。
「ほらね。治ってる」
火傷の跡どころか、赤みもすっかりなくなってつるりとした手の甲をリョウがひらひらさせるとレンブラントがその手を捕まえる。
そのまま指と指を絡めるようにして自分の方にリョウの手の甲が向くように捻る。
「ああ、本当だ……良かった。きれいになってる……」
小さくため息をついたレンブラントが。
「え……レン、ちょっと……」
リョウが戸惑うように声を上げた。
なんとなればレンブラントがリョウの手を引き寄せてその甲にそっと唇を押し当てたので。
まだ薄暗い部屋の中でも白い寝間着の肩に落ちるレンブラントのブラウンの髪とその伏せられた目元に落ちる睫毛の影が見て取れる。ベッドの上とはいえ恭しくこちらに身をかがめてその手を取り、口付ける行為はなんだか異様に色っぽくもあり、気高くも見える。
ああ、やっぱり騎士、なんだなぁ。
なんてリョウはぼんやり思ってしまった。
なんだか忠誠を誓う騎士、という表現がやけに似合いそうに見えて。
「僕はあなたに相応しくありたいとずっと思っています。あなたが傷つく事がないようにずっと守っていけるようでありたいと。……でも、閉じ込めているだけではやっぱりダメみたいだ。あなたは勝手にどんどん傷ついていく」
自嘲の笑みが溢れ、リョウの手にレンブラントの息がかかった。
「あの……ごめんなさい……」
勝手に傷つく、という言葉にずきりと胸が痛んだリョウが咄嗟に謝りながら起き上がる。
「ああ、いえ。違うんです。あなたのせいじゃない。僕の我儘があなたを傷つけているという事がよく分かったんです」
そこまで言ったレンブラントがリョウの目を覗き込んでふっと笑う。
「リョウ、あなたの好きにしていい。やりたいようにやりなさい。そして僕がいつもそばにいることを忘れないで。危なっかしいと思ったらいつでも僕が助けます。一人で傷つく必要はない。あなたは放っておくと全部自分で背負ってしまうでしょう?」
ああ、しまった。
そうか、レンに迷惑をかけてしまうだろうか。
私が、アルに勧められた通りにいろんな人達と会うことや北に旅に出ること。
こういう事が少しずつレンの仕事を増やして、負担になってしまうだろうか。
私はやっぱり、誰かに迷惑をかけるだけの存在なのだろうか。
そんなことを思うとつい視線が落ちて行ってしまう。
そんなリョウを見つめるレンブラントが、自身の手が絡め取っていたリョウの手を離してその両手で改めてリョウの顔を包み込み、上を向かせた。
「こら」
優しくたしなめるようにレンブラントが目を細め、リョウの視線を捉える。
「どうしてそこで落ち込むんですか。僕はあなたにとって邪魔な存在ですか?」
「……っ! まさか! そんなことない! ……ただ……迷惑をかけたくないだけ……」
「それなら」
リョウが急いで頭を振るとレンブラントがその言葉を遮った。
「一度、迷惑らしい迷惑をかけてごらん。僕はリョウに迷惑をかけられるなら大歓迎ですよ」
「もうたくさん迷惑かけてるでしょ?」
「へえ。騎士隊隊長も甘く見られたもんですね。僕がいつリョウに迷惑をかけられたんですか? この僕の手に負えない仕事なんてそうそう無いはずなんですがね」
眉をひそめて、ため息混じりに尋ねるリョウにレンブラントがニヤリと笑う。
あ……うわ。
リョウが途端に頬を赤らめた。
どうしよう。
かっこ、いい……。
思わず見とれてしまったリョウにレンブラントが小さくため息をつく。
「……このまま押し倒してしまいたいところなんですが……多分そうするとそのうち誰かが邪魔しに来そうですね……」
そう言うレンブラントの視線は窓の外。先ほどよりずいぶん明るくなった。
「あ! 朝ご飯!」
リョウがつられて声を上げる。
「……ハンナとコーネリアスの存在ってこんなに大きかったのか……」
レンブラントが力なく呟いた。
朝食の後、台所に居残っているリョウのところにレンブラントが入って来た。
「今日は仕事は無いでしょう? もう仕込みですか?」
「あ、うん。違うの。……ほら、今日もアルが来るらしいから先にお菓子用意しておこうかなと」
「ああ……あいつ、今日も来るのか……リョウ、放っておいてもいいですよ? せっかくの休みなのに」
レンブラントが情けない声を出す。
なのでリョウはついくすくす笑いだす。
「だって作っておけばレンだって食べるでしょ? えーっと、チョコレートがあるからチョコレートケーキにしようかな。林檎がまだあるから中に入れてみてもいいな……っと、ああナッツもあるのか……うん、これはまだすぐ使わなくてもいいからとっておくとして……」
棚の上にあるものを調べながら作れそうなものを上げてみる。
「じゃあ手伝います」
小さくため息をついてレンブラントが台所の隅に掛けてあった前掛けを取りに行く。
「早く終わらせて一緒に出かけませんか?」
テキパキと前掛けの紐を結んで袖をまくったレンブラントに、そういえば久しぶりにレンもお休みなんだ。と思いつつも……なんせハンナとコーネリアス不在。
「レン……今の在宅人数でハンナとコーネリアス不在を考えると……今日、出掛けるのって厳しいと思うんだけど」
困ったようにリョウが答えるとレンブラントも「ですよね」とため息をついた。
「でもこうやって一緒に何かできるのって、それだけでかなり嬉しいわよ?」
リョウがそう言ってふわりと笑うとレンブラントが一瞬目を見開いて満足そうな笑顔になった。
うん。
これは間違いなく嬉しいわよ。
だって、ですね。
前掛けをキリッと身につけてシャツの袖をまくったレンブラントって、やっぱりカッコいい。
なんでレンの腕にここまで視線が釘付けになるんだろう。
見ているとあの腕に抱かれていたこととか、あの手が自分の頰に触れたこととかまざまざと思い出してしまってドキドキする。さりげなくまとめた髪には仕事のない時用に私が作ってプレゼントした髪紐が揺れている。あの髪だってさっきまで緩く肩にかかってとても艶っぽかった。
そんなレンブラントが林檎を片手に包丁を持つ姿なんてもう、ついつい目がいってしまうのでこちらの作業が捗らない。包丁持ってても背筋が伸びてて姿勢がキレイ。
リョウがこっそりため息をついたら、そのタイミングで目を上げたレンブラントと目が合って一瞬で頰が熱くなり、そんなリョウに気付いたレンブラントがニヤリと笑った。
なんだか幸せなひと時を過ごしたリョウは午後、早々にやってきたアルフォンスを迎えることとなる。
「早かったのね。もっと遅くなると思ってた」
リョウが笑顔で出迎えるとアルフォンスが照れたように笑って。
「ああ、こちらで仕事をするようになってから午後は診療所の仕事を入れてないんですよ。他に医師はたくさんいますしね。ここでゆっくりできるのは僕のいい気分転換なんです」
嬉しいことを言ってくれるなぁ、なんて思いながらリョウが頬を緩ませて。「今日はチョコレートケーキがありますよー」なんて告げるとアルフォンスの目が輝いた。
一旦応接間に通すと、アルフォンスはまず鞄を置いて。
「リョウ、左手はどうですか?」
と手を差し出して来る。
なのでリョウが反射的にその手に自分の左手を乗せるようにしながら「もう治りました」と、にっこり笑う。
アルフォンスかその手をやんわりと握って自分の目の前まで持って行きゆっくり観察するように眺めていると。
「アル。触りすぎだし眺めすぎです。竜族なんだから完治して当たり前でしょう」
いつのまにかすぐそばに立っているレンブラントの冷ややかな声に苦笑して彼は「はいはい」と答えた。
で。
「リョウ、治癒力が人並みではないとはいえ怪我をした時に放っておくのは感心しませんよ。火傷ならちゃんと冷やすこと。たとえ切り傷でも放置しないで消毒して保護するようにしてくださいね」
と言って目を覗き込まれるので。
「はい。ごめんなさい」
リョウもつい神妙になって謝る。
そうよね、お医者様だもの。体を大切に扱うことに関しての意識が高いのよね……っていうより私が無頓着過ぎるのか。なんて反省する。
そんなリョウを見たアルフォンスは満足そうに目を細めて。
「ではアイザックの往診も済ませてしまいますね」
そう言って一度床に置いた鞄を取り上げてドアに向かった。
と、ちょうどそのタイミングで「リョウさん、お茶の時間までちょっと出掛けててもいいっすか?」なんて言いながら入ってきたアウラがアルフォンスに出くわした。
すれ違いざま、アルフォンスが軽く挨拶をすると同時にアウラの顔色がさっと変わり、姿勢が正され丁寧な挨拶が返される。
そんな様子を見てリョウは、やっぱり昨日何があったのか気になるんだけど……! とばかりにふらりとアルフォンスについて行きかけると。
「リョウ、そちらには行かないほうがいいですよ」
そんな声が耳元でしてリョウが振り返るとレンブラントが微妙な微笑みを浮かべて、それでもガッチリとリョウの腕を掴んでいる。
「えええーーーー」
なんだかちょっと、ガッカリなんですけど。
という視線をリョウが向けるもその視線はそっけなく逸らされた。
「ふーん……なんだろうな、気になるなぁ……」
リョウが呟きながらお茶の準備を進める。
ケーキは焼き上がって冷まされている。林檎を甘く煮て混ぜ込んだチョコレートケーキ。今日は仕事の合間というわけではないので量は控えめ。一種類だけだ。
林檎が沢山あるのでティーポットにも仕込んである。刻んだ林檎と茶葉に熱湯を注いで淹れる紅茶は甘くいい香りがするのでレンブラントがとても気に入っている。いつもは剥いた皮だけを入れるのだが今日は二人だけではないし林檎は大量にあるので丸ごと刻んで入れてしまった。
一通り準備ができてリョウが応接間に戻ると窓の近くのソファーに座ったレンブラントが本を片手にうたた寝をしている。本といっても仕事で読んでいる文献ではなくもっと軽そうな読み物だ。きっと息抜きに何か読んでいたのだろう。
ふーん。
グウィンは昼食の後ふらりと出ていったままだが……大方ニゲルのところか、雑木林でレジーナの相手でもしているのだろう。
「そろそろお茶にできるかアルに声をかけてこよーっと」
手持ち無沙汰なリョウは誰にともなく呟いて応接間を後にした。
で、アイザックの部屋の前。
ノックしても良いだろうかと、右手を上げた瞬間。
「……ぅあ……っ!」
……へ?
「このくらいで音を上げますか?」
……え?
ドアの中から何やらおかしな声がした、と思った。対してアルフォンスのちょっと楽しそうな声もする。……楽しそう、いや、なんかちょっと違うかも。
思わずリョウが息を殺してついでに気配を感じ取られないようにしながらもう一歩ドアに歩み寄る。
「……あ……くっ……」
何かを堪えるような息を詰めるような、アイザックの声はなんだか艶めかしい。
「……アル……フォンス……もうそろそろ……く……っ!」
「おや、ちょっと早いんじゃないですか。意外に根性がないですね。もう少し楽しませてくれると思ったんですがね」
……ちょ、ちょっと、待ってね。
えーと、この感じ、中で繰り広げられてるのって……治療以外になんかあり得る?
リョウの表情が固まった。
「……ぅあ……っ! よせ! そこは……ぅぐっ……!」
「だいたい、あれだけの事をしておいて楽に診察を受けられるなどと思っていませんよね?」
「……ぐぁ……っ!」
違うね! 治療じゃないよね!
しかもアルの声、なんか果てしなく黒い感じがするんだけど!
「ねえ! 大丈夫なのっ?」
ガチャ!
と思い切り派手な音を立ててドアを開け、リョウが飛び込む。
で。
「え……うわ! ご、ごごごごめんなさい!」
飛び込んだ拍子に目にしたものに驚き、その勢いのまま再びドアの外に飛び出してドアを閉めた。
……あれ? え? え?
えーと。
今、ベッドの上にアイザックは、いた。うん、横になってたわね。うつ伏せに。
で、その上に、アル、乗っかってなかった? 後ろ手に両手を捻り上げてるように見えなくもなかったけど……あれって……治療? アイザックが一糸纏わぬ姿だったような気がして、これは私が見てはいけない光景だと咄嗟に判断したけど……見ちゃいけない以前に止めなきゃいけない何かが行われてた、わけじゃないかな?
混乱する頭を抱えながらドアに寄りかかったリョウの体がずるりと落ちる。
腰が抜けた、みたいな。
へたりと座り込んで閉めたドアに寄りかかりながら今一瞬見たものを整理しようと、大きく息をついた時。
ずり。
そっとドアが開いてリョウの体が後ろに仰け反る。
「あ……」
見上げるとこちらに軽く屈み込みながら情けなく笑ったアルフォンスと目があった。
「すみません、リョウ。……お見苦しいところをお見せしました」
いつも通りの優しい口調のアルフォンスにリョウの緊張が解けて一気に目が潤む。
「あ、アル……?」
リョウの声にアルフォンスがさらに眉を下げる。
「中に入っても大丈夫ですよ」
そう言われて手を差し出されたので反射的にリョウも手を伸ばし、その手を取られて立ち上がる。同時にドアが大きく開かれて中に招じ入れられるのだが……なんとなく気まずくて目が上げられないリョウに。
「……すみません、守護者殿。お陰で助かりました」
と、意外に普通な感じのアイザックの声が掛けられた。
え? と、リョウが顔を上げるとしっかり服を着たアイザックがベッドの脇に立っている。寝間着ではなく、先日着用していた薄い灰色の上下にシャツ、といった服装だ。
唖然としてついついアルフォンスとアイザックを見比べるリョウに。
「アルフォンスの腕は一流なんですよ。レンブラント隊長にかなり痛めつけられたお陰であちこちの骨が歪んでしまっていたようで、全身矯正してもらってたんです」
なんとも言いにくそうにアイザックが告げる。
「全身、矯正……?」
リョウが聞いたことのない単語を無意識に繰り返すと。アルフォンスがくすりと笑って。
「骨がね、あるべき位置からずれてしまうと身体中にいろんな歪みが出るんです。なのでそれを片っ端から修正してたんですよ。……まあ、部分的に折れている箇所もありますから多少の苦痛は伴うでしょうが、なるべくそこには負担をかけないように治療しましたよ?」
「なるべく……?」
アルフォンスのあっけらかんとした口調に、アイザックの恨みがましい突っ込みが入る。
「おや、ご不満があるようならもう一度一からやり直して差し上げましょうか?」
ちらりと見やる視線にアイザックの顔色がさっと変わった。
「いえ……もう大丈夫です。お陰で肋骨以外の痛みは全て消えました。もう働けそうです」
「え、ええええ! もう動けるの? え、でも肋骨、痛むんでしょ?」
やり取りを聞いていたリョウが我に返って声を上げる。と、アルフォンスがにっこり微笑んで。
「大丈夫ですよ。僕の腕はそんなに悪くありませんから」
確かにこの短時間で、あっという間に着替えが済んでいること自体、かなり体が自由に動くようになったことを裏付けては、いる。
それになんだかんだ言ってアイザックの動きは先程から不自然さの欠片もない滑らかさがある。
きっと、素晴らしい治療が行われていたんだわ。うん。
なんとなく昨日のアウラと同じような顔をしてるんじゃないかと思えてならないリョウは自分にそう言い聞かせて自分を納得させる。
だって、私の大したことない火傷の手当てをしてくれた時のアルの手はとても優しかったもの。うん。あれが怪我人をいたわる本当のアルよね。
今のは……きっと……えーと……ああ、思考がこれ以上働くことを拒否してる。




