命を繋ぐ
「ねぇ、リョウ……あの……つかぬ事を聞くんだけどね……」
珍しくザイラが歯切れの悪い話し方をしている。
日中の夫の不在の間、リョウは買い出しをしたり家事をしたりすることで忙しいのが日課になっている。
家は案外広くて一人で掃除をしようものなら一日かかっても終わるようなものではない。なので毎日すべての部屋を隅々まで掃除する、などという途方もないことはすでに放棄していつも使う部屋だけを掃除するようになった。
全く使わない客間や、ほとんど使わないレンブラントの書斎は窓を開けて空気を入れ替えるだけでもかなり違う。この書斎に至っては早々と、レンブラントが仕事で取り敢えず使わないと判断した資料の保管場所になりつつある。
一階にある応接間にいたっては、リョウが訪ねてくる友人、主にザイラやルーベラとお茶をするのに「こんなに広い部屋、落ち着かない!」とばかりにレンブラントと食事をするのにも使っている台所の隣にあるこぢんまりした部屋に通してしまうものだから、ほとんど使われずにいる。
で、結局そんな部屋でさえ朝のうちにカーテンと窓を開けて簡単に埃をはらったら掃除終了! ということになっている。
そんな日課がひと段落した午後、ザイラが遊びに来て一緒にお茶を飲んでいるとおもむろにそんな話し方になったのでリョウが思わずカップを置いた。
「どうしたの? 何かあった?」
なんだかそわそわしているザイラに声をかけてみる。
「……うん……えーと、その。……リョウって今、月のものってどうなってる?」
「へ? ……月の……? ……ああ!」
アレのことか……。
一瞬なんのことか理解できなくてそのまま聞き返しそうになり……理解したところでザイラの意図が分からなくなる。
「……え、あれ? ザイラ、もしかして赤ちゃん出来たの?」
あり得なくはない、と思った。
今まで子育てをすること自体が難しい体制で、そもそもいつ何が起こるかわからない時に、騎士の妻が身籠るなんて危険この上ない世の中だった。しかもザイラの場合、夫は隊長でいつその身がどうなるかもわからないという意味ではその最たるものだ。
それが比較的そういう心配をしなくて良くなった今、あれだけ仲が良い夫婦なら早速子育てを始めるとしても自然なことだろう。
「え、あ! ううん。違うの。あたしはね……体質的に難しいみたいでちょっと諦めているのよね」
「そうなの?」
そういうこともあるのか……悪いことを聞いてしまっただろうか。
リョウの顔色が一瞬で曇る。
「あ、あたしの事は気にしないでね。クリスもね、理解してくれてるの。父さんの血を引いているとね……多分例の能力の血筋が途絶えそうになってる理由の一つなんだけど子供が生まれにくいんだって。しかもこの能力を持った子が生まれる確率も更に低いらしくて。母さんはよそから流れてきた人だったからあたしを身籠ったのかも知れないね、なんて話していたのよ」
明るく話すザイラの言葉にリョウが小さく頷く。
え、あれ?
「えっと……じゃあ、なんで?」
「……あー……そうよねー、うん。そうなのよ! ……あたしにこういうの、絶対無理なんだって! アルの馬鹿!」
「はぁ?」
思わぬ名前が出てリョウがつい素っ頓狂な声を上げてしまう。
「いや、だからさー。アルがね。竜族の体のつくりに興味津々で! そんなの自分で聞けば良いじゃない! って言ったんだけど、女同士の方が話しやすいだろうからって言われてさ……もう、ほんとにごめんね。今の話、忘れて良いわよ」
一転していつもの調子に戻ったザイラが、右手をパタパタ振りながら言い捨てた。
……ああ、そういう事か。
思わずリョウが吹き出す。
そんなリョウを見て、今度こそザイラが安心したように微笑んだ。
「……なんだかさ、周りと違うのって色々やりにくいわよね。リョウってきっと我慢しちゃうと思うんだけど、嫌な事聞かれたらちゃんと嫌だって言って良いのよ? あたしもね、結婚した当初は周りから子供は作らないのかってよく聞かれてちょっとイラついたりしたの。……まぁ、こんなご時世だからそのどさくさに紛れて意図的に子供を作らない方向で話を濁したりも出来たけどね」
「そっか……。ザイラも大変だったわね……」
リョウはなんとなく想像がつくな、と思った。
久しく続いたこの時代の、その前には。
結婚した女は子供を産んで育てるのが仕事のようにみなされてさえいた。家族を作るとは、元をたどれば人だろうと竜族だろうと子孫を残す事を目的とした一つの過程なのかもしれない。
それが、なんらかの事情で出来ないとなれば……それは辛い事だろう。
「いいのよ。あたしにはクリスがいるからね。……彼じゃなかったら結婚なんかしなかったと思う」
わぁ……!
なんて素敵な笑顔なんだろう。
リョウはザイラの微笑みに見惚れてしまった。
それは何かを乗り越えた者の、微笑みだ。
自分と自分を取り巻く現状に満足して、他者の自分とは違うあり方をも受け入れる。そんな微笑み。
私もそんな風に笑える時が来るだろうか。なんの不安も感じさせない、幸せを体現したようなそんな表情。
今はまだ、駄目だ。
不安要素が多すぎる。
レンを信じられないとか、レンが頼りにならないとか、そんなんじゃない。
これは自分の問題。幸せになるにはきっと勇気がいるのだと思う。
不安な事から目を背けるんじゃなくて、その向こうを見る勇気。その向こうにあるものを信じる勇気。それに手を伸ばすために……ほんの少し、今ある場所から手を離す勇気。
「……リョウ?」
ふと気づくとザイラが心配そうな視線を向けていた。
なので、リョウは軽く頭を振ってから笑ってみせる。
「……大丈夫よ。……あのね、私、月のものってまだ経験した事ないのよ」
「……え?」
ザイラが目を丸くする。
うん。そういうものなんだろうね。
リョウはザイラの反応をちょっと確認してみてから、肩をすくめてみせる。
「私もね、実はよく知らないんだ。何しろ、そういう事を教えてくれる人がいなかったから。でもね、昔、ちょっと優しくしてくれた人がいてね、彼女が竜族の事を少し知っていて教えてくれたの」
クロードの恋人だった人。
ほんの少し彼女のところで厄介になった時期があった。
ちょうどその時彼女が月のもので具合が悪くて、人間の女性には毎月そういう事が起こるのだと教えられた。
そして、竜族の場合は少し事情が違うのだという事も。
「……竜族って子供を産める時期は限られているらしいわよ。何年かに一度とか何十年かに一度とか。個体差はあるらしいんだけど……そういう時期が来てその機を逃すと一度排出するから……人でいうところの月のものが来るらしいわね」
「……わお。そうなんだ。……アルがね、古い文献の中に竜族に関するものがあったって言ってて……あの人、研究意欲が半端ないじゃない? きっと記述の裏付けが欲しいんだと思うんだけど……」
ザイラが神妙な顔になる。
「そうなんだ……そんな文献があるなら私にも読ませてもらえないかな……」
むしろ私が知りたいんだけど。
そんな思いでつい呟いてしまう。
ふと息を飲むような気配に目を上げるとザイラが目を丸くしている。
「……リョウ……平気なの? あたし『そういう事は立ち入るべきじゃないと思いまずけど』って釘刺したんだけど」
「でも、引き下がらないでんしょ?」
くすくす笑いながらリョウが聞き返すとザイラが大きなため息で肯定した。
「ああ、でもリョウ、わざわざこっちに来なくていいわよ。今度持ってきてあげるわ。……あの人、普段はすごくいい人なんだけど……なんていうか……研究対象と認識すると、途端に相手の尊厳とか無視しそうで怖いのよね。絶対リョウに失礼な事やらかしそうな気がする」
眉間にしわを寄せてザイラが何かを思い出すようにしながらそう告げるので。
「……う、うん。分かった」
なんとなくリョウは苦笑いしながら了承した。
「……今日ザイラに月のものの事を聞かれたわ」
夜、久しぶりにレンブラントと二人で湯船に浸かりながらリョウがぽそりと話し出す。
湯船の中で面と向かうのはどうにも恥ずかしいので横を向いてレンブラントの胸にもたれ掛かるような体勢で。
なんとなく話の内容を思い出してしまうのでリョウは自分の下腹部に手を置いてゆっくりさすってしまう。
本来なら命が授かる場所。
「……なんの話をしてるんですか……」
ちょっと呆れたようなレンブラントの声にリョウがついくすりと笑いを漏らす。
そうよね。
男の人には興味のない話題かも知れない。
「ザイラって赤ちゃん出来ないの、知ってた?」
「ああ……そういえば……前にクリスがそんな事を言ってましたね。……当事者同士がそれで納得してるんだから問題はないと思っていましたが……何かあったんですか?」
レンブラントの声が真剣なものになった。
「あ、ううん。違うの。……私、初めて聞いたから」
リョウの声が相変わらず平たんなのが気になったのかレンブラントが胸元のリョウの顔を覗き込むようにしながらその顔にかかっている髪をそっと後ろに撫で付ける。
背中の傷は気にしないようにと言われて、リョウは洗った髪を一まとめにしており、後ろに入りきらなかった少し短いサイドの髪がその表情を隠していた。
「……レン……赤ちゃん欲しい?」
小さな、声だった。
声にすらなっていないような。
「……リョウ?」
心配そうな声がリョウの耳に届く。
竜族の体のつくりについて、自分が知っている事は話してある。
今のところ、子供は産めない事も。その時期がいつ来るのかも知らない事も。
レンブラントはそれを了承してくれていた。
その事についてあれこれ言ってくる事もなかった。
だからそれ以上は何も話してはいなかったのだ。
「……リョウは、どうなんですか?」
リョウの、下腹部に当てられた手にレンブラントの右手が重なった。
「うん……レンが欲しいなら……考える」
リョウはなるべく、どちらにでも取れるような返事をしてみる。
ほんの少しの間をおいてレンブラントの小さなため息が聞こえた。
「リョウ……嫌な事は嫌だと言っていいんですよ」
レンブラントの左手がリョウの肩を優しくさする。
どこかで聞いた言葉だ、と思ってリョウが小さく笑いを漏らすとレンブラントの右手がリョウの顎を捉えて上を向かされた。
なので。
「今日、ザイラにもそう言われたの。……私、そんなに我慢してるように見えるのかしら」
正直言って、そんなに我慢しているという自覚はない。
むしろ好きなようにさせてもらっていると思っている。
多少、相手に合わせるとか相手を優先するとかは必要な事だと思うし、それがいつも自分を大切に扱ってくれる人なら尚更相手の好みや意見を優先して自分を抑えるのはごく当たり前の事ではないだろうか。
それが、当て付けがましく「我慢」しているように見えるのなら……それはさすがに申し訳ないのでそう見えないように気を付けなくてはいけないと思う。
「……その顔を見る限りでは、我慢してるように見えますね。ああ、無理に笑わなくていいですよ。……だいたい、リョウは子供を産みたいと思ってないでしょう?」
「……え……なんで?」
上を向かされたせいで思いっきり目が合ってしまった上に、考えを見透かされるような言葉にリョウが目を丸くする。
そんなリョウの反応にレンブラントが優しく目を細める。
「分かりますよ。そのくらいの事は。……前に、竜族の体のつくりについてあなたが話してくれた時になんとなくそう思ったんですけどね……そうですね……例えば、自分がちゃんと親に育てられた経験がないから……子育ては無理だと思ってる?」
レンブラントが言葉を選ぶようにゆっくり話す。その視線はリョウの瞳を捉えたまま、自分の言葉にリョウがどう反応しているかを確認して気遣っているようでもある。
リョウは思わず目を逸らした。
胸にどきりと小さな衝撃が走り、一瞬息が止まったのだ。
思っていた事を言い当てられて。
だって、本当に、子育てなんて無理だと思うのだ。
親がどんな風に子供に接するかなんて想像できない。
子育ては一人でするものではない。夫婦でするもの、とか、そのくらいの事は頭では理解している。そして、レンブラントがいて、彼がちゃんとサポートしてくれるであろう事も知っている。
でも。
信用していないわけではなくて、ただ、思い描けないのだ。
だから不安になる。
自分が味わったような寂しさを子供に受け継がせてはいけないと思うから、尚更。
自分が味わったような……いや、それだけじゃないな、とも思う。
そんなに深く子供の事を考えているのかさえわからない、もっとモヤモヤした気持ちが心の底にある。
「……私……自分が経験したことをそのまま受け継がせちゃいそうで怖いのよ……」
リョウがどうにかそこまで言葉にして無意識に吐き出す。
「……リョウ。いいんですよ、無理しなくて」
額にレンブラントが口付けてきた感触でリョウが我に返った。
「……レン……」
いつも通りの優しい、柔らかい口調にほっとすると同時に少し申し訳ない気持ちが頭をもたげる。
なんと答えていいかわからなくなって視線を彷徨わせるとレンブラントが両腕をリョウの体に回して抱きしめてきた。
「……僕の正直な気持ちはね、子供は本当に、どっちでもいいんです。……そりゃあ、リョウに似た子供が生まれると考えたら楽しいなとは思いますけどね……僕が欲しいのはリョウに似た子供じゃなくて、リョウの心ですからね。それさえあれば他のものは何もいらない。リョウが僕の腕の中で幸せでいてくれたら、あとはどうでもいいんですよ」
ゆっくりした口調で、噛みしめるようにそう言ったレンブラントが、腕にゆっくりと力を込める。
リョウの思考に歯止めをかけるように。