所有物
その日は朝から何となく慌ただしかった。
「リョウ様、今あるお米と干し肉は早めに使って下さいませね。それとリョウ様がお作りになった林檎のお酒、まだ少し残っておりましたよ。この棚の手前に出しておきましょうかね。……えーと、お洗濯は大きな物は慣れない人がやると時間ばかりかかってはかどりませんからやらなくて結構です。洗濯屋に取りに来てくれるように頼んであります。小さい物であっても持って行ってくれますので洗いきれないものがありましたら出してくださいね。洗濯室の使い方は……」
「わーーー! ハンナ、大丈夫よ! 私、時々手伝っていたからちゃんと出来るってば! 台所だって大丈夫! それより早く行かないと馬車の時間があるでしょう?」
リョウがすでに昨日から何度も聞いている指示を繰り返すハンナは、子供を留守番させる母親のようでとても微笑ましいのだが、微笑ましすぎてリョウはつい口元が緩んでしまう。
「……ハンナ。奥様は子供じゃないんだ。それにそろそろ出ないとせっかくいただいた休暇の第一日目が馬車に乗り遅れて無駄になる」
呆れたようなコーネリアスの声にようやく我に返ったハンナが「あら! あらあら! 嫌だわ、わたくしとしたことが!」と真っ赤になって台所の入り口に置きっ放しの小さめの鞄を拾い上げ、そそくさとコーネリアスの後ろについて玄関に向かって歩き始めた。
「ああでも、こんな日に出かけるなんて……何だか心配ですわ。奥様、今日はお一人じゃないですか」
ハンナがコーネリアスの後ろを歩きながらそんな一言をこぼす頃には見送りのリョウを含めた三人は玄関まで来ていた。
「大丈夫よ! 二人が来てくれる前はいつもこんな感じだったんだし! それに防犯的なことで心配してくれるんならそれは無用よ。私強いから!」
……そういうことではありません。と言いたげな瞳のハンナにリョウはにっこりと笑って見せて。
「コーネリアス、ハンナとちゃんと楽しんで来てね! 仕事のことは忘れてしっかり休暇を楽しまなきゃダメよ?」
コーネリアスが微笑みながら礼儀正しく頭を下げるのを見届けてからリョウはハンナの背中を押すようにして二人を送り出した。
「さて、と」
一息ついてリョウが家の中を見回す。
うん。静かだ。見事に誰もいない。びっくりするほど、誰もいない。
ようやく旅行の計画が出来上がったコーネリアスとハンナが今日から一週間ほど出掛けることになった。
そして、アルフォンスが「上の責任者と話し合いをする」と言っていたのが昨日から始まっており、今日はグウィンとその護衛であるアウラも呼ばれている。
レンブラントはいつも通り朝から仕事。彼の場合、ただでさえこの度のことに関しては会議に出席は必須なのに、アルフォンスが会議でいない間に溜まっていく診療所の事務的な仕事もアルフォンスと分担して片付ける事が任されたようで昨日から仕事が終わるのも遅くなった。
そんなわけで、ここでの午後からの仕事も休みになっている。
「午後のお茶も……誰もこないのよね……」
リョウがポツリと呟く。
会議が長引く上、診療所での仕事もあるのでさすがのアルフォンスもお茶をしにこっちまで来ることはない。
グウィンたちの帰りも夜になるだろう、もしかしたら夕食は済ませてくるかもしれない、とも言われた。
……こんなに暇になるのなら誰かの所に遊びに行こうかな……なんて思ったら、そうか……ザイラもいないんだっけ。
つい条件反射のようにザイラとゆっくりお茶でも、なんて思ってしまったが彼女も父親と旅行に出ているのだ。彼女が出掛けてからしばらく経つが、ハンナたちのように短い休暇というわけではない。だいぶゆっくりしてくるつもりなのだろう。クリストフは仕事もあるし家に残っているらしいが……彼の場合は仕事に追われている身。家でゆっくりなんかしていないだろうし、していたところで訪ねて行くような相手でもない。
ルーベラに至っては週末は休みだろうが……今日は仕事だろう。
「掃除……はコーネリアスが毎日していたから今日やるほどのこともないわね……食事の支度……も今の所は必要なさそうね……」
今日は夜、レンブラントたちが帰ってくるまで一人だ。そしてハンナとコーネリアスは昨日のうちに洗濯や掃除といった仕事を全力で片付けてくれていていつも以上に家の中は綺麗だ。食事の支度に至っても保存の効きそうな料理をハンナが今朝までに色々作っていってくれているので差し当たって今作らないといけないものもない。ご丁寧に焼き菓子まで数種類ある。
「……あ、ハナのところに行こう」
最近、厩舎の世話係に任せっぱなしになっていたハナ。
時々適当に厩舎から抜け出してきて気がつくと窓の外で草を食んでいたりレジーナと遊んでいるように見えることがあるが、適当な時間になると自主的に厩舎に戻るので騒ぎにはならずにいた。頭のいいハナを厩舎の世話係たちも理解しているようだった。
それでも。
実は最近、ちょっとリョウも思うところがあったのだ。
城の敷地内にある厩舎に向かって歩いているところで見覚えのある赤毛の馬がこちらに向かって頭をもたげるのが見えた。
「ああやっぱり、今日も出てきちゃってるのね」
リョウがふわりと微笑んだ。
嬉しそうに近づいてくるハナはいつも通り毛艶も良く、黒い瞳は宝石のように輝いている。
「……おまえ……偉いね、ちゃんと察してるのね」
リョウが単に遊びたくてハナを迎えに来た時であれば浮き浮きしたような様子が窺えるハナが、今日は静かに擦り寄ってくる。
「そろそろ、ハナも自由になりたいでしょ?」
リョウがハナの首に腕を回してそっと唇を寄せた。
リョウの「ちょっと思うところ」というのは。
ハナは聖獣だ。いわゆる騎士の馬のように人に従うように訓練された馬でも、家畜でもない。
強い意志を持ち、目的を持ち、何より自由な生き物。
人に拘束されて生きる必要のない、生き物だ。
家畜はそもそも人の世話がなければ生きていけない。騎士の馬はもともと野生種だが人に従うように訓練されているせいで、もはや野生に戻したところで上手く生きていけないだろうと言われている。
でもハナは。
今のところ、リョウを乗り手として選んでいるのでリョウが望む限りはリョウに従ってくれている。だからリョウが住まいと決めている家の近くにある厩舎に落ち着いている。
それでも、今のところ、リョウにとって騎乗しなければいけない状況は滅多にないのだ。以前のように戦いの必要があるわけでもない。
例えばこれがセイリュウのところだったら話はまた別だろうとも思う。
あそこは竜族の者に囲まれた環境だ。聖獣にとって居やすい環境だろう。竜族ならば、自分たちが使役する聖獣を尊厳をもって扱う。
でもここは違う。周りは人間。いくら知識でリョウの立場やハナの生態を知っていて丁寧に接してくれるとしてもそういう人間の心の根底にあるのは殆どが単なる興味、もしくは怖れ、だろう。
ハナはそういう接する相手の心を敏感に察する。
だからこそ、そういうハナ自身にとって「不快な」感情を一切持たずに近づいてくるザイラには心を許す。
「……今まで我儘に付き合わせていてごめんなさいね。おまえは自由でいていいのよ」
リョウがもう一度抱き締める腕に力を入れた。
都市から出そう。
と思ったのだ。
人に世話されるこの環境から解放してあげよう、と。
今までそれが出来なかったのは、私の我儘だ。
自分に近しい存在を、なるべく側に置いておきたいという。
そんな気持ちが根底にあって、「ザイラが寂しがるだろう」とか「何かあった時にすぐ使える」とか「世話係にも好かれている」とか、ここに留めておく理由をこじつけていた。
でも、ザイラ不在の間なら。
……恐らく一番強く引き留めたがるのは彼女だろうから、彼女がいない間になら、私の意思がぐらつく前にお別れできそうな気がする。
リョウが身を離すとハナは名残惜しそうにリョウの方に一歩近づき……。
「……うわ!」
なぜか頭突きしてきた。
「ハ……ハナ! 力加減!」
リョウが尻餅をつきそうになって慌てて態勢を整えて叫ぶと、そのタイミングを計ったかのように……。
「ええ! ちょ、ちょっと!……ハナ!」
再び頭突き。
よろよろと後ずさるリョウめがけてハナの頭突きは止まる様子がなく。
「わ、分かった! 分かったから!」
不思議と物言わぬ聖獣から、意思のようなものが流れ込んできてリョウが情けなく笑って、改めてその首に抱きつく。
「今生の別れなんて思ってないわよ! ここに拘束するのが申し訳ないと思っているだけ! 必要になったらまた駆けつけてきてくれるんでしょ? それに……気が向いたら遊びに来てくれるのよね? おまえに城壁は障害じゃないものね?」
そう言ってリョウが自分の頭をハナの首にぐりぐりと押し付けるとハナが満足げに小さく頭を下げて。
リョウが腕を緩めると同時にその身体が鈍く輝き出した。
その光が翼の形を取り、大きく羽ばたく。
美しい光景だ、と思う。
リョウが思わず見惚れるのは、鈍色の光を纏う赤毛の馬が翼を広げて舞い上がり宙を駆けるように翔ぶ姿。
あれに自分が乗っていたことがあると思い出すだけで誇らしい気持ちでいっぱいになる。
それでも嬉しそうに上空をくるりくるりと旋回しながら駆けるハナは、ここから解放して正解だったのだと思えて仕方ない。
東の森の方角に消えていくハナを見送りながら、ああ、レジーナも自由に都市の中と外を行き来していることだろうし、どこかで意気投合なんかしていたら良いな、なんて思ってみたりする。
……さて。
厩舎の世話係にはなんて説明しようかな。
一旦かなり上空まで駆け上がってから飛んで行ったとはいえ……都市の中にもこの光景を目にする者がいたかもしれない。
もしかしたら変な噂が立つ前にきちんと説明したほうがいいかもしれない。
まずは自分たちの手落ちで「聖獣を逃した」なんて思わなくてもいいように厩舎の世話係に話をしよう。
リョウはそそくさと厩舎に向かった。
そして。
昼をちょっとばかり過ぎた頃。
リョウが少々げんなりしながら厩舎の方向から自宅へ向かって歩いている。
心なしかよろよろと歩いているように見えるのは……彼女の気分が「疲れ果てて」いるせいだ。
まぁ、それも仕方のないことで。
厩舎の世話係に話をしに行ったところで厩舎にいた者たちがまずパニックになった。
彼らにしてみれば、馬は都市の財産。その貴重なものを預かる身。馬に何かあったらただでさえ相当の責任を問われる。
それが、いなくなったのは聖獣。都市の守護者の馬だ。
いくら当の守護者本人が自分の意思で逃したとはいえ、ハイそうですかで済む話でもない、らしい。
まずその場の責任者が血相を変えてどこかへ走り去り、リョウはさらにその上の者に説明をする羽目になり、この件について誰にも責任は問わないという書状に署名することになり……その間ずっと謝り続ける本日当直だったらしい世話係の若者に「あなたは悪くない」と言い続け。
……もう。
ハナは私の所有なんだから私が自由にして当然じゃない。
なんであんなにいろんな人にああだこうだ言われなきゃいけないのよ……。
虚ろな目をしながらリョウが内心ぼやく。
まるで乗り手の私を無視して「この馬はこちらで管理しています」とでも言いたげなあの扱い……。だいたい、ハナは都市の所有物なんかじゃないんだから!
そんな扱いだからハナだって居心地悪いんじゃない……!
そんなことを考えながら。
何かモヤモヤした別の感情も湧いてくる。
何か……目を向けたくない……そういう考え方の根底にありそうなものに対するモヤモヤした感情。
「……あれ?」
不意に虚ろだったリョウの目の焦点が合った。
視線の先には自分が向かっている自宅へと続いている回廊。
城と、守護者の館と呼ばれるリョウの自宅の裏口の間には回廊が設けられている。普段あまり頻繁に使われるものではないが、今のところアイザックが資料を運ぶ時やレンブラントが直接城にある会議室や司の部屋に出向かなければならない時にはここを使っている。……まぁ、本来は都市の守護者であるリョウに敬意を表して、その館と都市の中枢である城を繋いで彼女が政に関わることを都市が公に認めていることの証とする為の建造物だ。
で、ただいま、その回廊を物凄い勢いで、しかもただならぬ顔つきで走ってくる男が二人。
「……レン? と……アイザック?」
何事? とばかりに目を丸くしたリョウがちょっと離れたところから声をかけた。
言ってみれば同じような方向に向かっており、彼らは恐らく全力で走っているのでリョウが庭を歩いて同じ方向に向かっているのは目に入っていない様子だった、ので。
「……リョウっ?」
急停止したレンブラントがまず声をあげ、回廊の中に続いている柱のうち一番手近なものにすがりつくようにしながら脱力したように屈み込んだ。
「……守護者、殿っ?」
レンブラントの後を追うように走っていたアイザックは一度軽くレンブラントを追い越してからリョウの方に気づいたようで同じように一つ先の柱に掴まるようにして身をこちらに乗り出し声をあげた。
……ああなんだか嫌な予感がする。
リョウが眉をしかめながら彼らの方にゆっくり歩み寄ると。
「守護者殿、聖獣を、逃しましたか?」
息切れの合間を縫ってアイザックが掠れたような声で聞いてくる。
ああやっぱりその件か。
なんて思いながら。
「ええ、それが何か?」
リョウが口元に薄い笑いを浮かべながら答えると。
「なんて事をしてくれたんです! お陰で上は大騒ぎですよ! 聖獣が都市から逃げて守護者まで一緒に出て行ってしまったのではないかと! いいですか? あなたはこの都市の守護者なんですよ! この都市にとどまる義務がある! この都市にいる事を民に印象付けて安心させる義務があるんです!」
肩で息をしながらアイザックが身を乗り出して叫ぶように言い放つ。
で、リョウは。
意外と冷静、だったりする。
うん。そういう事だろうと思った。まぁ、向かっている先が守護者の館、今は使用人も暇を出しているから私しかいないと分かっている建物に、そこの住人でもある夫と一緒に向かうということは私に用があるという事で。
さっきの厩舎の一件を踏まえると、ハナがいなくなったことは結構な騒ぎになっているのだろう。
それに、さっきから目を向けたくないと思っていたモヤモヤした感情。
そちらに、否が応でも目を向けさせられそうになっている。
「だから私はここにいるじゃないですか。私が自分の役目を果たしていればいいだけのことでしょう?」
思っていたより、冷静な声が出た、と思った。お陰で頭の中がちょっと整理できてきた。
が、しかし。そのリョウの声にアイザックは冷静さを失ってきたようで。
「そういう事を言っているんじゃありません! 自分の行動に責任を持てと言っているんです! あなたの行動は良くも悪くも周りに影響を与えるんですよ! そういう事をなんの報告もなくされると困るんです!」
「ハナは私の所有です。私がどう扱おうとあなたがたにどうこう言われる筋合いは無い。……それとも私は自分の所有するものに関する自由も持たない身ですか?」
リョウの声はいつもより低く、その目にはいささか不穏な光さえ宿っている。
アイザックの隣で先程から息を飲むようにしてレンブラントがそのやりとりを見守ってはいるのだが、割り込む隙はない。
「……そうですね。こういうことに関してはあなたに自由を与えられているとは聞いていません。あなたはこの都市の所有物だ……」
「アイザック!」
ようやくレンブラントがアイザックのセリフを遮るように声をあげた。
でも。
「そう。所有物。ふうん。いいけどね。十分よ、それで。でも都市に囚われるのは私だけで十分でしょう。ハナは関係ない。……それに」
リョウが目を細めて薄く微笑む。
まるで、敵を威嚇するような微笑みだ。
「私が自分の意思で、ここを守ってもいいと思うから契約した事をお忘れなく。私がここに居るのは私の意思よ。……ここが守るに値すると思えたから、私の意思でここに居るの。それ以上のことを強要される覚えはないわ」
目を向けたくなかったものはこれだ。
自分の存在意義。
この都市にとって、自分は道具に過ぎないという事。竜族の、人には理解しがたいほどの力を持つ言わば一種の兵器。そんな道具をこの都市が持っているという事実は、近隣都市との力のバランスを保つのに今や必須になっているのだろう。
だから、都市としては守護者を何が何でも留め置かなければならない。
私個人という人格的存在なんかどうでもいいのだ。だから感情的、精神的に繋ぎ止めることが必要で、夫があてがわれ、仕事が与えられ、仕事仲間が欲しいと言えばそれも与えられる。都市との繋がりを増やす為のものはきっと「貴重な兵器」を留める為の必要な費用とでも考えられるのだろう。
私個人を尊重してのことではない。
だから、私が人格を持つものとして行動すると、きっと困るのだ。
意思があるものとして動くと、困るのだ。
西の都市の人たちは暖かい。
そんな風に、ずっと思っていたかった。
ここの人たちは過去に私が関わってきた人たちとは違う。
ここは居心地がいい。私を喜んで受け入れてくれる。
そんな風に思っていたかった。
でも、所詮、人間。どこか同じものをみんな持っているのだ。
一人一人が良い人でも集団になれば話は別。
そういう事なのかもしれない。
そんな、当たり前のことから目を背けたくて、自分の立ち位置を客観的に再認識したくなかったのだ。
それを再認識してしまうと、もっと奥深くにある別の、もっと深いところで結んでしまった大切な絆さえも脆く崩れてしまいそうになるから。
ほら、だって、その絆を結んでしまった人でさえ、さっきから息を飲んだように私を見ているけれど、何も言わないじゃない。
名前すら呼んでくれないから、私はそちらに目を向けることもできない。
だから、涙だって出ない。
「……私を都市に繋ぎとめておきたいのならもう少し上手に機嫌を取ることね」
目の奥に力を込めながら、細めた目でリョウがアイザックを一瞥する。
紅く揺らめく瞳に気圧されてアイザックが息を飲み、勢いで一歩後ずさるのを楽しそうにリョウは眺めてからくるりと踵を返し、家に向かってゆっくりと歩き出す。
……うん。
なにかが、崩れた、かもしれない。




