小さな問題
「リョウ……いつもと違う匂いがしますね……」
バスルームから出てソファでくつろいでいるリョウの隣に座ったレンブラントがリョウの腰に腕を回すと首筋に顔を埋めるようにして髪の匂いを嗅ぐ。
「あ……うん。こないだヴィオラさんのところで新しい石鹸買ったの。いい匂いだなって思って……レン、これ嫌い?」
確かめるように何度も匂いを嗅いでいるようで一向に離れる様子のないレンブラントにリョウが少し不安になりながら訊いてみる。
ヴィオラの石鹸は使っている時には香るけれど残り香は薄くて、香りの種類を上手に選ぶと香水との相性も良い、はずだった。
「いや、いい匂いですね。……好きですよ」
囁くような声にリョウの体がびくりと震えた。
……あ、匂いよね。匂いが好きだって言ったのよね。耳元でこういう事を言われると自分に言われているようで……。
そんな事を考えながら頰が熱くなってくるのを自覚した途端。
耳に唇が触れてちゅっと小さな音がして、そのあと首筋に唇が触れる。
「え……あ……ちょっと……レン、やだ……待って……」
思わず首をすくめるようにしてレンブラントと距離を取りながらリョウが身を離そうとすると。
「なんですか今さら」
レンブラントが腰に回した腕に力を込めながら不服そうに食い下がるので。
「だって、レン、まだシャワーしてないでしょ」
言い訳がましく半眼になってリョウがレンブラントを睨みつける。
別にね、汗臭いとかそんなことはないんだけどね。そうしょっちゅうイチャイチャしてるのもどうかと思うのよね。うん。今日は拒否の方向で。
「どうせひと段落したらシャワー浴びるからいいじゃないですか。ああ、リョウはそのままでいいですよ。眠った後に体を拭いておいてあげますから」
……こ、この人……かなり本気で抱く気だったんだ……。
リョウの体が一瞬強張り。
「今日は結構です! 私、ちょっと考え事したい気分なの!」
リョウの言葉と態度にレンブラントが「ええー」とわざとらしく拗ねてみせる。
苦笑しながらもレンブラントをバスルームに追いやったリョウはノロノロとソファから立ち上がり、ベッドに向かう。
掛け布は、中に潜り込むというより端っこをぎゅっと抱きしめるようにしてころんと寝転んで。
……ちょっと考え事をしたい、と言ったのはあながち嘘ではなかった。
最近、少々気になることがあるといえば、あるのだ。
香りのいい石鹸と香水で気分を和らげることで難しい事を考えるストレスからの解放を試みたのだが、一度頭の片隅にしまっていた「考え事」を改めて引っ張り出す。
最近仕事で読んでいる文献。
歴史的な内容であることからリョウ自身の持っている知識では正誤の判断はつきにくいものが多かった。
そうは言ってもそもそも守護者の館に回って来る前の段階で、ああいった文献は専門家のチェックを受けている。都市に集まってきていた者たちの中に歴史書の権威と言われる者も含まれており、彼らの持っている情報を元に彼らだけでは手に追いきれない内容もきちんと網羅できるように各地に散っている同業者たちが集められ、ある程度の信憑性は確立されている。
人の歴史という観点では。
なので、リョウたちがやっているのは記述同士に矛盾がないかの最終チェックと……竜族の観点でどこまで情報を開示していいかの判断だ。そして多少入り込んでいる竜族への偏見に基づく記述の削除。
偏見というのは、当の筆者が自覚していないものもあるのでちょっとした表現とか、書かれている記載の順番とか、そんな些細なことにも気をつけて訂正したり削除したりする必要があるのだ。
で。
「……グウィンがいるとはいえ……もっと知識量がある人の最終チェックって必要よねぇ……」
ため息を吐き出すのと同時にリョウが呟く。
グウィンはあちこちを旅して回っていたという立場上、持っている知識量が半端ない。それはこの仕事をする上でかなり好都合なのだが。
そんなグウィンでも最近たまに首を傾げていることがある。
グウィン本人の記憶だけではなく、グウィンが昔他の人から聞いた話とかが絡んできたりするとどこまで正確なのか分からない事も文献の中には混ざっているのだ。
なので。
もっと知識量のある人……と思うと……。
「ラザネル……あたりだろうなぁ」
東のセイリュウのところにはゲンブという男がいた。彼なんかもある程度歳もいっていただろうし信頼できそうだったけど……おそらくは。
水の部族の教育の高さ。
あの幼かったスイレンでさえかなりの教養があったように思えた事を考えると、土の部族より水の部族の方が物事を客観的に記録して保管していたりするのではないか、と思えたのだ。
そして、ラザネルはその地で宰相という立場だった。さらには言ってみれば支配者家系の直系だったはず。本人の記憶も公式に当てにできるものと思われる。
だとすると。
会いに行ってみた方がいいんじゃないだろうか。
それも多分、誰かに任せるとかじゃなく、私自身が。
で。その場合。
レンは……行けないのよね。
極寒の地に、しかも行った先に人が生活できるような備えもないんだから人間を連れて行くわけにはいかない。
さらに、グウィンはここでは人間という設定になっているので彼も連れて行けない。
守護者という立場上おそらく一人で都市を離れるのは不可能で、そうなると……誰か供の者をつけなければいけなくて、そうなるともうアウラしかいない、のだ。
さて、それを、レンやグリフィスは許可するだろうか。
と、思う。
そしてさらにもう一つ。
心の隅で引っかかっていることがある。
最近読んでいる文献の中に時々目にする「司の印」なるもの。
公式の文献と都市が認めたものに付けられる「司の印」というものがある。
各地から集めたものなので、まだここ西の都市の「司の印」のあるものは出てきていないのだが。
「司の印」のある文献はいかなる事情があろうとも内容に手を加えることが禁じられている。手を加える必要ないものとして中身がすでに権威者によって確認されて、その事を都市の司本人が確認した、という「印」なのだ。
言ってみればその文献を訂正されるなんて都市の沽券、ひいては都市の司の沽券に関わる事だ。
それでも、中には竜族への偏見まがいの表現が混ざっているものがあり、それをどうやって穏便に上に報告しようかとアルフォンスが考えてくれている。
でも、いずれこの都市のものが出てきた場合、それを訂正するように要請することはさらに難しいんじゃないかとリョウは考えている。
アルフォンスだって、レンブラントだって、言ってみればグリフィスの熱心な支持者だ。そのグリフィスが承認したという公式の「印」が付いている文献を軽く扱うようなことは出来ないだろう。
リョウ個人としては、まぁ、見なかったことにしたって良いかな、と思ってさえしまうのだ。事を荒立てないために。
都市の司の印があるだけあって大それた間違いとかではない。
単に今やっている仕事が「竜族と人との完全なる公正」を目指したりしているもんだからちょっとした偏見的な記述や、出来事の詳細が曖昧な場合に人の側に都合が良いように書いている、といったことが引っかかってくるというだけで。
目を瞑ってしまったら良いんじゃないか。最初にそう思いかけた時、まず、グウィンが顔をしかめた。
「これ、セイリュウやスイレンに胸を張って見せられるか?」
そう聞かれてリョウは言葉に詰まった。
そうよね。こんなの見たらセイリュウはまた人間嫌いになるだろう。スイレンだって嫌な思いをするに違いない。
そう思うから「穏便に済ませられるようにちょっとやり方を考える間、預かります」と言うアルフォンスにすんなり任せてしまった。
そんな経過を見守りながらふと、不安になったのは。
西の都市の「司の印」が付いた文献が出てきた時の彼らの反応を想像してしまったから。
彼ら。……つまりアルフォンスとレンブラント。
「これは特別」というニュアンスが感じられるようなことがあったら、グウィンが黙っていないだろう。そうなったらまずこのメンバーの中だけでもかなりの亀裂が入る。
さらにはそれを見越して先に隠すとか、何か怪しい行動があるなんてことがあったら……そんな事態に陥らせてしまったことに私自身が耐えられなくなるかもしれない。
そしてそれは……私やグウィンよりグリフィスを優先する、という事をはっきり証明してしまう事になるから……多分、私は深く傷付く。
いや、もっと俗っぽい言い方をすれば、レンブラントが妻である私より父親を優先するところを見たくないのだ。
ずっと心の中でくすぶっている不安が、実際の形になってしまうのが怖い。
そんな様子を見てしまったら……いつか自分が役目を終えてここから追い出される日までどうやって過ごして良いかわからない。
いつの間にか……傷付くのがこんなにも怖くなっていたんだ……。
そう思うと胸の奥がズキズキと痛む。
リョウの背中にふっと人の気配がした。
「ん……?」
あれ、レン、いつの間に戻ってきたんだろうなんて思いながらゆっくり寝返りを打つと温かい腕が背中に回ってそっと抱き寄せられる。
「……おいで」
優しく囁くレンブラントの声にリョウの胸がどきりと高鳴った。
レンブラントが小さく笑みをこぼしてから「そんなに端にいたら落ちますよ」なんて言って顔を覗き込んでくる。
「……え……あ……うん」
ああそういえばかなりベッドの端にいたな、私。なんてノロノロと考えつつリョウが擦り寄るように近寄ると、満足げに息をつく気配がした。いつの間にか部屋の照明は落ちている。
ついでにちょっと伸び上がってレンブラントの首筋に顔を埋めると。
「ああ、なんだかすっかり起こしてしまったみたいですね」
相変わらず囁くような声。その代わり背中に回された腕には力が込められてしっかりと抱き込まれた。
「寝てなかったもん」
リョウが口を尖らせる。
寝てない、と思った。目は閉じていたけどずっと考え事してたし。
なんて自分が考えていた事を振り返るリョウにレンブラントがくすくす笑い出しながら。
「よく寝てましたよ。声かけても起きなかったんだから」
う……。そうなのか……。
リョウは閉口した。
「疲れていたみたいですね。……リョウの場合は気疲れ、かな? 大丈夫ですか?」
「えっ? あの……べっ、別に気疲れなんて……!」
なんで考えていたことがバレたんだろう! なんて思うのでちょっと後ろめたくなったリョウがしどろもどろになる。
するとレンブラントの、背中に回った腕にさらに力が入りもう片方の手がリョウの頬を撫でた。
「リョウの場合、体が疲れてもあっという間に回復するでしょう? 考え事をしたいって言っていたし……なんだかね、さっき眉間にしわを寄せたまま眠ってたんですよ? ……ちょっと心配になったものだから」
そう囁くとレンブラントが額を寄せてくる。
「あ……そう、だったの……」
ああびっくりした。てっきり考えていたことが丸っとバレたのかと思って焦ったけど、単なる推測、だったのね。
そう思ってリョウが安堵する。
「大丈夫。大したことじゃないの。全然平気」
口元に笑いも浮かべてみて。
レンブラントは納得しかねる、といったため息を一つついたが特に咎めることもなくそのままリョウの額にキスをして「愛してる」と囁いてから。
「……今日のところはもう寝なさい。ちゃんと休んでもまだ悩むようなら僕が話をいくらでも聞くから……話してくださいね」
「……ん、わかった」
リョウが小さく答える。
実のところしっかり抱きしめられた安心感で眠気が再び襲ってきている。
レンブラントの「おやすみ」という一言はもはやリョウの耳には入っていないのかもしれない。




