お菓子作りの再開
「うわぁー、リョウさんのケーキだ!」
真っ先に歓声をあげたのはアウラだった。
「ああ、久しぶりですね。やっぱりリョウの手作りは和みますね。早速いただきます」
目を細めて嬉しそうにアルフォンスが手を伸ばす。
「えっと……ハンナのお菓子だってかなり美味しいんだからそんなに喜ばれるほどのものじゃないと思うんだけど」
ついにリョウが恐縮した。
午後の休憩にハンナが運んできたワゴンには、午前中ハンナが作っていた二度焼きしたクッキーと、リョウが急遽作ったチョコレートケーキが用意されていた。
久しぶりにリョウがお菓子作りを始めていたのでそれに気付いたコーネリアスが珈琲を用意してくれたりして今日は午前中、ハンナとコーネリアスとも会話が弾んだリョウだった。
いきなり台所から遠ざかったリョウをさりげなく二人は心配していたようで、詳しい事情を話すことはないにしてもリョウがまた楽しそうに台所で作業をし始めたことを二人は喜び、安心したようだ。
そんな二人の様子をリョウも素直に嬉しいと思えた。
そんな風に気遣ってくれている人がいるというのはありがたいことだ。
いつもとちょっと違うことをしている、というだけでその変化に気づいて心配してくれるなんて。自分のような者にも目を留めてもらえている、というのは本当に、ありがたいことなのだと思う。
そんな喜びを噛み締めていたところで、ハンナが簡単な給仕を終えて退室するとそのタイミングを待っていたかのようにアウラの派手な反応があった。それに続いて追い討ちをかけるように、アルフォンスの褒め言葉だったのだ。
うわ、どうしよう。
初めて手作りのお菓子を食べてもらった時のような、変な気分だ。意味もなく顔が熱い……!
リョウが本格的に照れ笑いを隠しきれなくなって両手で頰を包むようにして顔を隠す。
「ハンナが作るものももちろん美味しいですけどね。僕はリョウが作るものが好きですよ」
心なしか「僕は」のところを強調するようにしてレンブラントがケーキを口に運ぶ。
「今日のケーキは俺が頼んで作ってもらったんだ。これが食べられるのは俺のおかげなんだからな、皆、俺に感謝しろよ。そしてその分俺には余計にもらう権利があるぞ」
四角いケーキ型で焼いて大きめの皿に盛り付けたチョコレートケーキに手を伸ばしながらグウィンがそう言いつつまとめて3切れ自分の皿に取り分けた。
「待ちなさい。どう見ても一人二切れまでです」
すかさずアルフォンスがグウィンの皿から一切れを取り上げる。
「おわっ! 何しやがる! 人の皿から奪うなんざ大人のすることじゃねーぞ!」
……あー、ごめんなさい。本当に急いで作ったから普段作る半分の量でしか作れなかったのよ!
リョウが心の中で謝罪する。
それでも少し厚めに切り分けて12切れに分けたのだ。その内両端二切れはハンナがコーネリアスと食べたいと言うのであげてしまった。
「グウィンが大人気ないのがいけないんです。だいたい誰のせいでリョウのケーキが食べられなくなったと思ってるんですか」
声を上げるグウィンに冷ややかに声をかけるレンブラントをグウィンが無言で睨みつける。
「……っあー、わかったわかった。私が悪かったわよ。なんならグウィンには私の分あげるから」
リョウが見兼ねて自分の皿に一度取り分けた一切れをグウィンの皿に移す。
……まぁ、確かに、グウィンのおかげでまた作る気になったんだし。そもそもこれはグウィンがリクエストしたものだし。
「ええっ?」
途端にアルフォンスが情けない声をあげた。
その目はまるで、不公平な扱いを受けて絶望した子供のようだ。
なので。
「あ、そっか。えーと……アルも私のお菓子待っててくれたの、ね?」
くすりとリョウが笑う。
そんなに楽しみにしてくれていたなんて、ものすごく意外。……もしかして昨日来てすぐに帰ってしまったというのも、そのせいだったりするのだろうか?
なんて思えるものだから。
「じゃ、もう一切れはアルに上げるわ。はいどうぞ?」
席から立ち上がりながらリョウが大皿にまだ残っている中から一切れをアルフォンスの皿の方に差し出す。
「いっ……良いんですか?」
アルフォンスが目を潤ませた。
……そんなに嬉しいのか……。
リョウがうんうんと笑って頷くとアルフォンスがさらに目を輝かせた。
「ず……ズルくないですかそれ……っ!」
ふと気付くとアウラが恨みのこもった目でリョウを見つめている。
「ふん、子供はすっこんでろ。チョコレートのケーキは大人の食べ物だ」
ふふんと笑ったグウィンがアウラに見せつけるようにしてケーキを頬張る。
「年齢だけなら俺、アルより上ですけど……っていうか何が大人の食べ物ですか! そういうものはエネルギーの消費率の高い俺が優先的にもらったって良いじゃないですか!」
「そういう問題ではありません。エネルギー消費のために食べるなんて罰当たりもいいところですよ。アウラ」
静かに言い放ったアルフォンスは皿の上に乗った新たな一切れを大切そうに口に運んだ。
自分が作ったものをそんなに喜んで食べてもらえるなんて思ってもいなかったので、リョウは三人の様子をついまじまじと見比べながらハンナの作ったクッキーを齧る。
……いや、これだって相当美味しいから。このカリカリサクサクした歯ざわりと程よい甘さに、中に入っているナッツの香ばしさの絶妙な調和感。コーネリアスの珈琲はそのままのものとミルクを入れたもの二種類用意されているけど、個人的に気に入っているミルクの入ったものの方に、ちょっと浸して食べると今度はまたしっとりほろほろの別物になるという代物で。
……はぁ、幸せ。
カップを置きながらついうっとりとため息をついてしまったリョウが我に返って隣を見るとレンブラントと目が合った。
「……えっと……美味しい、わよ?」
あまりにも真顔で見つめられていたので、リョウが慌てて小さく微笑みながら首を傾げてみる。
みっともない食べ方でもしていたかな……と気恥ずかしくなったので照れ隠しだ。
「あ、ああ……そうですね。とても美味しそうだ……僕もそれをいただきます」
途中からくすくす笑いながらレンブラントが手を伸ばしてクッキーを取り珈琲に浸す。レンブラントのコーヒーは、今日はミルク無しだ。
うん、それも美味しそう……! さっぱりしてクッキーの味がさらに引き立つに違いない!
リョウがつい目で追ってしまってクッキーを口に入れたレンブラントと目が合ったところでレンブラントの動きが止まった。
「……」
半分になった手元のクッキーに目を落として何かを考えているレンブラントの動きを目で追っていたリョウがハッとした。
「……ぅあ、レン、大丈夫よ? 私はこっちで今のところ満足してるからね!」
「え……そう、ですか?」
途端にレンブラントが残念そうな顔になり……。
うん、今そのクッキーを私の口に運ぼうとしたのよね。二人きりでいるんならまだ良いとして、今この場で、それは絶対、ダメ。
リョウは口元を引きつらせながら自分のカップを口に運んだ。
夜。
バスルームから出て部屋に戻ったリョウはソファにレンブラントの背中を見つけて隣に座るべくソファを回り込む。
で。
「……あれ?」
テーブルの上にお酒の用意があり、その隣にチョコレートのケーキが一切れ乗った皿。
「どうぞ」
レンブラントが酒杯を一つ取り上げてリョウの方に差し出すのでそのまますとんと隣に腰を下ろしてそれを受け取る。
瓶から注がれるのは綺麗な色の葡萄酒だ。
「え……ねぇこのケーキ……」
リョウが眉をしかめた。
「だってリョウ、全く食べていなかったでしょう? 味見も出来てなかったんじゃないですか?」
レンブラントがくすくす笑いながら皿を手に取り、リョウの方に差し出した。
「ああ……うん、そうね。まぁ、味はいつも通りに作ったから不味くはないだろうと思ったし……他にハンナのクッキーもあったから私は食べなくてもいいかなと思ったんだけど」
そういえばレンブラントは一切れ食べただけでそのあとはクッキーばっかり食べていたな、とリョウが昼間の記憶をたどってみる。あれを……わざわざとっておいてくれたんだ!
「このケーキ、チョコレートの味が濃厚でしたからきっと葡萄酒にも合いますよ」
ふっとレンブラントが笑う。
……うわ。これは……反則級の気遣い。そして笑顔がさらに追い討ち。
ぶわわわっと音がしたんじゃないかという勢いでリョウが顔を赤くした。
「……まだ飲んでませんよね?」
レンブラントが笑いながら顔を覗き込むので、リョウが慌てて顔を背けて照れ隠しに葡萄酒を口に運ぶ。
「……あ、美味しい」
柔らかい口当たりに華やかな香り。喉に落ちた後の余韻はいつも飲むものよりも軽く……これはどんどん飲めてしまうかも。
「今日アルと一緒に買ってきたんですよ。どうやら昨日はリョウのお菓子が食べられるんじゃないかと期待して来たら空振りだったらしくて……そろそろ復活させてくれないかと頼まれたところだったんです」
少し決まり悪そうにレンブラントが説明する。
「わ。アルと一緒に? じゃ、これ、アルのお勧め?」
カップの中を覗き込みながらリョウが尋ねる。
「ま、そういうことになりますね。……僕たちが二人でゆっくり時間を過ごして話でもして、リョウがまた元気にお菓子作りを楽しめるようにしなさい……っていうこと、らしいです」
ふとリョウがレンブラントの方に視線を向けると、完全にそっぽを向いたレンブラントは片手で口元を隠したまま決まり悪そうに視線を泳がせている。
「……もしかして……アルに怒られた、の?」
リョウが眉間にしわを寄せてレンブラントの顔を覗き込む。
「……」
レンブラントが黙り込んだところを見ると……うわ。これはきっと怒られたんだ。
「ごめんなさい。あの……別にレンは悪くないのに……私が変に気にしすぎてちょっと台所から遠ざかっただけだったんだけど……」
「ああ、いいんですよ。リョウが謝ることはない。リョウなりに色々考えてのことだったでしょう? 僕はリョウの気持ちは尊重しますからね。ただ……」
ことり、とレンブラントが手にしていたケーキの皿を一旦テーブルに戻した。
そしてゆっくり体ごとリョウの方に向き直り、片手でリョウの頰を撫でながら。
「辛いなら僕が助けるから何でも言いなさい。一人で我慢する必要はない。……今回はその役をグウィンが持って行ってしまったみたいでなんだかすごく複雑なんです」
「あ……」
そうか。グウィンも自分から公表してたもんね。
いやでも、今回のことはグウィンが原因だからそれで良かったんだけど。
そう思えるのでリョウはへにょっと笑いながら。
「うん……それも、ごめんなさい。私、グウィンが亡くした彼女のこと思い出して辛いんじゃないかと思ったもんだからなんとなく作るのやめてたんだけど……今日、大丈夫って言われて。それに、やっぱり私が作ったお菓子を食べたいなんて面と向かって言われたもんだから……それに、あの、まさかここまでみんなに待っていてもらえてたなんて思ってもいなかったものだから」
そう言いながら再び顔が熱くなるのを自覚してしまう。
「ふーん。……面と向かって、ねぇ……他に何言われたんですか?」
レンブラントの目がほんのわずかに細められた。
「え? 他に? ……えーと……まあ、色々……」
色々、大切なことを教えられたような気がするな。うん。
「色々?」
リョウはレンブラントから視線を逸らして教えられたことを思い出してみる。
支えてくれる人たち、そういう人との繋がりの強さ、私が独りじゃないこと。ああ、それに。……くすりと笑いが漏れる。
「……いつでも出戻ってこいって……グウィンってばバカよね……」
おそらく勢いで出たのであろうあの言葉。私には帰る場所もある。って言ってくれた彼の顔は、それでも口から出まかせの薄っぺらい言葉を紡ぐ顔ではなく、本当に気遣う者の顔だった。それを思い出すとなんだか心の底に安心感のようなものが広がる。
と、不意に自分の手の中にあったカップが取り上げられてリョウが我に返った。
「……どういう、意味ですか?」
カップをテーブルに置いてから、にじり寄るように目の前まで迫って来たブラウンの瞳が問いただすようにリョウの瞳を捉える。
「え……あ! わぁ! 違う! 私、出戻る気なんてない……っ!」
慌てるリョウの唇がレンブラントのそれで塞がれた。
レンブラントの腕で腰を強く抱き寄せられて、彼のもう片方の手は背中から回って後頭部を押さえているのでリョウの動きはほぼ完全に封じられている。
軽いキスで済ませるつもりがない事も明らか。
なのでリョウは観念して片手でレンブラントの胸元にしがみつき、もう片方の手をその首筋に這わせる。レンブラントの解いた髪が指先に触れて……なんだか独占しているような優越感を感じる。
一旦離れそうになった唇にリョウが息をつこうとすると、それを許さないかのように再び深く絡められて小さくリョウが声を漏らした。
それは決して嫌な強引さではなく、かえって安心して体を預けられるのでリョウがうっとりとしながら体の力を抜いたところでレンブラントが悪戯っぽく目を細めさらに強く抱き込んできた。
「……本当にどこにも行かない?」
唇がまだ触れそうなくらいの距離でささやかれて、リョウが返事の代わりに今度は自ら唇を押し付けた。
いつもレンブラントがするように、一度少しだけ強引に押し付けてからちょっとだけ引いて啄ばむように唇をなぞる。唇の端まで行ってそこからほんの少し舌を出してそっと唇を舐めてみる。レンブラントの口角が少し上がって小さく笑ったような気がした。
「……可愛いですね、リョウ。それに……すごく美味しそうだ」
レンブラントが上気したリョウの頰に口付けて、そのあとゆっくり首筋へと唇を這わせていく。
「……っ! あ……レン……ちょっと……待って!」
そのまま押し倒されそうになりながらリョウが声をあげるとレンブラントが面倒くさそうに顔を上げた。
「……何ですか?」
「レン、私、まだケーキ食べてない! さっきの葡萄酒もまだ一口しか飲んでない!」
リョウが拗ねたように声を上げる。
「食べなくてもいいんじゃなかったんですか?」
やれやれと、ため息をつきながら食い下がるレンブラントだがほんの少し身を離してくれたところを見るとリョウの言い分を聞く気もあるようだ。
「ダメ。せっかくレンがとっておいてくれたケーキだし、この葡萄酒だってレンが買って来てくれたんでしょ? こっちを味わうのが先!」
くすくす笑いながらリョウが断言すると今度ははっきり諦めたようでレンブラントが完全に身を起こした。
なので。
リョウは早速テーブルに手を伸ばして皿を取り上げ、ケーキを手の中で二つに割る。
「はい。半分こ!」
この、一つのものを半分にして食べるという感覚が、どうにも好き! と思えるのでリョウはもう満面の笑みになってしまう。
半分になったケーキを手に持たされたレンブラントは一瞬あっけにとられたように動かなくなり、幸せそうな顔で自分の方にもたれかかって来ながらケーキを口に運ぶリョウを見て、つい笑みを漏らす。
溶かしたチョコレートを生地にしっかり練り込んだというこのケーキは……グウィンのやつが伝授したレシピらしいが、それでもリョウの手が作り出したと思うとそれだけで特別感が増す。
昼間、アルとグウィンがリョウの分にまで手を出した時にはちょっとした苛立ちを感じたものの、リョウと同じクッキーを食べるうちに同じものを食べていることの方が密かな優越感を感じられてそれはそれでいいかと思えた。
そして残した最後の一切れをこっそりリョウに取っておこうと思いついた時はさらなる優越感を感じたのだ。
案の定、目を輝かせて喜ぶリョウを目の当たりにして再びその感覚を再確認した。
だからゆっくり味わってもらおう。
このケーキはアルに勧められた葡萄酒にもよく合う。アルがこんな酒の趣味だったことは驚きだが……リョウが気に入ったならまたあの店に行って買って来てもいい。
それに……意識して言ったかどうか定かではないが……さっきリョウは「こっちを味わうのが先!」と言った。先があるということはその後があるということで。
酒が入ってほんのり赤く染まる頰はこちらを誘っているとしか思えない、美味しそうな色をしている。彼女の体質上アルコールが抜けるまでにさほど時間がかからないのはちょっと惜しい気もするが、飲んでいる時のリョウの潤んだ瞳もまた魅力的で本人は無意識かもしれないがあの目で見つめられるとねだられているような気さえして抑えが効かなくなる。
ケーキを食べ終わって、そこそこ酒も飲んだ後で続きは楽しめばいいか、と思う。
「いつでも出戻ってこい」なんてとんでもないことを吹き込むグウィンには今度はっきり釘を刺してやろう。
リョウは、僕だけのものだ。
絶対に、他の奴には渡さない。




