休暇と香水
「……レン、結構上手、よね?」
隣で手際よく、茹でたじゃがいもを潰しているレンブラントを見ながらリョウが呟く。
「そうですか? ……まぁ、このくらいならたまにやってましたからね」
ちょっと嬉しそうにレンブラントが笑う。
実際に料理をするところを初めて見たリョウだったが、じゃがいもの皮むきの手際よさに何度か作業の手が止まって呆然としかけ、それを水にさらすとか火が通りやすい大きさに揃えて切るという細やかさを二度見してしまい、あっという間に味付けして潰されていくじゃがいもの様子にもはや言葉が出てこなくなりかけていた。
そういえばレンブラントは、ほとんどいつも食堂で食事をする都市の習慣がある中で定期的にグリフィスと食事をしていた。
都市の司ともなると忙しくてなかなか外には出られない、とのことでレンブラントは彼の所まで行って手料理を振舞っていたらしい。
結婚してからはグリフィスが寂しがるんじゃないかとリョウが時々家に呼ぶことを提案したのだが、レンブラントに断られていた。
……一応「台所は女の城」であるはずだから指示を出そうと思ったんだけど……。うん、必要ないみたい、ね。手つきが全くもって、危なくない。むしろ安定している。
無駄に周りを汚すこともなく、なんとなれば合間で片付けなんかもしながら、作って欲しいとリクエストした物を的確に作ってくれるなんて……ちょっとこっちが恥ずかしくなってくる……。
リョウがパンケーキを焼いている間に、野菜が手際よくカットされ、肉とチーズが薄くスライスされた。
隣の部屋に出来上がったものを順番に運んで、最後に紅茶の茶葉に沸かしたての湯を満たしたティーポットを運ぶ。
温度を下げないようにリョウがテーブルの上で大きめの布巾にティーポットを包む。
この布巾はルーベラと一緒に選んで買ったちょっとお気に入りだ。生成りの薄い生地を数枚重ねて刺繍してあり、保温性がある。刺繍もちょっと手が込んでいて食器を拭くにはもったいない感じ。
「一緒に作るのも楽しいですね」
テーブルに着いたレンブラントがそう言って幸せそうに微笑んだ。
「そうね。レンは手際がいいから作業もはかどるし……それにレンが料理をする姿って新鮮で見てても楽しい!」
思わず満面の笑みで答えてしまう。
ただ内心は。
……多分、この人の場合は何をやっていてもかっこいいんだと思う。
だって、野菜を洗ったり切ったりする手つきとか、調理器具を扱う手つきや眼差しなんて……色気を感じてしまって直視できなかった。この感覚、どこかで……と思ったら、あれだった。前にレンブラントに剣の相手をしてもらった時の感覚。剣を流れるように抜いて構える彼の姿は……本当に、目の毒だと思った。
「……惚れ直しました?」
「え、あ……う……」
悪戯っぽく笑うレンブラントに、考えていたことを見透かされた気がして一気にリョウの顔が赤くなる。
途端にレンブラントが笑い出した。
「せっかくの休みですし……たまには一緒に街を歩きますか?」
食事が終わりかけた頃、レンブラントがそんなことを言い出した。
「え? 良いの?」
てっきり今日は家から出ないで過ごすつもりなのかと思ったリョウはちょっと驚く。
レンブラントと二人で街に出ることはほとんどなかった。何しろ彼は忙しくてほとんど休みなしで働いていた。
「……ずっと家にいるよりいいでしょう? ……僕は家にいてもいいんですけど」
レンブラントの台詞が後半は視線を彷徨わせながら控えめなのでリョウはなんとなくそこには触れないことにして、デザートを出す事に専念し始める。
チーズを始め、乳製品が色々出回るようになってヨーグルトも入ってくるようになった。上手くすれば自家製にして増やすこともできて、いろんな用途があるので料理をする者にとっては興味深い食材だ。
蜂蜜にしばらくつけたオレンジと砂糖をかけて軽く炒めた林檎に、酸味の強いヨーグルトをかけたものをレンブラントの前に出す。
「うふふ。これは、自信作よ。昨日試作したら美味しかったの」
「へぇ、美味しそうですね」
レンブラントが声を上げ、その反応が嬉しくてリョウが満面の笑みになる。
「そういえば、レンも甘い物は苦手じゃないのよね」
最近、ちょっと驚いたのがこの都市の騎士隊員たちは甘い物が割と好きらしいということ。食堂でも街の出店でも甘い物は人気で、てっきり女性や子供がターゲットかと思いきや働き盛りの男たちが意外にもリピーターになっている。クリストフは甘さ控えめが好みで、ハヤトは素材の味を生かしたものの方がより好みらしいが、それでも甘い物は好きなようだ。
「そうですね。そういえば最近は以前よりよく甘いものを口にしますね……仕事内容が変わったせい、ですかね」
……仕事内容か……。
リョウがレンブラントの言葉を聞きながら彼の前の空になったカップを取って新しい紅茶を注ぐ。
隊長職の者達にとってはそれは体力より頭を使う仕事が増えたという意味だ。その他の騎士達も今までと勝手が違うからストレスを感じる時期だろう。都市にいる働き盛りの者達にとって、これまでとは大きく異なる都市のやり方に順応していかねばならないのだから職種に関わらずストレスを感じるはず。
そういう人たちにとって、やっぱり甘い物って身体が欲する物なのかもしれない。
「……レン、仕事……やっぱり大変?」
注いだ紅茶のカップを差し出しながら訊いてみる。
「え?ああ、いえ。大丈夫ですよ。勿論、楽な仕事ではありませんけど……僕の場合、仕事が終わればリョウがいる家に帰って来られますからね」
優しく笑うレンブラントに、つい顔が赤くなってリョウが視線を逸らした。
……よくそういう台詞を私の目を見て言えるなぁ……!
「……あれ? この紅茶、香りが……!」
レンブラントが感嘆の声を上げたのでリョウが我に返る。
「あ、そうなの! 美味しいと思わない?」
ルーベラに教えてもらった技を使った紅茶にレンブラントが気付いたようでリョウが嬉々として答える。
「え……この香り、いや、味もか? ……何ですか?」
種明かしとばかりに、リョウがティーポットの蓋を開けて見せながら。
「これ、林檎を剥いた時の皮なの。皮を茶葉と一緒に入れて普通にお湯を注いだだけなのよ?」
蓋を開けたとたんさらに林檎と紅茶の香りが二人の間に広がった。
「へぇ……凄いですね。じゃ、この甘みは砂糖じゃなくて林檎の甘みなんですね。これは癖になりそうです」
目を見開いてカップの中を見つめて、もう一度確かめるように口に運ぶレンブラントの様子にリョウはつい嬉しくてニヤニヤしてしまう。
そしてリョウは小さく、そっとため息をついた。
それは、幸せに満足しているようなため息のようでもあり、思い出しかけた不要なものを忘れる為のため息のようでもある。
こういう時間の流れは贅沢で幸せ過ぎる、と感じる。分不相応なのではないか、とさえ。
こう幸せ過ぎる感覚を改めて自覚してしまうと、不安要素を探してしまいそうになるから気をつけないと。
……大丈夫。
今のところ、不安になるような事は何もない。
この「今」を楽しんで大丈夫なはず。
そんなことを心のどこかで確認してしまう。
午後。
レンブラントに手を引かれて都市の大通りを歩くリョウはちょっと気恥ずかしくもあり、誇らしくもあった。
ちょっと前までは買い物をするのにルーベラが一緒だったが、もうここ最近のルーベラは休暇を消化したとあって大抵は一人で買い物に出ていた。
店の主人達からは「いつも一人でいる」と少しばかり気の毒がられていたのだ。
夫が騎士隊隊長なのだから仕方がない事ではあるが、本来ならあるはずの休みもほとんど返上して日中は一緒に過ごすことが無かったので、こんな所を夫婦で、しかも昼日中から歩くなんてまずできなかった。
通りかかる行きつけの店の前で店の主人から「おや! 今日は一緒なんですね! 良かったですねー!」などと声をかけられると、ちょっと得意になってしまう。
「……えーと、レン、どこまで行くの?」
いつも買い物をするのに使っているエリアは以前住んでいた都市の西側にある区画。
なんとなく馴染みがあり、この広い都市で動きやすいのはその辺りだった。
その大通りから思いもよらず、脇道に逸れていくレンブラントにリョウが戸惑う。
そのままいくとほんの少し北の区画を横切って都市の東側の区画に入る。あまり行ったことのない場所だ。
「ああ、すみません。疲れましたか? どこかで休みます?」
レンブラントがリョウの顔を覗き込んできた。
「あ、ううん。このくらいで疲れたりはしないけど……こっちの方はあんまり来たことが無かったから」
にっこり笑ってリョウが答えるとレンブラントが安心したように笑った。
「良かった。……ああ、いや、えーと、ですね。……あんまり知り合いに囲まれたところより、知らない場所の方が自由でいられるかと思ったんですが」
あ、なるほど。リョウが一瞬目を丸くしてから納得して微笑む。
そうよね。だって、これ、言ってみればデート、だもんね!
街を歩くといえば買い物くらいしか想定できなかったリョウは、買ったものを乗せるのにハナもコハクも連れずにただ歩いていくということにまず軽く戸惑い、行きつけの店を素通りしたのでさらに戸惑っていたのだ。
……うん。デートで食料の買い出しとか、むしろあり得ないんだわ。
そう思ったらなんだか急に嬉しくなってレンブラントの手を握る手にぎゅっと力を入れてしまう。
「……この先に隊員に教えてもらった小さな店があるんですよ。いつかリョウを連れて行きたいと思っていたんです」
リョウの方を見ることもなくそう言いながら小さな路地を指差すレンブラントを見上げると、耳が赤い。
「……わぁ!」
大通りから外れた道をいくつか曲がって細い路地の突き当たりにその店はあった。
可愛らしい木造の家、といった雰囲気だがドアの上に小さな看板が下がっているので店であることがわかる。
店の外には小さな花壇があって薔薇の花があふれんばかりに咲いている。店の窓にも小さな植木鉢が置いてあり色々な薬草が溢れそうなほどに茂っている。
レンブラントがリョウの一歩前に出て躊躇することもなくドアを開け、中に入るように促す。
そして中に入ったリョウは再び小さな歓声を上げてしまった。
むせ返りそうなくらい甘い香りが立ち込めた店内には、作り付けの木製の棚に小さな瓶が幾つも並んでいる。
「……香水のお店?」
今までこういうものには縁が無かったので、想像すらしていなかった。
と、奥で作業をしていたと思われる女性が小さなカウンターに出てきた。
「あら、いらっしゃい! ……へぇ、珍しいお客さんね! 守護者と旦那の騎士隊隊長様か!」
リョウとレンブラントの服装を一瞥して明るく笑う女性は軽くウェーブのかかった金髪を後ろで束ねて白いエプロンをした気さくな感じの人だった。店主なのだろう。店の雰囲気からしても主人は女性であろうことがうかがえる。
「素敵なお店ですね」
リョウがそう言うと、店主が満面の笑みを浮かべて。
「あら、ありがとう。ここの香水は私が全部調合してるのよ。気に入ったのが見つからなくても言ってくれればお客さんの好みに合わせて調合するわよ?」
うわ……! 凄い! 香りのオーダーメイドって事?
リョウが目を丸くしてレンブラントを振り返る。
「使って消えてしまうものなら、形に残らないから受け取ってくれますか?」
レンブラントが女主人に聞こえないように配慮したのかリョウの耳元で囁いた。
「……ありがとう」
リョウが声を詰まらせながらお礼を言う。それが精一杯だった。
レンがこういう物をつけていたという事はないと思う。彼の周りにいる人でもつけている人はいない。
という事は、本来なら自分の知識にない品物であり、こういう物を好む人からわざわざ情報を得るためには……結構な努力が必要だったのではないだろうか。
店主に促されてリョウがまず一つの棚の前で幾つかの小瓶を手に取って香りを試す。
棚ごとにベースになっている香りが統一されているようでリョウが店主に勧められたのは花の香りと、木の香りの棚だった。
「うわぁ……同じ花の香りでもこんなに違うのね……これは、ちょっと選べないかも……」
軽めの華やかな香りから、ちょっと重厚な甘い香り、瑞々しさを感じさせる香りと本当に様々。
そこにスモーキーな香りのアクセントが入っていたり、爽やかさや深みのある香りが後を引くようになっていたり。
「……この二つだったらどっちが好き?」
店主が選ぶ事を放棄しかけているリョウに笑顔で二つの瓶を手渡してきた。
茶色の二つの瓶。どうやら棚に並んでいる商品ではない様子。
棚に並ぶのはどれも中身をイメージしたらしい色や形の瓶で、ラベルに描かれている模様もそのイメージのようだが今手渡されたのは小さなラベルに番号が書いてあるだけの茶色の瓶だ。
「……うーん」
どちらも素敵な香り。
片方はふくよかな花の香り。もう一つはちょっと甘めのスパイシーな香り。
花の香りは素敵だと思った。つい何度も嗅いでしまう。
でも、私にはちょっと可愛らしすぎて恥ずかしいかな、なんてリョウは思いながらもう一つの方の瓶を差し出す。
「どちらかというと、こっちかしら」
そんなリョウの様子を観察していた店主が「ふうん」と頷きながら二つの瓶を受け取り。
「ちなみに、この香水、使うのって毎日? 昼間からつける?」
なぜかこの台詞は後ろにいるレンブラントに向けられていた。
「……そうですね、昼間から毎日はつけないと思いますよ」
……あれ? そうなんだ。買ってもらうからには毎日つけようかと思ったんだけどな。
なんてリョウが少し不服そうな目を向けた。
「……ふふ。こういう物はね、毎日使うと嗅覚が慣れてしまってどんどんつける量が増えちゃうの。それにつける時間帯によって香りのイメージも変わるからね。例えば軽い香りなら昼間、重い香りなら夜って感じよ。好きな香りだからって毎日一日中つけてるとただのけばけばしい女になっちゃうのよ。……それでも毎日つけたいっていうお客様には薄めたものを作るようにしてるの。あとは香水を練り込んだ石鹸にするとかね。でもあなたには必要なさそうね。ちょっと待ってて。今、あなたのイメージに合わせて調合してきてあげるから」
店主が笑顔でそんな説明をするとそそくさと奥に引っ込む。
リョウが感心してその背中を見送ると。
「……ここの香水、本当に評判がいいみたいですよ。つけてる人の魅力を引き出すって。……だから他のやつと一緒にいる時につける必要はありませんからね」
「……ん? あれ? でもそれって、意味ないんじゃ……」
背後からレンブラントがこそっと告げてくるのだが聞きながらリョウが途中で首をかしげる。
で、レンブラントの方を振り向いてちょっと納得。
耳が赤い。そして視線を逸らされた。
これは本当に用途が限られる……あれ? それを見越してあの店主、レンに意見を聞いたの……?
……いやまさかね。いやでも、使うのは私だって分かってたんだし……もしかして物凄く、人を見る目がある、人なんだろうか。
そうこうする内に店主が戻ってきた。
手には琥珀色の液体が入った透明の小瓶。
「これ、どうかしら?」
言葉とは裏腹に自信ありげな笑みを浮かべた店主の手からリョウが瓶を受け取って蓋を外してみる。
「……わぁ……」
まず広がるのはふくよかな花の香り。あれ、私こっちの香りじゃない方を選んだのに……と一瞬思ってから納得。ちょっとスパイシーな重い香りが重なっていて可愛らしい感じではない。それ以外にもスモーキーな深い香りとか……幾つかの香りが混ざっているのがわかるけど、なんの香りなのか分からないくらい見事に一体化している。
「……いいですね」
横から顔を近づけてきたレンブラントが満足気に微笑んだ。
「おっ! やったね! 一発で気に入ってもらえるとは!」
はしゃいだような声にリョウが目を上げると店主が弾けそうな笑顔で胸を張っている。
化粧っ気のない顔はそんな風に笑うと子供のようでもあり、さっきまでの専門家的な雰囲気とのギャップが可愛らしい。
しばらく店主と雑談を楽しんだ後リョウはレンブラントと共に店を出た。
手には買ってもらった小瓶の包み。
なんだか子供に返ったようにうきうきする。こんな風に誰かに何かを買ってもらうなんて……物凄く久しぶり。
そういえば、クロードに剣を作ってもらった時もこんな感じだったな。などと思い出す。
「……ねぇ、レン、あのお店初めて行ったの?」
リョウが包みを持っていない方の右手をレンブラントの左腕に絡めて体を寄せながらきいてみる。
「え、ああ。……そうですね。実際に行ったのは初めてでしたよ。隊員に……ああそうかリョウは知りませんね。最近の隊の調整で編入してきた男がそういうのに詳しかったんですよ」
「そうなんだ。……その人と、仲良いの?」
香水に詳しい男の人……イメージしようとすると軽そうなイメージしか湧かない……。
そんな人がレンと仲良くプライベートな話をするだろうかというのがリョウの率直な感想だった。
「……仲……が良い、というほどではないと思いますけど……正直に言ってしまえばちょっと苦手なタイプですね……ああ、でもこれで借りを作ってしまったな……」
などと思案するようにレンブラントの視線が宙に留まった。
「あら、じゃあ何かお礼したほうが良いかしら? 食事にでも呼ぶ?」
「だっ、駄目です! そんな必要はありません! ……だいたい、あんな男をリョウに紹介したら……あいつ、絶対リョウに色目使うに決まってる……!」
レンブラントが大慌てで否定する。
……あ、なるほど。本当に軽い感じの人なのかな。
リョウが隣で吹き出した。