グウィンの過去
「お菓子屋さんをね、始めようかと思うの!」
そんな声を上げるのは背中まで伸ばした赤毛の髪を綺麗にまとめた明るい表情の女。年の頃は二十歳そこそこ。緑色の瞳は大きくて口元に浮かぶ笑みはいつも人懐っこく、こんな娘を嫌いになる人はいないんじゃないか、と、グウィンはいつも思っていた。
「勇敢な人」という意味のレイリーという名前を持つ彼女は名前の通り思い付いた事に取り掛かる上では確かに勇敢で、時々度肝を抜かれることがあり……見ていて飽きない。
珍しく、次の旅立ちを先延ばしにしてしまうのはこの娘のせいだ、というのはもはや自覚済み。
かれこれ一年になる。
北の都市はもともと軍事的な性質の強い都市だから竜族の頭なんていう、明らかに都市が好みそうな力を持つ者が長期滞在していれば目を付けられる。
だからなるべく大人しくして、目立たないように、必要な人脈だけ作って地味に生活していればどうにかなるのではないかと思いながら、ここまで来てしまった。
「何よ? もしかして反対?」
テーブルの上に「試作品」と言わんばかりのチョコレートのケーキを出して深い緑の瞳が挑戦的にキラリと光る。
「反対なんかするもんか。これ、美味いぞ。レイリー」
こういう目をするときは……大抵自信があるときだ。グウィンはそう思いつつ出されたケーキを頬張る。
相変わらず、美味い、と思う。
確かにこれは売れるだろう。
彼女の家に通うようになったのはこのケーキの試食を頼まれたのがきっかけだった。
材料の買い出しを手伝ったり、アイデアを出したり、最終的には作るのまで手伝うようになって……時には泊り込むことさえあった。
彼女に言い寄る男に苛立ちを感じる自分の気持ちに気付いて結婚を意識するようになったのはこの頃だった。
恐らくはそれまで、意識しないように自分の気持ちを抑え込んでいた。
ずっと、この笑顔を見ていたい、この笑顔が途切れるようなことが無いように守ってやりたいと無意識に願ってしまう自分に時々、自分の立場と役割を言い聞かせて抑え込んでいたのだが。
「……レイリーさんと……結婚したの?」
そんな思い出話をぽつぽつとするグウィンにリョウがそっと尋ねる。
グウィンの過去の話が聞けるのはとても珍しい。そんな気がして、つい目が輝いてしまう。
以前、チョコレートのケーキを教えてくれた時や、毒を盛られた彼を看病していた時に、ちらっと聞いた話の人なんだろうと思えるから余計に興味津々だ。
「まぁ……実質的にはしていたようなもんだった。一応、けじめはつけようと思って式を挙げる約束と都市に届けを出す予定まで漕ぎ着けていたから……厳密には婚約していたってとこかな」
とても微笑ましい内容であるのになぜかグウィンの表情が沈んでいく。
「……婚約……だけ?」
リョウもグウィンの表情と口調に、どう反応していいか分からなくなる。
「ちょうどその頃、大きな戦が始まろうとしててな。レイリーが都市の司に捕まったんだ」
「……は?」
リョウの思考が止まった。
レイリーさん……都市にとっての危険人物か何かだったんだろうか。
「そういうことになる可能性もあるからあの都市ではあまり自分の立場を明らかにしないでいたんだがな、あの頃既に風の竜族が多少は住み着いていたからどこかから情報が漏れたんだろうな。レイリーを人質にとって俺を守護者に就任させるっていう魂胆だった」
「あ……」
リョウが言葉を失う。
そういう事か。
「城の地下牢に閉じ込められたあいつは……結局解放されなかったんだ。俺が守護者として働いたところで、解放した後報復されるのを恐れたんだろう。でも俺が守護者として働かなければあいつが酷い目にあう。だから俺も従わざるを得なくなり……そんな俺の立場を思いやってか風の竜族がその頃から北の都市に集まって来始めた。竜族として都市に協力する姿勢を見せれば情報を流してしまった事に対する俺への償いになると考えた奴もいたらしいし、そうやって都市の司を和めておけば俺の妻になるはずの女が多少は優遇されるんじゃないかと考えた奴もいたらしい」
グウィンが深いため息をつく。
やり切れない思いが伝わって来るようなため息で、グウィンとレイリーのその後が決して幸せなものではなかった事を裏付けているようにも思える。
「守護者の契約が切れるのは司の命もしくは守護者の命が尽きる時、だろ?」
「……うん。そう、ね」
最近読んでいる文献のお陰でリョウにも割とその辺の知識がしっかり入って来ている。
昔、その取り決めが出来たばかりの頃は守護者という役職は竜族の好意によって成り立っていて契約を結んだ王個人との繋がりのようなものだった。それが後代になって強制的に結ばされる契約になってきてそれを捕捉する規則が加えられるようになる。
例えば、契約に不服があって守護者が王、または都市の司を手にかけ、強制的に任から逃れようとした場合、その契約は次の代の王もしくは司にも引き継がれる、とか。
だから一度「守護者の契約」を結んだならその司が生きている間は都市を守り続けなければならない。下手に契約を引き伸ばしたくなければ司が生きている間は守護者に個人の自由はないのだ。
「レイリーとは……都市の司が死んで契約が満了するまで結婚できなくなったわけだ」
視線を逸らしてグウィンがぼそりとこぼす。
うわ……それは……酷すぎる。
リョウが思いっきり眉をしかめた。
「俺は、それでもとにかく働くしかなかったし、少なくともあいつが閉じ込められている地下牢へ行くことは出来たから……それで我慢するつもりだった。でも、あいつにとっての『司の寿命』は長すぎたんだ。……その時点でまだ働き盛りくらいの年齢だった司はどう考えてももう三十年くらいは元気で生きそうだったし……戦で命を落とすのでもない限り老衰で命がつきるのはもっと先だ。実際代替わりしてもそのあとしばらく生きていたからあの後四十年近く生きたんだ。それを見越して、そんなに長く待ってから俺と一緒になるっていうのは……人間の娘には酷な事だよなぁ」
ああそうか。
当時、二十歳そこそこの女性がその後四十年も待ってから花嫁さんになるって……しかもそれまでずっと地下牢で生活って……考えられないことかもしれない。
そんなことを考えて、ついそんな状況に置かれた彼女に感情移入してしまったリョウは、胸の奥がずきりと痛み、込み上げてくる感情をどう処理していいかわからないままぐっと息を飲み込んだ。
と。
「……ちょっと大きな戦に駆り出されて帰ってきたら……自ら命を絶った後だったんだ」
下唇を噛んでうつむいたリョウに、容赦ないグウィンの言葉が突き刺さった。
ぞわり。
リョウの背筋に寒気が走る。
声も出せなかった。
だって。
自殺って……!
地下牢なんかで自殺するって。
しかも愛する人のいないところで。
そんなの……どれだけ辛かっただろう。
それは……どれだけ寂しかっただろう。そしてどれだけ……悲しかっただろう。
「帰還した俺に残されていたのは埋葬される直前のあいつと、あいつが遺した手紙だけだった。……自分一人老いていくのは耐えられない、解放された時に自分があなたの花嫁として笑っていられる自信がない、と、書いてあったんだ」
もはやリョウは何の慰めの言葉も出せずにいた。
グウィンの気持ちも理解できる。
長い時を生きる身としては、伴侶が人間であれば老いていく姿を見るのは仕方のないこと。でも、だからといって愛情が薄れるわけではない。私だってレンが年を取ってもこの気持ちが変わらない自信くらいある。
でも……女性としての気持ちだって、分かる。
愛する人には自分が一番綺麗な時を捧げたい。
いつまでも若くて強健な夫に、老いていく姿を喜んで見せたいとは……思わないかもしれない。
そりゃ、なにかを乗り越えた二人ならそこを割りきることはできるのかもしれないけれど……二十歳そこそこの、老いとは全く縁の無い娘が、そこまで割りきるって……きっとまだ、無理。
そう思うだけで、切なすぎて胸が締め付けられるように痛む。
そして。
そんな事を二人に強いた北の都市への怒り。
人の感情を知って平然と利用した都市の司への憤り。
もし、自分だったら、と。
つい考えてしまう。
結婚の約束が、果てしなく先延ばしにさせられる。
相手はいつまでも若々しく、力強く、美しい外見なのに、自分は老いた姿になるまで彼とは結ばれない。そして、ずっと地下牢に囚われの身。
北の都市の城を思い出してみる。
黒い石の寒々とした城は……きっと地下なんかもっとすごい事になっていただろう。そんなところに何十年も居なければいけないなんて。
それはきっと、ただ重くのし掛かる毎日かもしれない。
若いときほど将来というものは遠い先のことのように思うものだ。若い娘には将来の希望を無惨に奪われたも同然だっただろう。
その暗い日々だけが延々と続く。
しかも。
その間ずっと愛する人が自分のせいで拘束されて、意に沿わない仕事をさせられるのを見るのだって相当辛いはず。
そう、自分のせいで愛する人が苦しんでいる姿を見なければならないのだ……!
……あ、れ?
ふと、リョウの視線がグウィンに向いた。
愛する人は……そばにいたのよね。
この場合、一番辛いのは……自分の将来とか、そういうことじゃなくて……。
だって……単に恋仲だったとかじゃなくて、ちゃんと結婚するつもりで……ちゃんと生涯を共に過ごすつもりで、婚姻の誓いをたてる覚悟をしていたというのなら……それって、そういうことは乗り越えた上で、の決断であるわけで……。
「ねぇ、グウィン……レイリーさんが命を絶った理由って、その手紙にはそれしか書いてなかったの?」
リョウがグウィンの目を覗き込む。
「……え? あ、ああ。凄く短い手紙だった。まあ、牢番の目を盗んでやった事だろうから長々と書くわけにはいかなかったんだろうとは思ったが……その頃までには牢番とも仲良くなっていたからな、あいつ。下手にバレたら止められる、とでも思ったんだろ」
「……まさかと思うけど……レイリーさんが自殺した理由、それだけだなんて思ってないわよね?」
グウィンの言葉を確認してリョウが静かに問うとグウィンが眉間にしわを寄せてリョウの目を見つめ返して来る。
「……それだけ……って……だって相当辛いことだろ? 結婚前の娘が、そんなところで過ごした挙句、晴れ着を着るのは何十年も経ってから、なんて。俺は……彼女に『そんなことは気にするな』って言ってやれなかったんだ。そもそもそんな事を気にしている事にすら気付いてやれなかった。……俺に理解されなかったあいつの心中を思うと……」
「違うわよ!」
ガタン!
と、音を立ててリョウが椅子から立ち上がった。
そのまま少し離れたところに座っているグウィンのところまで勢いよく数歩歩いて、その勢いのままグウィンの胸ぐらを両手で掴む。
「え? ……おい、なんだ? ……え? リョウ?」
慌てて顔を上げたグウィンはリョウの顔をまともに見て一瞬ひるんだ。
リョウの目が微かな怒りを宿しており、その怒りが自分に向いているように思えたので。
そしてその目には溢れる直前と思えるほどの涙がたまっているので。
涙をためて怒った顔のリョウに見下ろされて、しかも胸ぐらを掴まれた体勢のグウィンが目を見張る。
「嘘でしょ。……グウィン、本当に……今までずっと、そう考えてきたの?」
リョウの声が震えている。
「え……なんだ? 他に何かあるのか?」
何が他にあると言うんだ。
グウィンの思考が混乱してくる。
俺は他に何かを見落としただろうか。
レイリーの笑顔、レイリーの涙、最後の夜には何か思い詰めたような目をしていた。それがよりによって自らの命を絶つなんていう行為を決意した目だったなんて、あの時は思いもしなかった。
いつものように「またすぐ帰ってくるから」「お前と離れるのが一番辛い」と囁いて鉄格子越しにひんやりとした頰を撫でてやった事はつい昨日のように覚えている。
「手紙には……正確にはなんて書いてあったの?」
静かに混乱するグウィンにリョウが声こそ穏やかだが涙を浮かべたままの目で問う。
「ああ……えーと……『私一人で老いていく現実には耐えられなくなりました。いつかあなたが解放された時に、私はあなたの隣で幸せに微笑む自信がないのです。だから、どうぞあなたは、あなただけは自由であってください』って書いてあった」
「それじゃない! やっぱりそうなんじゃない!」
リョウが声を上げた。
そしてその勢いで溜まっていた涙が頰を伝う。
「グウィン、あなた、自分がどれだけ愛されていたか分かってる? 彼女は絶望して自殺したんじゃないわよ? 希望を持って……希望を持って身を引いたようなものよ!」
掴んだ胸元をガクガクと揺さぶりながらリョウが声を上げるのを、グウィンはぼんやりと他人事のようの眺めていた。
意味がわからない。
俺は、何を見過ごした?
ずっと、彼女を死なせたのは老いと時間の感覚の違いで、俺がそれを理解してやれなかった事が彼女を追い詰めたものだと思っていた。
「彼女が、レイリーさんが辛かったのは意に沿わない仕事をさせられるあなたを見ている事だったんじゃない。待つ事自体が辛かったんじゃないわ。だってそんなの……だって、そんなのきっともっと早くに覚悟を決めてるはずだもの。あなたが竜族だって分かった時点で寿命の違いなんてわかってるんだし、違う時の流れを生きることくらい覚悟してるわよ。そんな理由を手紙に書いたのは……きっと周りの目を欺くためでしょ。本心は最後の一言だけよ」
リョウが揺さぶる手を止めて、たたみ掛けるように告げてくる。
いつも、大事なことはゆっくり話すリョウにしては珍しい。
そんな事を頭の片隅でぼんやり考えながら、それでもグウィンはリョウの言葉に愕然としていた。
最後の一言。
「あなただけは自由であってください」
レイリーは。
彼女は自分が囚われているせいで、俺が自由でいられない事を嘆いていたのか。俺が旅の目的を遂げられない事を……嘆いてくれていたのか。
「嘘……だろ……」
グウィンが呆然としたまま小さく呟いた。
そう思うと。
最後に会った夜の、彼女の顔が絶望に打ちひしがれた顔ではなかった理由が分かる。
あれは、絶望した顔なんかじゃなく、いつもの、何かを思いついてそれに取り掛かろうという意気込みにキラリと目を輝かせるような、そんな顔だった。
そして、自分がいなくなればあとは俺が自由に……力にものを言わせてでも自由になる事が出来るだろうなんて……そんな当時の常識からしたって突拍子のないことを、考えるような娘だった。
彼女の目が、絶望に沈んだものではなくて何かを思い付いたときのような静かな輝きを宿してさえいたから……だから俺は、彼女の遺体を見るまで……いや見てもなお、自殺したという事実が受け入れられなかったんだ。
ふわり、と。
グウィンの視界が遮られて、柔らかいものが覆いかぶさる。
椅子に座ってリョウの方に身をひねった体勢のグウィンをリョウが抱きしめたのだ。
「グウィン、ちゃんと理解してあげていたのよ。彼女のこと。……彼女はちゃんと……あなたが知っているレイリーさんのままだったんじゃない」
リョウがようやくいつものペースに戻った口調で言い聞かせるように囁く。
愕然とした顔のグウィンは、とてもじゃないけど見ていられなくて、胸元に掴みかかっていた手を離してその頭にゆっくり回し、そのまま抱き寄せた。
グウィンの髪はいつも通り後ろでまとめられて、腕を回してゆっくり頭を撫でるとその先で、前に作ってあげた紐で髪が束ねられているのが目に入りつい微笑みが漏れる。
グウィンの腕がゆっくりリョウの背中に回って、ぎゅっと抱きしめられた。
その力の入れ方が、どことなく遠慮がちで、でも縋り付くようなそんな抱きしめ方で、リョウの胸が微かに痛んだ。
本当は、グウィンが抱きしめたいのは、レイリーさんなのだろう。
そう思えてしまうから。
長い時を経てようやく、すっきりと、意思が通じたような、そんな瞬間。
「ありがとな」
そんな一言がいつも通りを「装った」口調なのがまた切ない。
そう思えて、リョウがゆっくり体を離す。
「別に。……女心っていうものを伝授してあげただけよ」
しんみりした顔なんかしたらグウィンの心の揺らぎに拍車をかけてしまいそうで、リョウが反射的に悪戯っぽく笑って見せると、グウィンがニヤリと笑みを浮かべて。
「……ったく。お前は妙に察しがよすぎて困る」
なんて言いながら顔を背けられた。
「え? ……何? 察しって」
リョウが聞き返すもグウィンはもはやそれに答える気はないようで。
「ああ、部屋の外にも察しのいい奴がもう一人いるからさっさと連れて行け。俺はもう少しここにいる。……レジーナが窓の外に様子を見に来てるみたいだ」
グウィンは小声でそう言うと立ち上がって窓の方に歩いて行ってしまった。
……部屋の外?
リョウがグウィンの言葉にドアの方に目を向けると、開いたドアの向こうに見慣れた青い騎士服の肩がチラリと見えた。
グウィンが窓を開けると、レジーナが舞い込んできて手近な椅子の背に止まる。
リョウがそんな様子を見届けてドアの方に歩み寄ると入口のすぐ脇に背中でもたれかかっていたレンブラントが背を離してこちらに顔を向けた。
「……いつからいたの?」
リョウが拗ねたように小声で尋ねると。
「……リョウが公認の夫婦の絆を心地よく思っているっていう辺りから」
微妙な表情のままレンブラントが視線を逸らして答える。
……え?
「それって……ほぼ最初からいたってことじゃない! アルの護衛は?」
リョウが赤面しながら食い下がると。
「……『察しがいい』僕としては、リョウのところに戻りたくて今日は一人で帰ってもらいました」
そう言うとレンブラントがふわりとリョウを抱き上げた。
「そろそろ僕のところに戻っておいで。グウィンも大丈夫そうですし」
そう言うとすたすたと歩き始め、二階の寝室に向かい始める。
リョウはそんなレンブラントの顔を見て、その首に抱きつくように腕を回した。




