夫婦であること
リョウが部屋に戻るとレンブラントがソファから立ち上がった。
「ああ、リョウ……どこに行っていたんですか?」
ぼんやりしたままふらふらとソファの方に歩み寄るリョウに、訝しげな顔をしたレンブラントが声をかけると同時にその両肩を柔らかく掴む。
「……え? あ……レン? わあっ……!」
今しがた目にしたやたらと艶めかしいガウン姿の男とはまた別の意味でときめいてしまうガウン姿のレンブラントを至近距離に認識した途端リョウが赤面して慌てる。
「え? ……なんですか、どうしました?」
咄嗟にレンブラントがリョウから手を離す。
ああああ、びっくりした。なんだか、ほんとに……色々と……どうしよう……!
リョウがレンブラントにくるりと背中を向けて両頬を両手で包み込みながら深く息をつく。
「ごめん、ちょっと……お風呂、入ってくる」
それだけ言い残してバスルームに直行するリョウをレンブラントは目を丸くしたまま見送ってしまった。
浴槽には既にお湯が張ってあった。
レン……入ったのかな……。
なんて思いながら湯加減を確認するといい感じになっている。
髪を洗って、ざっと体も洗って、湯船に浸かる。
「ふぅ……」
ちょっと深いため息をつきながら。
……あれ、なんだったんだろう。
グウィンの行動をちょっと思い出してみる。
まさかあんな風に抱きしめられるとは思わなかった。
それに。
ぱしゃり、と腕がお湯から上がって水音を立てる。
自分の頭に手を当てながら。
あの感覚、時々レンがしてくるから分かるような気がするんだけど、頭に……キスされたような気がする。
一緒に旅をした時も、時々距離を感じることはあった。
グウィンの過去は……私には全部は分からない。
きっと色んな経験をしてきたと思う。色んな人と出会い、色んなことを知り、色んな絆を結び……そして別れてきたのだろうと思う。
だからそっとしておいてあげたほうがいい、と感じることもあって深く追求することをあえて避けることもある。話してくれることには喜んで耳を傾けようと思うけど、無理に聞き出して心の傷を確認する必要はない、と思うので。
でも。
知らないことが多いというのは……やはり寂しいことでもあるのだ。
私は、彼の、力になることは出来ないのだと、改めて思い知らされるようで胸が痛む。
湯船の中で膝を抱えて肩の力を抜くとため息がぶくぶくと水音になってバスルームに響いた。
「……のぼせませんか?」
「ひゃっ!」
耳元で声がしてリョウが慌てて顔を上げた。
「え……レン……? うそ……いつのまに?」
気づいたら湯船につかっているリョウの背後からレンブラントが腕を回してきて、リョウは後ろから抱き締められた。
「あまりにも音がしないからどうかしたのかと思って声をかけたんですけどね……全く聞いてなかったんですね」
びっくりしたようにレンブラントが耳元で真剣な声をかけてくる。
……嘘でしょ。入ってきたの、全然気付かなかった。私、今、眠ってたっけ?
なんて思いながらリョウが静かに混乱する。
「……あれですね、最近のリョウは何かに集中すると周りが全く見えなくなるんですね」
レンブラントがくすくすと笑いだした。
「……あ、そう言えば……」
仕事で文献を読んでまとめる事に集中している時と同じ感覚だ。
声をかけられた事にも気付かなくて本を取り上げられるとか、肩を叩かれるとかしてはじめて我に返る、みたいな。
「さっき、どこに行ってたんですか?」
膝を抱え込むようにして湯船に浸かっているリョウの腕をレンブラントの手がそっと撫でるように滑り、両腕ごと包み込むように改めて抱き締められる。
「グウィンのとこ……」
こんな風に抱き締められて、耳元で囁かれると、もうどうにも抵抗できなくなる。のでリョウがするっと白状した。
「ふーん……で? 何かあったの?」
レンブラントが若干頰を引きつらせているのだが……自分を抱き締める彼の腕に見とれているリョウには見えない。
「……ん……抱き締められた」
ばしゃり!
結構な音がしてリョウの肩が掴まれ、体の向きが変わる。同時にレンブラントの位置も少し変わったようで気付くとリョウは上体をひねってレンブラントと向き合っていた。
「……リョウ、何を、されたって?」
レンブラントがリョウの顔を覗き込みながらゆっくり言葉を区切りながら訊いてくる。ので。
「え……ああ……ごめんなさい。違うの、なんでもないのよ、大丈夫」
睨みつけるくらいに真剣な瞳に見据えられている事に気付いてリョウが慌てる。
しまった、この言い方は誤解を招いたかもしれない。
「なんでもない筈ないでしょう! ……だいたい、さっきからあなたの様子がおかしいのだってそのせいなんでしょう?」
……ああ、確かに、言われてみればその通りで。
でも、多分、レンが心配しているような事とはちょっと違うんだけど。……それをうまく説明できない。
そう思うとリョウの腕は自然とレンブラントの背中に回った。
「本当に、なんでもないの。……大好きよ、レン。愛してる」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
それでもレンブラントの緊張しきった息遣いが伝わってくるので。
「ね、レン。……ぎゅって、して?」
思わず心細い気持ちが声に出た。
ちょっと震えるような声でリョウが囁くと、レンブラントが慌てたように抱き締める腕に力を入れてくる。
抱き締められながらその力強さを感じてリョウがそっと肩の力を抜く。
完全に身を委ねきってしまえるこの感覚が好きだった。
「……リョウ、愛している。……どこにもいかないでくださいね。……僕のそばに、ずっといてくださいね」
低くて穏やかで、優しい声が耳に心地よく響く。
「当たり前じゃない。……私はレンのものだからね」
くすりと小さくリョウが笑う。
「グウィンのところにはね、チョコレートと葡萄酒を届けに行っただけなの」
ぽつりとリョウが言葉を紡ぎ出す。
そうか、あったことをそのまま話せばいいんだ。と、思い当たって。
「今日、グウィンがチョコレートのケーキの話をしてくれたときの様子が気になってたんだけど……あの人、きっと私よりたくさんの人と関わって……私よりたくさんの人と別れてきてるのよね……なんだかそれを思うと……私ってあの人のこと、ちゃんと理解してあげられないんだろうなぁって思えて……なんだか辛くなる」
ふ、とため息が漏れる。
言葉にしきれない思いは他にもある。気になることは他にもある。でもそれを全部、筋道立てて言葉にするにはもっともっと時間がかかりそうで、うまく言葉を選ぶことができそうになくて、ため息になってしまった。
「……リョウはグウィンが心配?」
「……うん」
囁かれるレンブラントの言葉にリョウがつい肯定の返事をする。
「……グウィンが好きだから?」
この言葉にはさすがにリョウがまず、くすりと笑みをこぼす。
「……その誘導には乗りません」
リョウが頭をレンブラントの胸元から引き上げながらのろのろとその顔を覗き込む。
「いいですよ。好きって言っても。……僕を好きなのとは違う意味なんですよね?」
どことなく自信ありげな表情にリョウの方が少し驚いた。
「……僕もね、あいつのことは多少気にかけているつもりなんですよ。リョウにちょっかい出すなら排除しますが……そうでないなら尊敬できる相手だと思ってる」
そう言うとレンブラントがちょっと間を置いて。
「リョウが一人で悩んだりする必要はない。僕も一緒です。グウィンの心配をするのも、気にかけるのも、リョウ一人でする必要はないんですよ。グウィンが本当に何かに傷ついて……癒しを必要としているのなら僕も力を貸すから、リョウの気持ちをまず先に僕に話して。リョウが一人で動こうとしているとね、僕はやきもちを妬くことしかできなくなるでしょう?」
レンブラントの瞳が柔らかく細められた。
……あれ。
なんだろう。
今、ものすごく、心が軽くなった。
リョウが目を丸くする。
「……一緒に……?」
リョウの小さな囁きをレンブラントが微笑みで肯定する。
「夫婦って、そういうものじゃないんですか?」
そうか。
なんとなく、気持ちが軽くなった理由がわかった。
レンに隠す必要が無いから、なんだ。
ちゃんと受け止めてもらえると、分かったから、なんだ。
ちゃんと話したら、拒否されることもなく、軽くあしらわれることもなく、理解して、受け止めてくれる、ということが分かったから。
「……ありがと」
リョウはそう囁くとレンブラントの頰にちゅっと口付けてみる。
「……先に寝ててくれて良かったのに」
湯船で話し込んだせいで軽くのぼせそうになったレンブラントを先にバスルームから追い出して、リョウが髪を乾かしたりなんだりで少しゆっくりしてから寝室に戻るとレンブラントがソファに座っていた。
「だって、これ、一緒に飲もうとして持ってきたんじゃなかったんですか?」
レンブラントの手には葡萄酒の入ったカップがある。
テーブルの上にあるカップにも半分ほど葡萄酒が注がれており。
「あ、そうか……」
リョウがそそくさとレンブラントの隣に座ると。
「……だいたいなんで僕より先に入っていたリョウがのぼせないんですかね」
レンブラントが納得いかない、と言った風に顔を覗き込んでくるのでリョウがちょっと吹き出す。
「そうね……多分体のつくりの問題じゃないかな。のぼせないこともないけど、回復が早いの。寒さとか暑さの影響を受けにくいのと同じじゃないかな」
「そういえば……リョウは寒い時に体が冷えても温まるのが早いですよね」
レンブラントがそう言いながらショールを羽織ったリョウの肩を抱いてくる。
そう。
だから特に寒いと思わないのだ。
冷たい外気にさらされれば体の表面が冷えることは冷える。外気が冷たいという感覚はある。でも本当に表面だけのことなので芯まで冷える、ということがない。
体は外気に合わせて体温調整をしてくれているらしい。
例えばベッドに入る時に体が冷えていて、レンブラントに触れないようにちょっと気をつけるもののベッドに入ってしまえばあっという間に体温が戻るので寒いと感じる暇がない。
……とはいってもレンブラントが冷たい体を温めようとして自主的に絡みついてきてくれてしまうので、触れないようにしようという気遣いは大抵意味をなさないのだが。
そんな、普通の人間の体のつくりとの違いは最近読んでいる文献のおかげで理解が深まった。
「……私の仕事もちょっとは役に立つのね。私自身も勉強になるわ」
リョウがにっこり笑いながらテーブルの上のカップに手を伸ばす。
ふーん、なんて声になるかならないかの相槌を打ちながらレンブラントが小皿に乗せられたチョコレートに手を伸ばした。
反応が気になるのでリョウがなんとなくその手を目で追ってしまい……その先で目が合った。
「……食べますか?」
半分かじった残りをレンブラントがニヤリと笑ってリョウの目の前に差し出すので。
リョウはカップを持っていない方の手でレンブラントの手を押さえて、悪戯っぽい笑みを浮かべていたブラウンの瞳を見上げながらその指ごとぱくりと咥えてみる。半分になっていたチョコレートは片頬の内側に押しやって、レンブラントの指先についているチョコレートの残りを舌と唇で舐めとると。
「……え、何? どうしたの?」
レンブラントがみるみる赤くなって目を逸らした。
「……いや……その……なんでもないです!」
なぜか慌てたようにレンブラントはカップの中の葡萄酒を飲み干して、やっぱり目を逸らしたまま息を吐く。
「……ねぇ、チョコレート、美味しいと思う? 私、グウィンの感想、聞き損ねちゃったんだけど」
リョウがレンブラントの顔を覗き込むようにしながら声をかける。
自分で食べて美味しいと思うのは作った過程を知っているからかもしれなくて、やっぱり率直な感想は聞きたいものなのだ。
「え……ああ、そうですね! お、美味しいと思いますよ……」
レンブラントが慌てるようにして新たにもう一つのチョコレートを手に取って口に入れる。
「……それ、ちゃんと味わってないわよね? レン……。私、もう一回グウィンのとこ行って来ようかな……」
リョウが軽くレンブラントを睨みつけながら呟くと。
「駄目です! もう今夜はここにいてください! グウィンのところになんて行く必要ありませんよ!」
レンブラントは必死だ。
「むぅ。……まぁ、そうね。グウィンにも言われたしね」
リョウが視線を自分の手元に落としてカップの葡萄酒を口に運ぶ。
「……何を、言われたんですか?」
レンブラントが眉をひそめた。
「うん……キスされてさ、続きはレンブラントにしてもらえ、って」
こくり、と喉を鳴らしながら葡萄酒を飲み込んでリョウが答えると。
「……は? ……何を、されたって……?」
殺気を含んだ低い声がした。
「……あ」
しまった。この言い方は凄まじい誤解を招く!
とばかりにリョウがさっと青ざめて顔を上げるのとほぼ同時に、リョウの手の中のカップが取り上げられてテーブルに戻され、ほぼ固まったリョウの体が抱き上げられた。
「……やっぱりあいつ、絶対に許さない! リョウ、今の話、続きはベッドで聞きます!」
リョウが見上げると、レンブラントの口許には不敵な笑みが浮かんでおり……もはや前言撤回の余地がないのは一目瞭然だった。




