チョコレートケーキと大人の事情
「結局、卵の力で膨らませるんだからこのくらい入れないとダメ、なのよね……」
朝食が終わってレンブラントを早々に出勤させた後、リョウが台所を占拠している。
今日の昼食の支度は朝食の残りがたくさんあるようにしたので多少の具材を追加してサンドイッチにしてしまえばいいから当分、時間に余裕はあるはずなのだ。
一応午前中のうちにやりたいことの段取りを確認してリョウはチョコレートケーキの試作に取り掛かっている。
調理台の上にはいくつかのレシピを比較検討した上で導き出した分量と作る手順のメモ。
「何かお手伝いいたしますか?」
声をかけてくるハンナは非常に楽しそうだ。
「うーん……今のところ大丈夫。ハンナ、仕事あるでしょう?」
なんとなく自分の力でやっていみたいという気がして、リョウがちょっと遠慮してみる。
「はいはい。ではわたくしは仕事に戻りますね。何かありましたら声をかけてくださいませね」
にこにこと楽しそうにハンナが台所を出ていく。
リョウの中で作りたいチョコレートケーキのイメージがあるのだが、それは以前にハンナが作ってくれた中からとろりとチョコレートが流れ出すあの、ケーキとはちょっと違ったのだ。
グウィンがチョコレートに対して持っているイメージをそのままケーキにすると、もっとさっぱりした感じの、でもコクのあるしっかりしたケーキ。そんな気がしてそういう感じのものができないかと思っている。
ハンナに手伝ってもらうと多分、以前食べたあのケーキの感じになるんだろうなと思うのでハンナの手伝いを遠慮してしまった。
「とにかく、卵をがっつりあわ立てて、その泡を安定させるんだから……湯煎で軽く火を通す感覚なのかな?」
いくつかのレシピに載っていた湯煎で卵を泡立てるという方法に興味もあってリョウが卵との格闘を始める。
甘さは控えめにしたいから……砂糖も控えめにしてみよう……。
「……さて……と……」
オーブンに張り付くようにして時間の経過を確認していたリョウが高鳴る胸を押さえつつ、中からケーキ型を引き出し、そっと中を覗く。
と。
「……あ……」
意外にも全く膨らんでない……気がする。
なんのこれしき。
ええ、時間はまだあります。
もう一度、やってみよう。うん。負けるもんか。
材料の配合を変えて、手順にもちょっと変更を加えて、一つ一つの作業を丁寧に。
そしてしまいには全卵を湯煎で泡立てる行程も諦めて、やっぱり卵黄はチョコレートに混ぜて、メレンゲで膨らませるっていう方法に落ち着き。
今度こそは、という思いを込めてオーブンを開けて焼き上がったケーキ型を引き出すと。
期待を込めた眼差しが喜びに輝く直前、今度は一気に型の中のケーキがしぼんだ。
「わー! うそうそうそっ!」
リョウが思わず叫んでがっくり頭をうなだれる。
……負けるもんか。
若干の闘志が湧いてくる中、リョウは黙々とチョコレートとの闘いに励み……。
「……なんだかすごくいい匂いがするな……何やってんだリョウ」
午前中の大半を試作に費やしたリョウが少々チョコレートの匂いに飽きてきた頃台所にグウィンが顔を出した。
「あ……グウィン……」
リョウがちょっと力の抜けた笑顔を向ける。
「……ああ、こないだ言ってた試作品か?」
ちょうどオーブンから出そうとしたところでグウィンが手元を覗き込む。
で。
「あ、ほら、ちょっと貸せ」
リョウが持っていた布巾を取り上げるとグウィンが滑らかな手つきでケーキ型を取り上げ、そのまま調理台の上にゴン、と打ち付けるように乗せる。
「……え?」
リョウが見ている目の前で膨らんでいたケーキの表面に見事に幾つかのひびが入った。
「お前、これやってなかったんだろ? ケーキってやつは気泡で出来てるようなもんだからな。焼き固めた後、一回衝撃を与えて気泡に亀裂を入れておけばそれ以上は潰れないんだ。空気は冷めるとかさが減るだろ? 気泡のままだと冷めるに従ってどんどん潰れていくぞ」
なんでもないことのようにグウィンが淡々と説明する。
「……嘘」
「は?」
「なんでグウィンがケーキの作り方なんて知ってるのよ!」
リョウは思わず叫んでいた。
「……でね、こっちがグウィンが教えてくれたチョコレートケーキ」
ハンナとコーネリアスとグウィンとリョウの四人で食卓を囲む昼食で。
食事を早々に切り上げて、食後のお茶はチョコレートケーキの試食会となっている。
「……まさかグウィン様がこのようなものをお作りになられるとはねぇ」
「いや、俺が作ったわけじゃないぞ! 作り方を教えただけだ!」
目を輝かせるハンナに速攻でグウィンが否定する。
そしていつのまにかハンナとコーネリアスの前でのグウィンは、すっかり素を出し切っているのだが……本人は気が付いていないのかも知れない。
「だいたい、そんなに難しい作り方をしなくてもそこそこ簡単にチョコレートを練りこんだケーキは作れるもんだ」
「……ほんとに美味しい」
リョウがグウィンに教えてもらいながら作ったケーキを一口食べて思わず一言こぼす。
リョウが一生懸命作っていたのは卵を泡立ててその力でふんわりさせる、でも濃厚なしっとりチョコレートケーキ。
で、グウィンが教えてくれたのは、卵は泡立てず生地に練りこみ、なおかつ小麦粉も多めのしっかり重めのチョコレートケーキ。しかもナッツ入り。
「なんでこんなものの作り方知ってるのっ……?」
リョウが目を輝かせながら勢い込んで訊いてくるのでグウィンが気持ち後ずさる。もちろん椅子に座った状態なので本当に「気持ち」の問題なのだが。
「え、あ……いや、前にそういうのを作るのが好きなやつがいたからな。なんとなくだ」
……あれ。
リョウがちょっと勢いを失う。
なんとなく、触れちゃいけない過去のようなものを感じ取ってしまったので。……もしかしたら単なる気のせいなのかも知れないのだけど。何しろ、ハンナとコーネリアスはそんなリョウとグウィンには全くお構い無しに二種類のケーキを食べ比べることに専念している。
「リョウ様、この際別のものに仕立てればばよろしいのでは?」
夜、台所で小さく唸っているリョウにハンナがくすくす笑いながら声をかけてくる。
午後の仕事の合間のお茶の時間、案の定二種類のチョコレートケーキは大好評であっという間にひとかけらも残さずなくなった。
で、それはいいとして。
台所にはリョウが試作を重ねた段階で「失敗作」として残されたうまく膨らまなかったケーキが幾つか置き去りにされており。
さすがに捨てるわけにもいかず、どうしたものかとリョウはそれらとにらめっこしていたところ。
「……え、別のもの……って?」
リョウがハンナの方に視線を向ける。
「……そうですわね。リョウ様のケーキはお味は悪くないのですし、焦げているのでもないわけですから……細かく刻んでしまってナッツと一緒に新しいチョコレートと練り合わせて一口サイズにまとめるというのはどうでしょう?」
ハンナが目を輝かせながら提案してきた。
「あ、なるほど」
しぼんで固くなったケーキはそれだけでは美味しくないけど、ナッツで食感を誤魔化して、チョコレートの中に入れてしまえば……美味しいかも知れない。
でも。
「それってチョコレートがやたらとたくさんいるんじゃない?」
少なくともここにあるケーキ……になるはずだったもの……の数倍必要になるわけで。
「まずは、試作ですわよ。全部片付けてしまう必要はありません。それに……ほら」
ハンナがどこからかひと抱えありそうな袋を持ってくる。
「うわ……どうしたの、これ?」
中身はチョコレート、だった。
「お昼にいただいたケーキがとても美味しかったので午後にコーネリアスが新たに買い付けに行ってきたんです。店の主人も大喜びだったようで『守護者様御用達のチョコレート』と銘打って販売するから、とたくさんおまけしてくれたみたいですよ」
ハンナの瞳は相変わらず楽しそうにキラキラしている。
そんなこんなで。
トレイに出来上がったチョコレートとハンナが見繕ってくれた葡萄酒を乗せてリョウが部屋に戻ると、レンブラントの気配がなかった。
「……あ、お風呂か」
バスルームで微かに水音がするのでもうしばらくは出てこないだろう。
「んー、じゃ、先にグウィンのとこに届けてこようかな」
トレイに乗っているチョコレートの小皿は二つ。葡萄酒の瓶も二本。カップも三つだった。
レンブラントと自分の分だけソファの前のテーブルに移して残りを乗せたトレイを片手にリョウが部屋を出る。
グウィンに貸している客室は一階。
ノックすると少し間を置いてゆっくりドアが開いた。
「……あ? リョウか。何の用だ?」
初めの一瞬、警戒気味だったグウィンの瞳がリョウを認めると優しくなった。
風呂上がりなのかガウンをゆるく着込んで、まだ少し濡れている髪を解いた状態のグウィンはちょっと色っぽい。
久しぶりに髪を解いたグウィンを見た、とリョウが思わず見入ってしまう。
「うん、これ。昼間の失敗作をちょっと仕立て直してみたんだけどどうかなと思って」
「……へぇ……うまく作ったもんだな。ありがとう」
そういうとグウィンがトレイを受け取ってリョウの方に視線を向ける。
……あれ?
「……なんだ?」
リョウの、変な間に気づいてグウィンが訝しげな顔をする。
なので。
「味の感想が、欲しい」
ぼそっとリョウが呟く。
グウィンのことだから真っ先に一つつまんで口に入れると思ったのにトレイごと受け取られてしまったのでちょっと調子が狂った。
「ああ……そうか、ちょっと待て」
そう言うとグウィンがニヤリと笑って、開けた状態を維持するために押さえていたドアのノブから手を離して、もう片方の手だけで持っていたトレイからチョコレートを一つ取り上げて口の中に放り込んだ。で、ついでのように指先を舐める。
……うん。そんな仕草も無駄に艶めかしい。
リョウは思わずにやけてしまうのだが。
「あれ……?」
リョウがつい小さく声を上げて、押さえる者がいなくなったドアを大きく開け、中に頭を突っ込む。
「え、おい、なんだ?」
ちょっとグウィンがうろたえるのだが、そこはお構い無し。
頭を突っ込んだついでに自分も部屋にするりと入ってしまいながら。
……あ、やっぱり。
部屋の中がかすかに匂う。
実はちょっと前にグウィンの髪に紐を結びつけようと、一旦髪を解いた時にもかすかに匂いが広がったような気がしたのだ。
再会した時にグウィンの服についていた薬草の匂い。ちょっと独特なツンとした匂いと甘い匂い、それに幾つかの匂いが混ざって爽やかなんだか甘苦いんだか、みたいな複雑な印象の匂いだ。……嫌な匂いではないのだけど。
グウィンは「今まで世話になっていた人のところで」ついた匂いだ、みたいなことを言っていたが、それなら今でも匂うというのはおかしいような気がした。
「レンブラントに怒られても知らんぞ。こんな時間に男の部屋に入り込むなんて」
そんな声がかけられてリョウがふと我に返って振り向くと、トレイをテーブルに置いて腕組みをしたグウィンがこちらをしげしげと見ている。
途端にリョウが顔を赤らめて眉間にしわを寄せ。
「……なっ! 違うわよ! そんなんじゃないんだから!」
……なんか、知ってる。この空気感。
グウィンのいつもの冗談だ。悪ふざけだ。本当にタチが悪い。
「そっちにその気がなくてもな、こういうのを一般的に『夜這いをかける』って言うんだ」
リョウが慌てふためいて、なんて言い返そうかと迷っている間にグウィンが大股で歩み寄ってきて腕を掴まれた。で。
「っ!」
リョウが息を飲むのと同時にグウィンがリョウを抱き締める。
「ほらな、こうなっても言い訳はできんぞ」
くすくすと悪戯っぽく笑うグウィンの腕の中で、さっき感じていた匂いがさらに強まった気がする。
……やっぱり、この匂い、新しくついた匂いだ。
リョウが変な確信のもとにどう切り出したものかと思案していると、小さなため息が頭の上で聞こえる。
「なあ……これ、お前さんが抵抗するなり叫ぶなりしなきゃいけない状況だと思うんだが」
呆れたような声にリョウが改めて我に返って顔を上げると、途方にくれたような黒い瞳と目があった。
「そう思うなら離してくれる?」
リョウがニヤリと笑う。
だいたい、この手の冗談に本気で取り乱したら絶対調子に乗られる。
それに私の「力」を知っていてわざわざ嫌がることをしてくるなんていう無駄なこと、この人がするはずもない。
「……嫌だ」
「……は?」
思いもしなかった反応にリョウは若干うろたえた。
腰と肩に回っていたグウィンの腕の力が少し強められて、ついでに後頭部を押さえられ、リョウの頭はグウィンの胸元に押し付けられた。
ゆるく着込んだガウンのせいでむき出しの胸元にリョウの頰が押し付けられ……なんだかグウィンの鼓動が早いような気が、する。
で、リョウは。
ぼんやりと昼間のグウィンのセリフを思い出していた。
「……前にこういうのを作るのが好きなやつがいた」
なんていうセリフ。
昔の想い人だろうか。なんて思ってしまうので。
そうよね、私が知らない過去を持っていて当然なのよね。私よりずっと長く生きてるんだから。なんて、思ってしまうので。
つい、小さくため息が出た。
と。
「……お前、相変わらず凹凸無いな……」
ぼそりと、耳元で声がした。
「……え?」
言われた言葉の意味がわからなくてリョウが固まる。
その間に、グウィンがそっとリョウの頭に口付けてリョウが「今の何?」なんて思う間もなく体がすっと離された。
「続きはレンブラントにしてもらえ」
「……は?」
さらに追い討ちをかけるように悪戯っぽく笑うグウィンにそう言われても、リョウの頭はその言わんとしていることを理解するのに少々時間を要し、その間にくるりと体の向きを変えさせられてそっと背中を押され、部屋から出された。
で、一旦冷静になったリョウが。
「……グウィン! あなた、あいっ変わらず、失礼ね!!」
後れ馳せながら閉まったドアの前で叫ぶこととなり、ドアの向こうではグウィンが声をあげて大笑いしている……。




