出立
上空を飛んでいたレジーナが軽やかな羽音とともにリョウの伸ばした腕に降りてきた。
「こいつが俺以外に懐くとは思わなかったな」
愉快そうにグウィンが笑う。
守護者の館と呼ばれるようになった建物の裏手はそのまま突っ切ると城壁の東の門に通じる大通りへ出られるようになっている。
庭としては手入れがされているわけではなく、膝くらいの丈まで小さな白い花をつけた薬草が茂っている。
林檎に似た芳香を持つこの薬草は西の都市では一般的な薬草茶としても親しまれ、花は一般に愛されておりリョウもこの花が群生するこの裏庭が好きだ。
城の敷地をちょっとした雑木林が取り囲み、その向こうに大通りへの門があるのだ。
最近リョウが、自宅から少し距離のある城の正門からではなく東門への通りに出る小さな通用口をよく使うようになったので群生する薬草はその通り道だけまるで獣道のようになっている。
早朝の、穏やかな光と風を受けた小さな花々はどことなく現実味のない色彩を放っているようにも見える。
「……グウィン、ここに残ればいいのに」
リョウがグウィンと目を合わせることもなくレジーナに目を向けたまま呟く。
そんなリョウの横顔を見守るレンブラントも複雑な表情だ。
「ま、仕事も終わってやる事もなくなったしな。……一所にじっとしていられんのも性分だ。なんなら一緒に行くか?」
「……え?」
にやりと笑うグウィンにリョウがゆっくり目を向ける。
いつものタチの悪い冗談だ、と思って、なんて返してやろうかと思ったところで意外にも真っ直ぐに見つめられているのでリョウがうろたえる。
「……グウィン」
レンブラントが静かに名前を呼び、鋭い視線を送る。
「……冗談だ。それに……どうやらそいつはここに残る気みたいだしな」
誤魔化すように笑いながらグウィンがリョウの腕のレジーナを見やる。
「……なんかあったらレジーナをよこせ。駆けつけてやる。それに……」
リョウを見つめながら告げられる言葉が一旦途切れ、グウィンの視線がレンブラントに一瞬向かい、再びリョウに戻される。
「……それに、何よ?」
続かない台詞にリョウが訝しげな顔をする。
「ああ、いや、何でもない……またこっちに来ることがあれば寄るさ。元気でな」
そう言うとグウィンは見送るリョウとレンブラントにくるりと背を向けて歩き出す。ニゲルは相変わらず城壁の外で待っているらしい。
リョウが、胸に何かがこみ上げてくるような苦しさを感じて、それを察したのかレジーナがリョウの腕を離れた。
と、同時に。
「……リョウ! 行くな!」
レジーナというリョウの動きを物理的に抑制していたものが身から離れた瞬間、リョウがグウィンの背中に向かって大きく一歩踏み出すのとレンブラントが声を上げてリョウの腕を掴んで引き寄せ後ろから抱き締めるのはほぼ同時だった。
そんな気配を背後に感じたグウィンは、足を止める事もなく、振り向くことすらなく、片手を軽く上げて振り、歩を早めるかのようにずんずんと歩いていく。
「……あ……」
胸元でしっかり組まれたレンブラントの腕に手をかけたリョウがふと我に返る。
何だろう。この喪失感。
何か大事なものを失くしてしまったような感覚。
スイレンとセイリュウはリョウが知らない間にこの地を去ってそれぞれの地に帰って行っていた。
レンブラントとの結婚式の後、リョウに挨拶する事もなく都市を後にしていたのだ。
その時は、こんな風には感じなかった。
あの子達らしいな、なんて思って呆れたように笑ったのを覚えている。結婚式直後の新婚夫婦の邪魔にならないように、なんていう変な気の利かせ方をしたんだろうな、と思えて。
そもそも、こっちが落ち着いたらいつだって会いに行けるという意識もあったのだ。
でも、この度は。
過ごした時間が彼らより長かったからだろうか。
どこかに定住地を持つわけでもなく、気軽に会いに行けるという保証がないからだろうか。
なんだか、まるで、風に舞う花びらを手のひらに受け止めて握りしめようとした瞬間に、風が吹いて指の間からすり抜けてしまった……そんな感覚だ。
「……付いて行くつもりだったんですか?」
耳元で、絞り出すようなレンブラントの声がした。
「……え?」
リョウが、思いもよらない言葉に驚いて振り向こうとする。
「レン……?」
後ろから抱きしめられることは良くあっても、いつもならリョウが振り向こうとすると弱まるはずのレンブラントの腕の力が弱まらない。
「僕がいるだけでは……まだ足りない?」
……! しまった!
語尾が震えるレンブラントの声にリョウの思考回路がようやく復帰した。
「違う! そんなんじゃない!」
ここ最近、レンブラントの様子がちょっとおかしかった。
以前はもっと自信に満ちていたように思えたのが、ちょっとハヤトを褒めただけでうろたえたり、ここ数日は、たぶんグウィンの出立に先立って男二人で夜遅くまで飲んでいたりもしたのだが帰ってくるとやたらと甘えるようにべったり張り付いて離れなかったり。
それはそれで、普段との落差が面白くて意外な一面にときめいてしまったりもしていたのだけど……。
意外に、これは笑い事ではなかったかもしれない。
急にそんな気がしてくる。
「ごめんなさい、レン。違うの。ついて行こうとなんかしてない。……ただ、ちょっと寂しかっただけ」
正直、なんで追いかけようとしたのか自分でもよくわからない。
グウィンに何か言うつもりだったのか、何か言って欲しかったのか……。
でも、今一番近くにあるこの温もりに勝るものなんてない。それは確かなことで。
ふっと、抱きしめていた腕の力が弱くなった。
なのでくるりと振り向く。
振り向いたついでに両腕をレンブラントの首に回す。
「……僕がいても……まだ寂しいですか?」
唇が触れるか触れないかの位置で紡がれる言葉はあまりに切なく、キスで誤魔化すこともためらわれた。
「寂しくない。……っていうか、レンがそばにいるのはもう大前提だからね。……これでレンがいなくなったら私、寂しいどころじゃなくなるから比較対象にすらならないわよ?」
リョウが目を細めてゆっくり微笑む。
レンブラントの言葉を遮りたくないので唇にキスするのはやめて唇のすぐ横にキスしてそのまま頬にもキスする。抱きつく腕に力を入れて首筋に顔を埋める。
レンブラントが抱き締めてくる腕に再び力を入れたのでリョウの背中がじんわり暖かくなる。
「……良かった。……ごめん、リョウ。少しこのままでいてもらってもいいですか?」
「うん」
反射的に返事をしながら、腕に力を入れなおす。力なんか入れなくてもレンブラントの背中に回った腕がリョウの体を支えているのでしっかりくっついていられるのだけど、なんとなくレンブラントを少しでも安心させたいという思いから。
城の敷地内だから守護者の上着は着用しておらず、ワンピース一枚だからレンブラントの温かさが伝わりやすいみたいだ。
と、あれ?
心地よい温かさにそんなことを考えてから、ふと、そういえば私、ショールを一枚羽織ってなかったっけ? なんて思いなおす。
「……リョウ?」
不意に腕の力を緩めたせいかレンブラントが訝しげに顔を覗き込んでくる。
「……あ、えーと。私、ショール、羽織ってなかったっけ?」
ふと自分の肩に目をやるとやっぱり羽織ってない。
「ああ、さっき落ちましたよ」
そう言うとレンブラントが抱き締める腕にさらに力を入れる。
「そんなもの無くても僕が温めてあげますよ。それに……この方が柔らかくて抱き心地もいいし」
「え……あ、やだ! もう!」
急に恥ずかしくなってきてリョウが身を離そうとするが、レンブラントの腕はそれを許さない。
むしろリョウの赤くなった耳に唇が寄せられる。
「……もう! レン! あなた仕事に行く時間でしょ!」
どうにか逃れる口実が欲しくてそう言ってみる。
「そうですね」
耳元でくすくすとレンブラントが笑う。
こういう瞬間が好きだ。
なんだか心が和む。
安心する、ってこういうことなんだろうな、と思う。
視線の先にある木々の枝の間で白い影が動くのが見える。
ああ、私は今、独りじゃないんだな、なんて思う。
大好きな人に愛されて、見守ってくれる人もいる。
世界のすべてから拒絶されていたあの頃とは全然違う。