文献の影響
ちょっと早い昼食のテーブルを一目見てリョウが目を見張る、
いつもの、台所の隣の部屋。
メンバーもハンナとコーネリアスとリョウの三人。
「奥様……食べられそうですか?」
コーネリアスの手前、「奥様」と呼びかけたハンナがそっと尋ねてくる。
「え……あ、ええ、もちろん!」
リョウが慌てて席に着く。
いつもと同じ昼食だが、いつもと違うのは作り手がハンナであるというところ。
大抵、昼食はリョウが作っていた。
それが、今朝、朝食を作りながら考え事をしていたせいでびっくりするくらいの野菜を刻み、かなりの量のスープを作ってしまった。
その様子を見ていたハンナが「きっとお疲れなんです。お昼は私が作りますからリョウ様は少しお休みください」なんて言いながら台所から追い出すものだから断りきれずに任せてしまった。
で。
食卓のメニューが。
大量に作ってしまった野菜スープは、具材を引き上げて肉の腸詰めと一緒に小麦粉とミルクで作ったソースがかけられてほんのり焼き色がついて一品。更に、野菜の風味たっぷりのスープでパラリとした米が煮込まれてもう一品。そこに焼きたてのパンが添えられている。
「……ハンナ、凄いわね。あのスープでここまでご馳走ができちゃうなんて」
リョウがそれぞれの料理を一口ずつ味見しながら感嘆の声を漏らす。
「いえいえ、もともとの味付けが良かったから、でございますよ。ああ、夕食にはチーズを足して焼いてみようかと思います。もともとがさっぱりした味付けでしたからトマトとスパイスで味を補強したらお酒にも合いますわよ」
ハンナがにっこりと笑って更に美味しそうなアレンジを提案してくれる。
うん。これでもまだ全部消費できてはいないのよね。……まだあるのよね、あのスープ……。
「それで、奥様は少しはお休みになられたんですか?」
コーネリアスに声をかけられて、リョウのスプーンを持つ手がふと止まった。
「え、あ、ああ……そうね。うん、休んだと思うわ」
つい曖昧な返事をしてしまう。
朝は考え事をしていてつい、失敗した、ということにしていた。
とはいえ、考え事というわけでもなかったのだ。
なんだかぼんやりしてしまう。
別に体調が悪いとかいうことはない。
ただ、ここ最近、やる気が出ない。
特に仕事のことを考えると、脱力してしまって全くもって何もする気になれないのだ。何か他のことをやっていれば気が紛れるかとも思って今朝はつい野菜を刻むことに専念してしまった。
ちょっと前はレンブラントにあげようと思っていた紐を組むことに専念できていたのでそれが気持ちの切り替えになっていたんだと思う。
今日からグウィンが参加してくれることになっているのに私がこんなでは申し訳ない。と思えてしまうからなんだか余計に焦ってしまう。
「しばらく仕事の方はお休みなさっても良いのでは?」
コーネリアスがパンをちぎる手を止めて心配そうにリョウを見つめる。
「大丈夫よ。今日からメンバーも増えるし、また雰囲気も変わって楽しめるかもしれないでしょ?」
リョウが笑顔を作って見せ、コーネリアスが諦めたようにそっとため息をついた。
そんな今日に限っていつもより早めにレンブラントとアルフォンスが到着したとのことで、食後のお茶もそこそこにリョウが応接室へ向かった。
「……どうしたの? やけに早いじゃない? ……って、あれ、グウィンは?」
てっきり三人いると思った部屋にレンブラントとアルフォンスしかいないのでリョウがドアのところで一旦立ち止まる。
二人しかいない、ということともう一つ。
なにやら雰囲気がいつもと違う。
いつも通りの席に座っているアルフォンスはいつもなら手近にある本を引き寄せて何はともあれ開いて読み始めているのに、今日は本は脇に積み上げられたまま。両手をテーブルの上で組んでこちらを見ている。
そしてレンブラントは、いつもならリョウが座る席の隣あたりに立っていてリョウが座るときにまず椅子を引いて座らせてくれるのに、今日はアルフォンスの後ろにある本棚の脇に立って腕を組み、こちらを見ている。
「ああ、グウィンなら後から来ますよ。ちょっとあなたと話がしたくてね、今日は少し早めに来たんです」
アルフォンスがそう言うといつも通りの人懐っこい笑顔になったのでリョウの肩の力が抜けた。
レンブラントがゆっくり歩き出してテーブルを回ってこちら側に来ていつも通りリョウが座る椅子を引いてくれるのでリョウはちょっとだけ訝しげにレンブラントの顔を見上げながら座る。
レンブラントの表情はなんとも複雑で読み取りにくくさえ思える。
「……リョウ、体調はいかがですか?」
おもむろにアルフォンスが切り出した。
「へ? 体調、ですか? 別に……普通、ですけど」
なんとなく朝のことがあるので一瞬答えに詰まるけど……体調が悪いわけじゃないので。
と。アルフォンスのかしこまった表情が再び和らぐ。
「そう。良かった。……ああ、そうですね。じゃあ質問を変えましょう。……リョウ、もし、僕が、今読んでいるこの文献に関して信憑性を確立するためにリョウに協力してほしい、と言ったらどう答えますか?」
「……え?」
リョウが再び一瞬答えに詰まる。
今読んでいる文献。その言葉に今までさんざん目にして来た残酷なまでの実験の記録の数々が脳裏に浮かぶ。
正直言って、アルフォンスがそんなことを言い出すとは考えてもみなかった。
でも、考えてみたら、そうなのかもしれない。
この文献の信憑性を裏付けるためにはある程度の「実証」が必要で、私はまさに一番条件にかなう被験者だ。
ああ、だから、グウィンが来る前に、なのかもしれない。
何も知らないグウィンがこんな事を聞いたら絶対に怒り出す。
「……別に構いませんよ?」
時間にしたらほんの一瞬のうちにそんな事を考えて、リョウはほぼ即答していた。
途端に背後でレンブラントが軽く息を飲む。
「リョウとしては、どこまで協力できる?」
アルフォンスの声は相変わらず柔らかい。
「どこまで……って……だって必要なんでしょう? アルが必要と考える事ならなんでも協力しますよ?」
リョウが力なく微笑む。
なんとなく言葉の意味することがわかる。
だって文献の中の被験者たちは最終的に命を落としている。しかも結構残酷な形で。
それに。
話がここまで進んでふと気付いたのだけど。
レンが全く異議を唱えない。
後ろに立っているからどんな顔をしているのかわからないけど、今までのレンだったら真っ先に話を遮っていただろう、と思える展開なのに一言も発しない。
ということは。
レンも肯定しているってことよ、ね。
で、それを踏まえた上で、色々考えてみる。
例えばセイジは「火の竜」に対して恨みもあっただろうけど、純粋に実験をする必要に駆られていたんだと思う。
例えばアイザックは現時点で「竜族の頭である守護者」の存在に価値があると言っていた。
アイザックの考えはグリフィスの考えでもあり、グリフィスの考えは……レンの考えでもあるだろう。
こんなことでしか役に立てないのなら、それもいいかな、なんて思ってしまう。
ああ、それに。
私、一度は死ぬつもりだったっけ。
先の戦いで、命をかける覚悟だった。
何かの弾みで生きながらえてしまっただけで、そもそも惜しい命ではない。
なんだか頭がくらくらする。
私、ちゃんと息、してるだろうか?
リョウがそんな事をふと考えて視線をテーブルの上の自分の手に落とした矢先。
「……レン。もういいですよ。よく耐えました」
アルフォンスのそんな声がしてリョウの座っていた椅子が、唐突に、ガタン! と音を立てた。
「……っ!」
何が起こったのかわからないまま次の瞬間、リョウはレンブラントの腕の中にいた。
アルフォンスの今の言葉を合図にしたように、レンブラントが座っているリョウごと椅子を後ろに引きながらその隣に膝をつき、バランスを崩したリョウの腕を引いてその体を椅子から引きずり下ろすようにして抱き止めてそのまま抱き締めたのだ。
「……え、え? 何?」
訳が分からなくてリョウが顔を上げるとレンブラントが真っ青な顔をして震えている。
「え? レン? 大丈夫? ……どうしたの?」
リョウがそっと腕をその背中に回してさすってみる。
「……あなたを傷つけるようなことは絶対にさせない。そんな事、僕が絶対に許さない……!」
あれ……そうなんだ……。
リョウはなんだかまだぼんやりしたままレンブラントの背中をさすり続け。
「でもね、そんな風に必要とされているなら仕方ないと思うのよ?」
感情のこもらない平坦な声が口をついて出る。
「……リョウ。それは違いますよ」
意外にもアルフォンスの声がした。真後ろで。
どうやらテーブルをぐるっと回ってリョウとレンブラントのそばまでわざわざ来てくれたようなので、リョウが抱きしめられたまま首だけ動かしてそちらに目をやると、やれやれといった表情のアルフォンスと目があった。
「すみません。ちょっと試してみたくて心にもない事を訊きました。リョウに手を出そうなんて誰も思ってないから安心してくださいね。……リョウの精神状態が少し心配だったんです」
アルフォンスが優しい口調で諭すように言葉を続ける。
「……え?」
あれ? なんか思っていたのと二人の反応が違う?
リョウがふと、二人の様子がいつもと違う異様な緊張状態なような気がしてアルフォンスの方に顔を向けたままレンブラントの背中に回した手でその上着を掴んでしがみつく。
この緊張状態は……なんだか怖い。伝染して来たような気さえする。
レンブラントの腕の中でおどおどした目のリョウに、アルフォンスがそっと手を伸ばしてその頭を撫でる。
それはまるで警戒している動物を安心させようとして撫でるような、そんな触れ方。
「あなたはおそらく自覚していないんだと思うんですが……この手の文書はリョウの立場で読みふけると自己否定の概念が異常に強く植えつけられるんです。ここ最近のあなたの様子を見ていたらなんとなく気になりましてね。……レンにも少しずつ聞いてはいたんですが……やはり仕事の進みよりもあなたの状態の方を優先したほうがよさそうだ。……いつからですか?」
レンブラントの腕の中にしっかり抱かれたまま、優しい口調で諭されてアルフォンスに頭を撫でられるのはなんだか気持ちいい。
そんな事を自覚してリョウの体の緊張が少し緩んだような気がした。
で、アルフォンスのセリフの最後が疑問形だったことにふと気付き、リョウが目を上げる。
「……あ、ごめんごめん。いきなりの情報量でついていけなかったかな? えーとね、僕たちはリョウの味方だからね。大丈夫。あなたを傷つけたりはしないし、嫌な事をさせようとなんかしないからね。……分かる?」
アルフォンスの言葉が更に柔らかくなった。
なので、リョウがこくり、と頷いてみせる。
「で、ね。今までリョウが読んで来た本ですけど、僕が思っていた以上にリョウの心に深く影響を与えていたみたいなんです。……えーと、そうだな……例えば最近、意味もなく疲れて何もやる気が起きない、とかありませんでしたか?」
リョウがもう一度頷く。
言われてみればその通り。
アルフォンスがそれを見届けて優しく目を細めた。
「うん。そうだね、辛かったでしょう? ……じゃあ、自分の存在について今まで以上に否定的になっていた事を自覚している?」
……否定的……。そんな風に思ったことはなかったけど……。
「そう、か。うん、分かった分かった。大丈夫。……あのね、さっきのやり取りで何がわかったかっていうのがそこだったんですよ。リョウは自分を役立てるために命を諦めようとしたね? 普通はそんな事、考えないものなんですよ。あれは僕に対して怒っていいところだったんです。『なんであんたにそんなこと言われなきゃいけないの』って。でもリョウは躊躇いもなく僕の提案を飲もうとしたでしょう?」
そうか……あれ、普通の反応じゃなかったのか……。
リョウはそんな事を思いつつ、小さく頷く。
「リョウは多分いつのまにか、あの文献の影響を受けていたみたいです。もしかしたら元々内面に弱いところがあってそこに付け込まれるような形になってしまっていたのかもしれないね。だから、いつ頃からそんな影響を受けていたのかな、と思って『いつからですか?』って訊いてみたんですよ」
「あ……え……っと」
そういうことか。
えー……いつからだろう。だってそんなの自覚してなかったし……。
リョウが慌てて今までの記憶を手繰り寄せようと眉間にしわを寄せる。
「……ごめんなさい。……思い出せない、みたい」
リョウが目を伏せるとアルフォンスが小さく吹き出した。
「うん、まあ、そうだろうね。自覚がないんだから思い出せなくて当然ですよ。いいよ、大丈夫。……僕が思うにね、恐らくセイジの所に行った時にはある程度影響を受けていたんじゃなかな。……となるとね、ここに文献が持ち込まれる前にリョウが受け取って読んでいた資料も若干危険文書だった、ってことになるんだけど」
アルフォンスは終始穏やかに、優しく諭すように話してくれるのでリョウは思わず聞き入ってしまうのだが。
そうか。
そういえば、セイジの実験に協力するつもりだった、と話した時のアルの反応って今思えばちょっと複雑そうだったかも。なんて思い当たる。
「あの時の資料もね、実はあの時点で僕は完全に目を通していたわけじゃ無かったんですよ。結局忙しくて目を通すのがつい先日になってしまってね、今回ここに持ち込まれている文献の原文がかなり紛れ込んでいましたね」
そう言うと小さくため息を吐いてから、軽く眉をしかめてリョウの目を覗き込む。
「で、ちょっと心配になったんです。あれだけのものを毎日読みふけって、健全な精神を保てという方が無理だ。なのにあなたはその上で明るく振舞っていたでしょう? そういうことを続けると心と体が正反対のことをしようとしているから異常に疲れてくるんですよ」
リョウを安心させるようにずっと頭を撫でていたアルフォンスの手がするりとリョウの頰に回ってくる。
優しい手に慣れてしまったせいか反射的にリョウがその手に擦り寄ると、アルフォンスがくすりと優しく笑った。
「幸いにも、この文献の写本を監修していたのがレンなのでね。関わった者をある程度絞り込めそうですから、しばらくは本を読むのはお休みしましょう」
アルフォンスがそう言い終わると。
「そろそろリョウに触るのやめてもらえませんか、アル」
ちょっと不機嫌そうなレンブラントの声がしてリョウが顔を上げると、レンブラントが声の通り不機嫌を絵にしたような顔でアルフォンスを睨みつけていて、つい吹き出しそうになった。
「……あれ……でも……」
再びリョウがアルフォンスの方に向き直る。
「グウィンってこれから来るのよね? ……お休みって……どうするの?」
確か今日からグウィンが参加し始める予定だったはず。
「ああそうですね。彼には今日は少し遅れて来るようにと伝えてありますから、今日のところは今後の仕事内容の打ち合わせ程度で終わると思いますよ」
少し考えるようにしてそう言ったアルフォンスはその直後、ああそうだ、と何かを思い出したように膝を叩いて。
「それに、ハンナのお茶もありますから仕事なんかしなくてもいいんじゃないですか?」
今度こそ何の裏も無い、素直な、満面の、笑みになった。




