仕事の再開
「……なるほど。確かに、これはちょっと過激だね」
アルフォンスが手にしていた本をパタンと閉じて軽くため息をつき、もう一冊を手に取り、さらにパラパラとページをめくる。
「……ちょっと、なんていうレベルですか?」
手にした別の本の開いたページに目を落としながらレンブラントが眉をしかめて言い返す。
「うーん……専門職の人間からすれば記述が正確であればあるほど価値があるから……正確さを追求するあまり……こうなった、といえなくもないんだけどね……」
グウィンも呼ばれることにはなっているが、そもそも所在がはっきりしないのだからレジーナは飛ばしたもののいつ到着するかはわからない。なので都合がついたアルフォンスが先に来てとっとと始めてしまおう。という状況で。
ただ今、守護者の館において、リョウとアルフォンスが資料にまず目を通し所見をまとめる、という作業が始まっており、レンブラントはその監督兼、護衛ということで同席している。
一応、アルフォンスとリョウは本棚から引っ張り出した本を積み上げたテーブルについた状態で、レンブラントは立場上そのテーブルの脇に騎士服に帯剣した状態で立っているが……慣れたメンバーでもあるのですっかり肩の力は抜け、必要はないはずなのに積み上げられた本の一冊を手に取り一緒に読んでいる。
アルフォンスの口調も、得意分野、いってみれば好きな部類の本に集中していることと慣れたメンバーという環境のせいかいつになく柔らかい。これが医師としての仕事をしていない時の「素」なのかも知れない。
そしてリョウは。
「グリフィスとアイザックも凄かったけど……アルまでそんな読み方するのね……」
先程からアルフォンスの本を読むスピードに目が釘付けだった。
あれは、本当に「読む」という行為なのだろうかというほどの速さ。「見ている」といった方が合っているような気がする。
「え? ……ああ、そうか。あの二人もできたね、速読。ちょっとした訓練をすると出来るようになるよ。文字や文章を絵と捉えるんだ。ページを眺めるだけで内容が頭に入るから一度に大量の本を読む必要がある時には便利だね」
アルフォンスの口調はいつもよりくだけているが、声のトーンは相変わらず穏やかで親しみがある。
そんなアルフォンスを見るのがなんだか新鮮でリョウは実のところずっとそわそわしっぱなしだ。新しいものを発見した子供のように目を見開いてニヤニヤしてしまう。
そんなリョウの様子をたまに苛立たしげにチラチラと見やるレンブラントには……まあ、誰も気づいてはいない。
「皆さま、そろそろ一息入れますか?」
午後になってから始めた作業だったが各自が無言になって集中し始めて数刻経つ頃、ハンナがワゴンを押しながら部屋に入ってきた。
「……ハンナぁ……! ほんっとにありがとう……」
真っ先に声を上げたのはリョウだ。
正直言って集中力がもう限界だ、と、思っていた。
アルフォンスとレンブラントがページをめくる音が割と規則的に続いていたので二人が集中しているのであろうことは分かっており、分かっているが故に声をかけるわけにもいかず、二人が頑張っているんだから私が集中力を切らしてはならない、と自分に言い聞かせながら読み進めていた。
リョウの声があまりに情けないものだったせいかまずアルフォンスがくすり、と笑みを漏らしながら読みかけの本を閉じ、レンブラントが続いて我に返って手にしていた本を本の山に戻しながらリョウの隣に歩み寄る。
「……大丈夫、ですか?」
リョウが閉じかけた本をレンブラントが取り上げて書いてある内容を確認するようにページをめくる。
「ああ、大丈夫よ。単に文字の羅列に疲れただけだから」
感覚というものは恐ろしくて、結構残酷でショックを受けていた内容でも長いこと目にしていると慣れてしまう。
リョウもだんだん内容の酷さに気が滅入る、というのはなくなってきたように感じていた。
ただ、筆者の意図を考えると気が滅入るのは変わらないので、そこを本能的に考えないようにしている自分にふと気づく。
「いい香りですね」
アルフォンスがカップに珈琲を注いでいるハンナに声をかけた。
淹れたての珈琲が注がれると香りがさらに広がって一際注意を引く。
「ありがとうございます。コーネリアスが淹れる珈琲はちょっと美味しいんですよ。お客様にも是非一度ご賞味頂こうかと思いまして」
嬉しそうにハンナが答える。
「あら、ちょっと、なんてもんじゃないわよ。本当に美味しいんだから! 私も真似して淹れてみたけどうまくいかないのよね」
ハンナの作業の手つきをうっとりと眺めながらリョウが請け合う。
紅茶の淹れ方は割とすぐに習得したリョウだったが、珈琲は一度興味本位でやらせてもらって即放棄していた。
「だいたい、あの布のフィルターはお手入れが大変だし、お湯の温度によって味は変わるし、コーネリアスが淹れるみたいにふわっともこもこの泡が出るのって……あれは絶対魔法だと思うもの!」
コーネリアスが珈琲を落とすときには珈琲豆の上から湯を注ぐと細かい泡がまるで泡だてたクリームのように豆の上に湧き上がるのだ。
リョウはそれが上手くいかず、コーネリアスがなんとも微妙な面持ちで唸ってしまう。
おそらくコーネリアスは自分の主人を否定することを極力しないようにしているので「そのやり方が間違っている」という指摘ができずにいるのだろう、と察すると「うん! これは私が制覇しなくてもいい分野!」という結論に達していた。
「奥様のお気に召していただけて幸いでございます。今日のお茶請けは固焼きのクッキーですのでよろしかったら珈琲に浸してお召し上がりくださいませ」
ハンナが満面の笑みでクッキーが入った皿をテーブルの上に置きながら説明する。
切り分けてから再び焼いたような形のクッキーにはナッツが入っていてこれもまた香ばしいいい香りを放っていた。
「リョウ……この本を読むのは僕たちがいる時だけにしてもらえますか?」
ハンナが下がった後、珈琲のカップを手に取りながらアルフォンスが思案げな面持ちで切り出した。
「え? あ、うん。それでいいなら構わないけど……」
アルフォンスの意図するところがわからずにリョウが訝しげに首を傾げる。
この人の読むペースを考えたら先に私が読んでおかないと間に合わないような気がするんだけどな……。なんて思いながら。
「いやね、リョウ、もしかして始めの頃より今の方がわだかまりなく読めてるんじゃないかと思いまして」
「ああ、そうね。そういえば」
始めのうちはいろいろ考えてしまっていたので読むのが辛くなることが多くて、度々中断していた。でも最近はなんだか割り切れてしまうせいか何も考えずに読み進めてしまえるのだ。
「内容がね、健全でないものが、おそらく意図的に所々に巧妙に仕込まれているんですよ。読み手を混乱させて、ある種の思想を植え付けようとしている可能性も考えられます。始めのうちは拒否反応が出ていたと思うんですが徐々に慣れさせて……言ってみれば感覚を麻痺させようとしているようにも考えられる」
「アル! そんなものをリョウに読ませるわけには……!」
すかさずレンブラントが声を上げた。
「ああ。……だからね、僕が先に目を通して危ないところは読まなくていいように印をつけておきます。その後をリョウが読んで竜族として公開していい情報か、さらにはそもそも正確な情報なのかを判断すればいい」
「あ、なるほど……」
リョウが思わず声を漏らす。
そうか。うっかりしていたけど、私がこの文献を読む目的はそれだった。
なんだかいつのまにか内容を納得しようとして一生懸命読んでいた。そのために個人の感情や考えを捨てて読みふけっていた。だからだんだんわだかまりなく読めるようになっていたのか。
「……その様子だと、本来の目的も忘れていましたね?」
いつのまにかアルフォンスの口調も眼差しも医師としてのそれになっている。
「すみません……」
思わずリョウが謝る。
「リョウが謝ることじゃないですよ」
「あなたが謝ることはない!」
柔らかい口調のアルフォンスのセリフと少し焦ったようなレンブラントのセリフが重なった。
なので、思わずリョウがこくこくと小さく頷く。
危うくもう一度謝りそうになってしまったので。
「じゃ、今日はここまでにしておきましょう。レンには後で少し確認しておきたいことがありますが……今日じゃなくてもいいでしょう。せっかくなのでこの珈琲とそのクッキーをいただかなければ」
あれ? 今、語尾に小さくハートマーク付いてなかった? なんて思いながらリョウがアルフォンスに目をやると。
うん。
付いていたんだろうね。すごくキラキラした目でクッキーを手に取ってるよこの人。
「これを浸して食べるって言ってませんでしたか?」
……すでにお菓子と珈琲しか頭にないかもしれない。
そういえば前に、ザイラが診療所でお世話になったお礼にとお菓子を持って行ったら喜んでいたって言ってたっけ。つまり……この人も甘いもの好きなわけだ……。
「そのまま食べると……結構固いですね……」
音を立ててクッキーを一口かじったレンブラントが眉をしかめた、ので。
「ふふ。ハンナはいつでも一番美味しい食べ方を知っているのよ」
つい最近、揚げパンを「上品に食べるよりこの方が美味しい」と、一思いに噛り付いていたハンナを思い出しながらリョウが満面の笑みでクッキーを珈琲に浸す。
リョウの珈琲にはお約束にようにミルクが入っていて、クッキーを浸すとジュワッと珈琲が吸い上げられた。
軽い感触のクッキーがわずかに重さを変えたところでゆっくり持ち上げると、ほろほろ崩れてしまうかと思いきや案外ちゃんと形を保っているし珈琲が滴り落ちるようなことにもならない。丁度よく珈琲が染み込んでいるようだ。
なのでリョウも思わず目を輝かせてしまいながら一口かじると。
「……んん!」
目を上げた瞬間、アルフォンスと目が合った。
アルフォンスも同じタイミングでクッキーを口にしていたようで全く同じ目をして満面の笑みだ。
「……美味しい、わね」
「……美味しい、ですね」
口から出る感想も同時だった。
その様子を呆気にとられるように眺めていたレンブラントに。
「レン! それ、絶対そのまま食べちゃダメ! 浸して浸して!」
「レン……リョウの言うとおりですよ。ふわっと柔らかい舌触りといい、珈琲で加わる苦味といい、その中に残るナッツの香りといい……なんですかこの計算されたお菓子は。ハンナは天才ですね」
二人がたたみかけるように力説し始めた。
「……リョウ……愛してる」
「え……何? レン、急に……?」
慌ただしい一日が終わって寝室のソファでくつろぎ始めていたリョウを、バスルームから出てきたレンブラントが隣に座るなり肩を抱き寄せてきたのでリョウが慌てる。
頭を使いすぎた感があって、なかなかリラックスできそうにないのでテーブルの上にはリョウが漬けていた林檎の酒が台所から持ってきてある。
レンブラントも飲むかと思ったので一応カップは二つ。
「やっと一緒に仕事が出来るようになったから安心していたのに……意外に邪魔が入るなと思って……」
ゆったりしたソファの上に上がり込んで横向きに座り込みながらレンブラントが隣のリョウを抱え込むように抱きしめて囁く。
「え? 何? 邪魔って……?」
温かいレンブラントの体温に包まれるとリョウはもう条件反射で顔が緩む。
言われていることの意味がわからないまま、くすくすと笑ってしまいながらそっと見上げるとレンブラントの拗ねたような瞳と目が合った。
「なんでアルなんかと意気投合するんですか? それに今日はずっとあいつのことばかり見ていた。……だいたいアルもアルだ。リョウにあんな特別感たっぷりに優しくしたりして。あいつ、リョウの気を引こうとしてるんじゃ……」
「ないから。そんなこと、絶対ないから」
リョウは思わず半眼になってレンブラントのセリフを遮ってしまう。
拗ねているレンブラントはなんだか可愛い。
一見怒っているようにも見える、眉間にしわを寄せて不自然に引き結んだ口許。でも目は、ちょっとおどおどしていて不当な苛立ちを自覚していながらそれでも自分ではどうにも出来ない、というのがみえみえだ。それって、つまり甘えているということで……そんな風に甘えられていると思うとつい頬が緩む。
「レンが大好きよ」
囁きながら右手をそっとのばしてレンブラントの左の頰を包み、そのまま首筋にその手を滑らせながら逆側の首筋に唇を寄せて口づける。少しづつ場所をずらしながら軽い口づけを繰り返すとレンブラントが満足そうに小さく息をついた。
「……飲んでたんですか?」
底の方に少し中身が残っているカップを取り上げてリョウの前に差し出すので。
「あ、うん。ちょっと頭が冴えすぎて眠れそうになかったから。レンも飲むかなと思って持ってきたんだけど」
差し出されたカップを受け取って、テーブルの上のまだ空っぽの方のカップをリョウが指差す。
「ふーん……」
しばらくリョウの手にあるカップとテーブルのカップを見比べてからレンブラントが。
「そっちがいい」
にやりと笑ってリョウのカップを持った手に自分の手をかける。
「……え?」
リョウの手をカップごと自分の方に引き寄せるのかと思いきやそっとリョウの口元に押しやるので、一瞬リョウが戸惑い……理解する。
これは……ねだられているってことよね。うん。……ちょっと恥ずかしいんだけど……。
なんて思いながらリョウがカップの中身を口に含んでソファの上で膝立ちになり、少し上を向いたレンブラントの唇に自分の唇を重ねる。
レンブラントの喉が小さく音を立てると同時にリョウの頰が赤くなった。
「……うん。美味しいですね」
レンブラントが満足そうに微笑んでから、まだ濡れているリョウの唇をペロリと優しく舐める。
「まだ残ってますね。もう一口下さい」
にやりと笑うレンブラントに促されてリョウが再びカップの中身を口移しでレンブラントに飲ませると、レンブラントの片腕がリョウの腰にしっかり回された。
「これ、そんなに強い酒じゃないですよ? 随分顔が赤いですけど……」
リョウの顔を覗き込むレンブラントが意地悪そうにくすくす笑いながら空になったカップを取り上げる。
「……い、いや、これは……酔っているわけじゃなくて! ……レンが変なことさせるから恥ずかしかったの!」
絶対分かってて言ってる!
そう思いつつリョウは小さく叫んでしまった。
「前は自分からしてきたくせに」
レンブラントの人の悪い笑みにリョウの背筋がびくりと震えた。
わざとらしく目を細めて口許で作られたその笑みは妙に色っぽい。
「それに……このくらいで許すと思いました?」
レンブラントの視線はリョウの瞳を捉えたまま、空のカップをテーブルに戻した手でリョウの寝間着の胸元の紐に手をかける。
「え……あ……ちょっと……」
膝立ちになったまま片腕で腰をしっかり捕まえられているのでリョウはレンブラントを少し見下ろすような体勢。これからレンブラントがしようとしていることを考えるだけで腰の力が抜けそうになるのだが腰を支えられているので座り込むこともできずに両手でレンブラントの肩につかまるようにしてしがみついてしまう。
「……いつも上に何か羽織ってくださいって言ってるのに……ちゃんと聞かないのも悪いですよ。冷えた体は僕が温めてあげなきゃいけないでしょう?」
「う……あ……」
そう言われれば、またしても寝間着一枚で過ごしてしまっていた……。
手近なところにショールがあったはず、と視線を彷徨わせると。
「今更探しても遅いです。ほら、僕を見て」
やんわりとした口調でレンブラントに促されてリョウが言われた通り視線をレンブラントに戻すと、同時に胸元が緩められた寝間着がするりと肩を滑る。
レンブラントはうっとりしたように微笑むとリョウの目を見つめながら露わになった胸に唇を這わせてくるので、リョウが眉間にシワを寄せながら目を潤ませた。
「昼間はあいつのことばっかり見ていたんだから今度は僕のことを見ていてくださいね。目を閉じるのも逸らすのも禁止です」
そう言うとレンブラントは片腕でリョウの腰を支えたまま、もう片方の手を優しくその背中に這わせて、リョウの反応を確認するようににやりと笑う。
「……声は出していいんですよ?」
いつのまにかリョウは片手でレンブラントの寝間着の肩のあたりをぎゅっと握りしめたままもう片方の手の甲を口に当てて声を出しそうになるのを抑えていた。
「……だっ……て……ダメ……。気持ち……よすぎる」
レンブラントの手も唇もリョウが気持ちいいと思う場所も触れ方も知り尽くしている。
さらに、艶っぽく笑うレンブラントの表情が目に入ると……もう相乗効果を通り越して、おかしくなってしまいそうだ。
「ふーん……」
レンブラントは嬉しそうに微笑むとリョウの腰に回した腕を緩めたので、リョウは力尽きたように座り込みそうになりそっと背中を支えられながらレンブラントの胸元に抱き寄せられる。
ようやく解放されて安堵するリョウの口に当てていた手をレンブラントが優しく掴んで引き離しながら。
「……まだですよ?」
改めて瞳を覗き込まれ、息がかかる距離でそう告げられると、リョウの体がびくりと震える。
「目は開けたまま、ですよ。リョウの反応が見たい」
そう言われて唇を重ねられる。
探るような深い口づけが続き、リョウの意識が薄れそうになる。
うっかり気持ちよくて目を閉じそうになると窘めるようにレンブラントが舌で刺激してくるので、かろうじてうっすら開けた瞳からは涙がこぼれそうになる。
「ん……ふ……ぅ……」
わずかに唇が離れた隙にリョウの声が漏れ、レンブラントがくすり、と笑って。
「もう少し素直になれるように、もっと気持ちよくなってもらわないとね」
そう言うと、レンブラントはゆっくりリョウをソファに押し倒した。




