揚げパンと珈琲
「……ん? あれ? なんか変?」
リョウがふと手を止めて、手元に組み上がって来た紐を確かめるように指でなぞる。
「……どうなりました? ……あら……これは……」
リョウが助けを求めるような視線を送ると隣で繕い物をしていたハンナがリョウの手元を覗き込み、ぷぷっと小さく吹き出した。
途中まで規則正しく組まれていた紐は、何がどうなったのか途中から規則性を失っており、もっといえば目の粗さも均一性を失っている。
「……あー、はい。そうですよね。最初からやり直します」
リョウが小さく肩を落としてから新しい糸の束を用意し始めた。
午後の日差しが柔らかく入り込む洗濯室の片隅で、本日、リョウはハンナに飾り紐の組み方を教わっている。
レンブラントにプレゼントしたいとかねてから考えていたもの。
ルーベラに教えてもらおうと思っていたのが、なかなか予定が合わず、先日も後から来た客が思いのほか長く居座ったせいでリョウはルーベラにその話を持ちかけられずにいたところ、思い切ってハンナに聞いてみたらハンナが快く教えてくれることになったのだ。
ハンナの仕事がひと段落する午後の時間を狙った訳だが……結局、やり方を教えてもらっても実際に時間をかけてやってみないことには上手くいかないのでハンナには作業の合間に様子を見てもらうという感じになっている。
なので、リョウが黙々と教えてもらったことを思い出しながら紐を組み上げている間にハンナは隣でアイロンがけをしたり繕い物をしたりと細々した仕事をしている。
「……なるほど……ハンナに言われた通り最初から本番用の糸を使わなくて正解だったわね……」
リョウが恨めしそうにテーブルの上にある真新しい糸の束を見やる。
つい昨日買ってきた糸の束だ。
レンブラントが仕事に行っている間にさくっと作れるかと思って、北の大通りの裁縫の店に行って買ってきた絹糸。青や緑に段染めされた光沢のある糸と、ちょっと高価な銀糸で、これを使ったらさぞかし綺麗な飾り紐ができるだろう、そしてそれは騎士服を着こなした彼の髪によく似合うだろう、なんてリョウは想像していたのだが。
「最初からそんなに高価な材料で作り始めたらもったいなかったでしょう?」
ハンナがくすくすと笑う。
そう、早速ハンナに止められてまず練習用にハンナの裁縫箱にある糸を使って練習させてもらっているのだ。
「うう……我ながら自分がこんなに不器用だとは思わなかったわ」
リョウの視界の隅に、かなりの量の失敗した残骸が映っている。更にいえば、ハンナの裁縫箱の糸が間も無く底をつきそうでハンナは繕い物が今日は全部終わるかどうか少しハラハラしているくらいだ。
「リョウ様は不器用ではないと思いますわよ。だいたい、その飾り紐はそんなにすぐに出来るものではありませんからね。南の方の習慣で花嫁が自らのために組み上げる紐は何ヶ月もかけて少しずつ進めていく婚礼の準備の作業であるくらいですもの」
そう言うとハンナは上品な微笑みを浮かべる。
なのでリョウも少し肩の力が抜けて一旦大きくため息をついて気持ちをリセットしてみる。
「お茶を淹れましょうか?」
リョウのため息を合図にしたようにハンナが笑顔のままそう言うと作業の手を止めて立ち上がった。
「コーネリアスの方が先にひと段落しているなんて珍しいわね」
ハンナに続いて台所に入ったリョウが声を上げた。
ハンナがお茶を用意している間に作業中のコーネリアスを呼びに行こうかと思っていたところだったのに、台所では既にコーネリアスがお茶の支度を始めていたのだ。
「今日は買い付けの仕事がないので掃除だけで仕事が片付きました。何かご用があればお申し付けください、奥様」
コーネリアスが品良く微笑みながらゆったりとした口調で説明してくれる。
「いやいや。これ以上こき使う気はないから仕事がひと段落したならちゃんと休んでいいのよ?」
リョウは思わず苦笑してしまった。
大抵ハンナが洗濯や台所仕事に関係した事をやってくれて、コーネリアスは買い付けや家の中と外の掃除やメンテナンスを担当してくれている。
リョウとレンブラントの寝室やバスルームだけはなんとなくリョウが掃除はするようにはしていて、ちょっと大掛かりな時だけハンナに手伝ってもらっている。
それにしてもこれだけの広さの家を塵ひとつ落ちていない状態に保ち、なおかつほぼ定刻通りに食事ができるように整えられているなんて彼らの仕事は本当に一流だとリョウは思う。
食事を作るのはリョウであることが多いとはいえ、本当に「作るだけ」なのだ。材料は揃えてあるし、下手したら片付けなんてリョウがやるのは最低限、だ。使った道具を洗って片付けて、出たゴミをまとめる。その程度。台所全体を掃除して磨き上げるのはハンナの寝る前の仕事になっている。
申し訳ないからリョウも気がついた汚れは自分で拭いたりするのだが、ハンナが徹底的に夜のうちに磨き上げてくれた跡を見るとそれ以上に綺麗になっていたりしてびっくりするくらい。
コーネリアスの仕事にも無駄というものがなく、買い付けに行くのもいつもきっかり時間通りで帰ってくる。手が回りきらないのではないかと思いきや、上手いこと店の主人と話をつけて常時必要なものは定期的にこちらに届けてもらうように手配されているようでそれ以外のものを細やかに注文しに行ってくれている。
ちょっと前にアイザックが「あの年代でこなせる量ではない」なんて彼の仕事を評価していたが確かに屋敷の外回りの掃除なんて白髪混じりの初老に近いコーネリアスが短時間でこなす仕事とは思えない。気になってリョウがこっそり観察すると、どうやら経験に基づくコツがあるということなのか非常に効率よくテキパキと的確に仕事をこなしていて大変そうな様子が微塵も見られなかった。
リョウはだいぶ前に小麦粉の大袋と格闘して台所で大惨事をやらかした自分を思い出しつつ心の中で「コーネリアスは魔法使いかも知れない」なんて呟いたものだ。
アイザックがコーネリアスとすぐに打ち解けたのも彼の仕事の質のお陰なのだろう、と思えて仕方ない。アイザックは仕事が出来る人への評価は高い。
「わあ……! いい香り!」
リョウは思わず声を上げてハンナと目を見合わせて満面の笑みになってしまう。
少人数でお茶をしたり食事をしたりするための、台所の隣の部屋はさほど広くはないのであっという間に香りが部屋中に広がる。そして珈琲の香りはなんだかほっとするものだ。
リョウの目の前のちょっと大きめのカップに注がれるのはコーネリアスが淹れた珈琲と温めたミルクを合わせたもの。同じものがハンナの前のカップにも注がれ、コーネリアスのカップにはミルクなしの珈琲が注がれる。
「奥様が先ほどお作りになった揚げ菓子がきっとこの珈琲に合いますわよ」
ハンナがそう言いながら油紙を敷き込んだかごをテーブルの上に乗せる。
揚げ菓子、なんてハンナが丁寧に言ってくれるのでリョウはなんだかくすぐったくて照れ笑いになってしまう。
いつもは大きく焼いてスライスして食べていたパンだったが、今朝ハンナが用意してくれていたパン生地は卵とミルクとバターが入っているとのことだったので小さく丸めて手のひらサイズにして焼いたのだ。で、その残った分を油で揚げて砂糖をまぶした。というだけ。平たく言うと揚げ菓子というより単なる揚げパン。
ハンナの手が空くのを待つ間に作ってみたのだ。
ちなみにいつもよりお菓子に近い感じのこのパンは、以前蒸留酒を染み込ませたケーキとしてハンナが昼食会に出してくれたこともあった。
「ああ、美味しいですね。奥様は本当に料理のセンスが良くていらっしゃいます」
上品に一口サイズにちぎりながら頬張ったコーネリアスが笑顔で感想を述べてくれる。
「あ……ごめん。食べにくかったわね……そうか……上品に食べるようなお茶請けじゃなかったわね、これ」
笑顔を崩すことなく上品に食べるコーネリアスに倣って同様にちぎって食べようとしてリョウは若干手こずり、えいっとかじりついたところで口の周りに砂糖がつくというなんとも子供っぽい食べ方になってしまった。
ペロリと舌を出して口の端についた砂糖を舐めとるとハンナがくすくすと笑いながら。
「コーネリアスのように気を遣って食べていたら味が分からなくなりますわ」
と、ハンナにしては珍しく大きく口を開けてかぶりつく。
うん。やっぱり唇に砂糖がしっかりキラキラと付いている。
指先にも砂糖がつくので指で拭き取るわけにもいかず、ハンナもペロリと舌を使って砂糖を舐めとる。そんな仕草もハンナがやると可愛らしく見えてしまうから不思議だ。
食べやすさはさておき、味はなかなか捨てたもんじゃない。卵が入っているせいで中の生地は黄色く、バターのお陰で香りが良い。揚げてあるので表面はパリッとしていて中はサックリふわふわだ。
香りにつられて一口、また一口とついつい際限なく食べてしまう。
コーネリアスが淹れてくれる珈琲もミルクの甘味とほろ苦く広がる香りが絶妙で熱くなかったらごくごく飲んでしまいそうだった。
「そういえば……奥様のお仕事の方はまだよろしいのですか?」
悪戦苦闘しながらも揚げパンを食べることに夢中になっているリョウにハンナが声をかける。
「え、ああ……そうね」
リョウがふと目を上げるとハンナはすっかり綺麗に一つ目の揚げパンを食べきったようで布巾で手を拭くと、リョウの方に目をやりながら珈琲のカップを手に取っている。
「結局、あと二人メンバーが増えることになったから揃ってから始めることになったの。今ちょっと休憩中なのよ。まあ、一応少しずつ読み進めてはいるけど急がないといけない訳じゃないからね」
これは、グリフィスの気遣いの表れなのだと思う。
内容が結構なものだったので一人で黙々と読み進めるのは精神衛生上良くないだろう、という。
アルフォンスは本来の仕事があるのでこちらに来れるのは一日のうち午後だけになる予定で、夕方には再び診療所の仕事に戻るのだとか。グウィンが来るまでの間に診療所の仕事をうまく割り振ってこちらでの仕事ができるように段取りをつけてくれるらしい。
「奥様、あまりご無理はなさらぬよう」
カチャリ、とカップをソーサーに戻しながらコーネリアスが小さくため息をつく。
ああ、ここにも気を遣ってくれる人がいた。
なんてリョウが思いながらコーネリアスに笑いかける。
「大丈夫よ。気が滅入る前にやめてるから」
文献の内容について話した記憶はないが、そして応接室の本棚に置きっ放しとはいえコーネリアスが勝手に読んでいるとはまず考えにくいのだが、コーネリアスはどうやらあの文献があまり心地よい種類のものではないことを知っているようでリョウが読みふけっていると掃除のついでを装って時々声をかけにきてくれているのだ。
「難しい内容なんですね」
そう言って目を伏せるハンナは……この感じからして内容を知っているようには思えない。
かすかに読み取れる程度ではあるが真剣に心配しているような眼差しを向けるコーネリアスは、もしかしたらレンからそれとなく聞いていて注意してくれているのかも知れない。なんてリョウは思う。
ハンナが知らないのはおそらく大ごとにしないようにというレンブラントとコーネリアスの気遣いからか。
……確かに、ハンナが心配して気にかけるようになったら自分の仕事をそっちのけで私に張り付かれちゃいそうだわ。
そう思えるのでリョウはつい笑いがこぼれそうになる。
その笑顔をどう受け取ったのかハンナが安心したように再び揚げパンに手を伸ばしながら。
「奥様は大丈夫でございますよ。支えてくださる方々にも恵まれておいでですし、考え深い方ですもの。ええ、大丈夫ですとも」
大きく頷いてハンナが再び揚げパンにかじりつく。
リョウは一瞬そのなんともハンナにミスマッチな仕草に目を奪われ、その後、ぷっと吹き出しそうになる。笑いが堪えられなくなってコーネリアスに目を向けるとコーネリアスも同様だったようで口元を不自然に歪めていたが、リョウと視線が合ったのを合図にしたかのように二人が同時に笑い出した。
このお茶請けはしばらく三人の間で流行りそうだ。
絶対にまた作ろう!
とリョウは心に決めた。




