優しさ
「久しぶりだね。こんなメンバーでゆっくりするなんて」
ハヤトが楽しそうに笑う。
……最近やけにハヤトの表情が豊かになったような気がしてならない。と、リョウは密かに思っていた。
隣でザイラが一瞬目を丸くしたので、多分気のせいではないと思うのだけど。
「ああ、本当に。こんなところに呼んでもらえるなんて、これも結構自慢話になりそうだしな」
ザイラの隣でクリストフが満足気に周りを見回しながら答えた。
「……みんな忙しかったからなかなか呼べなかったんですよ。すみませんでしたね」
レンブラントがそう言いながらリョウが紅茶を皆の分注ぎ分けるのをうっとりと見守る。
家の庭の一角にテーブルを持ち出して午後のお茶をしようということになり、城での会議を終えた馴染みの隊長たちを集めてみたところ。もちろん、ザイラにも仕事を調整して加わってもらっている。
以前は城壁の外に「溜まり場」があったのだが、城壁の外が危険な場所ではなくなった今、その場所は子供達の遊び場と化しており、もはや彼らの特別の場所ではなくなっていた。
「そういえばこの家って今『守護者の館』って呼ばれてるんだよね」
お茶請けに用意したカップケーキを手に取りながらクリストフが思い出したように言った。迷うことなくシンプルな何も入っていないものを選んだところを見ると、もう全種類制覇済みなのかもしれない。この中で唯一甘みが少ないのはそれだ。
「あー……それって本当に知れ渡っているのね……そんな大層な呼び方、恥ずかしいからやめてほしいんだけどな」
注ぎ分けた紅茶を各自の前に配りながらリョウがどこか遠い目をして乾いた笑いを漏らす。
つい先日、買い出しに行ったら店の主人が「守護者の館に定期的に届けましょうか」なんていう言い方をするもんだから、それはどこのことだろう? と一瞬返事に困ったのを思い出したのだ。
本当にこの都市の人たちは温かくて優しい。
自分の力を知っているはずなのに、そして、その自分が立場を明らかにするような格好をして街中を歩いているのに、微笑んでくれて、しかも個人的に声までかけてくれる。
ちょっと前に、東の都市で受けた扱いとはまるで違う。
リョウはむしろ、あれが本来の本能的な人間の反応だと思うから……ここでの反応にほんの少し懐疑的にすらなってしまう。
いつまでこれが続くのだろうか、と。
「あらぁ、いいじゃない? 皆んなリョウがこの都市を救ったことに感謝してるのよ。感謝を忘れてしまわないようにこういう対象物があるっていうのは大事なことよ」
「……ああ、そういや記念碑を立てるっていう計画も出てるんだよね」
ザイラの言葉を受けてハヤトが口を挟む。
「きっ、記念碑……っ?」
リョウが固まる。
隣でレンブラントがくすくすと笑いだして。
「……ああ、そんな案もありましたね。公共広場の真ん中にリョウの像を立てるとかなんとか」
うそでしょ……。
リョウが涙目になる。
「……あれは全力で却下させてるんだよ……」
なぜかクリストフが頭を抱えてしまった。
「だってさ。よかったねリョウ。被害者が他にも出ることになるからね」
ハヤトが笑いをこらえるようにしてそう言うと紅茶を口に運ぶ。
「被害者……?」
リョウが首を傾げてレンブラントを見ると。
「その像を立てるときには診療所の庭に対になる形でザイラの像を立てるっていう計画だったんですよ」
「……げ」
リョウの隣でザイラが固まった。
「クリス、それ、何としても阻止してね! なんなら夫婦の危機ですとか言ってもいいからね!」
半ば叫ぶようなザイラの反応に今度はクリストフが青くなる。
「え……夫婦の危機って……それ、ものの例えだよな?」
「まさか。そんな恥ずかしいことになったらあたし、父さん連れてこの都市から出ていってやるから!」
当然、と言いたげな顔でザイラが言い放つと、ハヤトとレンブラントが同時に吹き出した。
「……レン、他人事のように笑ってるけどね……私もそんな恥ずかしいことになったら出て行くわよ?」
リョウがにっこり笑いながらレンブラントの方を見やるとレンブラントも一瞬で笑いが引いたようだった。
「……全力で阻止します」
真顔で答えてくれるレンブラントにリョウが胸をなでおろす。
本当に……ここの人たちの優しさには付いていけない……本当に……大丈夫なんだろうか。
「……まぁ、記念碑はさておき、そのうちリョウにも色々話が舞い込むと思うよ」
一通り笑ったハヤトが、ちょっと息継ぎをしてからそう言うと再び紅茶に手を伸ばした。
ハヤトの仕草は何気に綺麗だ。何をするにも迷いがなく、すっと真っ直ぐに動く。女性の優雅さとは対照的な男性の優雅さだ、とリョウは思う。
「舞い込むって、何の話が?」
つられるようにリョウが同じように紅茶を一口飲んで聞き返す。
うん。今日も美味しく淹れられてる。
紅茶の魅力にはまってからルーベラに教えてもらって上手に淹れられるようになったのだ。
ザイラがチョコレートを練り込んだカップケーキを手に取るのを眺めながら、砂糖漬けのベリーが入っているカップケーキを取り、半分をレンブラントに渡す。
こういう物は半分ずつ食べた方が他の種類も食べられるから最近は習慣になっている。
「んーとね、例えば竜族についての正確な情報の確立とかさ。本人に関与させるのが一番手っ取り早いっていうのが元老院の考えだから」
ナッツが入ったカップケーキを手に取って二つに割りながらハヤトが説明する。
「ハヤト、その話はまだあとでいいと思うんですが」
意外に真面目な声が隣でしてリョウが顔を向けるとレンブラントがハヤトを見据えてため息をついた。
「……ああ、リョウ、気にしなくていいよ。これ、今日の会議の中で出たばかりの話でまだ決定事項でもないんだ。レンはリョウに負担をかけないようにまだ決まってもいないことを迂闊に喋らないようにしているだけ。リョウはこの都市の守護者だからね。こういうことに関わる時はちゃんと正式に議会に召集されると思うし、そうでなくてもリョウの意思を無視して勝手に決まることもないからね」
クリストフがなんでもない事、という雰囲気を作りながら付け加える。
……ああ、なるほど。
なんだかみんなの気遣いがくすぐったい。
そんな気がしてリョウが自然に笑顔になる。
最近、こんな風に内側から笑みが湧き出してきて笑う、ということが増えた気がする。前は「ここは笑うところ!」みたいな気持ちが先に立って笑うことの方が多かった。
「良いわねぇ、リョウ。レンにそんなに気遣ってもらえて!」
ザイラが隣で頬杖をついてうっとりした眼差しを向けてくる。
「……あのな、ザイラ。……それ、どういう意味かなぁ?」
微かにクリストフの口許が引きつっているように見えるのは気のせい……かな?
そう思うとリョウは「この二人、仲がいいなー」と、無言の微笑みを向けてしまい、その視線を同意を求めるように反対側のレンブラントに移す。
と。
目が合ったレンブラントが急に赤くなって目を逸らした。
「……レン、そのあからさまに見とれてました、みたいな反応やめてくれる? なんかこっちが恥ずかしくなってくる」
リョウの向かいでハヤトが声を上げて紅茶のカップを手に取った。
「すっ、すみませんね」
レンブラントがますます赤くなる。
……え、これ、そういう反応だったの?
リョウはちょっと焦って気を紛らわすように黙々と新しいお茶をティーポットに作り始める。
沸かしたてのお湯がいつでも使えるように、自らの力で火を常備しているのはもはや周知の事実でこのメンバーなら誰も驚かない。
「ね、リョウのそのお茶の淹れ方ってルーベラ譲り?」
ハヤトがわずかに身を乗り出して聞いてくるので。
「あ、うん。そうよ。あの子、こういうの詳しいのよね。私は紅茶なんて知らなかったから。やっぱりルーベラみたいに上手には淹れられてないかしら」
そういえばハヤトには何度かルーベラがお茶を淹れてあげたって言っていた。
彼女のお茶を飲み慣れてる人には違いがわかってしまうだろうか。
「え、あ、いや。違うよ。ルーベラと同じ味がするからさ。これ、美味しいよね。同じお茶の葉でも発酵させるとこんなに味が変わるなんて面白いなと思ってさ。自分で淹れてみたんだけどなんか苦くなっちゃうんだ。リョウとルーベラのお茶はちゃんと美味しいよ」
カップに残っていた紅茶を飲み干したハヤトがカップをまじまじと見つめながら言う。
なので思わずリョウがくすりと笑いをこぼす。
こういう反応は本気で嬉しい。
「そう? 嬉しい! じゃあおかわり入れるわね。カップ貸して?」
「……リョウ、僕にも下さい」
隣で不機嫌そうな声が聞こえるが、なんとなく理由が分かるのでリョウは「はいはい」なんて答えながら軽くスルーした。
「……はぁ、楽しかった……」
リョウが暗くなった窓の外を眺めてつい独り言を漏らす。
「良かったですね」
後ろで平坦な口調のレンブラントの声。
えーと……。
返事を期待していた訳ではなかったのでちょっとした戸惑いもあって、少し間を置いてからカーテンを引く。
「……レン、怒ってる?」
リョウがおずおずとレンブラントがいるベッドの方に歩み寄る。
レンブラントはベッドの向こう側に腰掛けてリョウに背を向けたまま脇のサイドテーブルに用意した蒸留酒を飲んでいる。
「別に怒ってませんよ。リョウが楽しそうで何よりです」
わー。すごい棒読み。
リョウはベッドに乗って、そのままレンブラントの隣まで四つん這いでにじり寄ってみる。
なんとなく原因はわかっている。
「……レン?」
斜め下からリョウがレンブラントの顔を覗き込むと、意外にもその顔は怒っているという感じではない。
怒っているというより。
「リョウ……本当にハヤトのこと、なんとも思ってないんですよね?」
わぁ! どうしよう!
目が合った途端リョウの心臓がきゅっと音を立てたような気がした。
何この、捨て犬みたいな目! ……か、可愛すぎる……!
「思ってないない! レンが一番好き! 決まってるじゃない!」
思わず叫ぶようにそう言うとリョウはレンブラントの首に抱き付いた。
「……一番、てことは二番がいるんですよね……」
わぁ、こんな言葉じりにまで反応されるとは……!
「えーと、ちょっと待ってね。まず、そのカップは置いて?」
リョウに抱きつかれても抱きしめ返すこともなく、酒の入ったカップを器用に維持したままのレンブラントの手にリョウが自分の手をそっと添えてそれをサイドテーブルに置く。カップは割と大きくてまだ結構中身は残っているから揺らしすぎないようにリョウは一旦ベッドから降りた。ちょうどレンブラントの正面。
カップを置いてから改めてレンブラントに抱きつく。
「ごめんなさい。言い方を間違えました。二番なんていません。レンが誰より好きよ」
「……リョウ」
ちょっと心細そうなレンブラントの声にリョウがそっと腕を緩めて顔を覗き込む。
「もうあいつにお茶は出さなくていい……」
そう言うとレンブラントが両腕をリョウの背中に回してぎゅっと抱きしめ、その胸に顔を埋める。
「……だいたい、今日の会議の内容だってリョウに話すのは早すぎたんですよ。リョウが今の生活に慣れて来てから話を進めるという前提で元老院から出た原案を聞いただけだったんですから。竜族についての正確な情報の確立なんてリョウには負担が大きすぎる。僕はリョウが傷つくのは見たくない……!」
あ……。
そういうことか……。
単に、お茶を褒められて私が嬉しそうにしていたから嫉妬したのか、くらいに思っていた。
そうじゃなくて。それ以前の話。
そう思うとリョウはなんだか胸が苦しくなるのを自覚する。
竜族についての正確な情報の確立。それに自分が関わるということは、恐らく、過去のことを色々思い出さなければいけないという事なのだろう。人間の社会にとって竜族という存在を伝説としてではなく実在のもの、史実として認識させるためにそれが必要なのだろう。
レンは、それに伴う私の痛みを思って、私に話す時を見極めようとしていてくれた。
「……レン……私なら平気よ? でも……そんな風に思ってくれて嬉しい。……ありがと」
レンブラントの髪を撫でながら囁く。
「平気なはずないでしょう!」
ぎゅっと抱きしめていた腕を緩めたレンブラントがリョウの目を見上げるようにして語気を強めた。
なのでリョウの体がびくりと震える。
「あなたの心の傷に僕が気付いてないとでも思ってるんですか?」
まっすぐ見据えられてリョウが思わず視線をそらす。
「……僕の目を見て」
静かに告げられ、リョウはどうにも気持ちの逃げ場がなくなる。
「リョウ。あなたがどんな仕打ちを受けてきたのか、詳しくは聞いていませんけどね、ある程度の想像はつくんですよ? あなたがその記憶に一人で立ち向かおうとしている事も分かってる。……でも、僕は、できる事ならあなただけの胸に収めてしまうのではなくて、ちゃんと僕にも頼ってほしいんです。僕は頼りにならないと思っているのかもしれないけど、その内ちゃんと頼りになる事も分からせてあげるから、そうしたら全部話してほしい。僕があなたを支えます。約束する」
「……レン……私……あなたが頼りにならないなんて思ってない……」
そう伝えるのが精一杯だった。
あまりに真っ直ぐな、強い瞳に。
そういえば、レンに自分の過去についてあまり詳しい話はしていなかった。そもそも誰にも話した事はないのだ。
グウィンと旅をした時に竜の石の力で記憶を一部、共有した事はあった。
でも、本当にそのくらいだ。
「……ねぇ、レン。……話したほうがいい? 私の過去を本当に知りたい?」
消え入りそうな声でリョウが尋ねる。
子供の頃に受けた仕打ち。
クロードと過ごした日々の中での経験。
クロードがどうやって死んで、その後私がどうやって過ごしたか。
こんな事を話したところで何になるのだろう、とも思う。
何かの役に立つどころか、大切な人が自分を嫌になって離れてしまうきっかけになったらどうしようと思うと怖くて身がすくむ。
「愛する人の事を全て知りたいと思うのは、自然な事だと思いますよ?」
レンブラントが優しく眼を細める。
リョウの背中に回っている腕にはしっかりと力がこもっていてリョウを離すまいとする彼の意思を感じられる。
……話してみようか。
リョウはふと、本気でそう思った。
もし、レンが私の過去を知っていてくれたなら……私の心はもっと軽くなるのかもしれない。辛いと思うときに独りじゃないのはきっと耐えやすいだろう。そんな安心感をくれるのかもしれない。
あ、でも。
「……レン、話すのは……いいんだけど、ね」
リョウがちょっと思い留まる。
「……?」
レンブラントの眉が一瞬しかめられた。
「あのね、聞いてくれるんなら……素面の時がいいな」
ちょっと唇の端を上げてみて。
「……あ」
レンブラントがあからさまに「しまった」という顔をした。
その拍子にレンブラントの腕の力がわずかに緩んだ、ので。
リョウはふわりと笑って見せてから、その腕から抜け出してサイドテーブルに置いたカップに手を伸ばす。
「リョウ……?」
リョウの行動の意味がわからず、レンブラントが訝しげな顔をする。
「もう飲んじゃったものは仕方ないから、話すのは今度ね。……これ、高いお酒でしょ?」
少し大きめのカップの半分ほどまで残っている蒸留酒は強い芳香を放っている。
リョウが迷わずそれを口にする。
「……え、リョウ、ちょっと待ちなさい……!」
リョウの喉が音を立てるのを見てレンブラントが慌てた。
「それはそんな飲み方をする酒じゃない……!」
慌ててリョウからカップを取り上げようとするのだが、リョウが見事にかわし。
「あら、美味しいわよ? 独り占めなんてずるーい」
とろんとした目でリョウが笑う。
レンブラントはため息をひとつついて。
「……分かったから。もう少しゆっくり飲みなさい」
そう言うと改めてリョウの体を抱き寄せる。
リョウは言われた通りゆっくりとカップを口に運んで香りのいい液体を口に含む。
舌の上で転がすように味わうと香りが鼻腔をくすぐる。
で。思いついたようにレンブラントの首に片手を回して引き寄せる。
「……リョウ?」
レンブラントが不思議そうな目をして見上げるのが楽しくてリョウは目を細める。
「……!」
不思議そうな目が一瞬見開かれた。
リョウが唇を重ねてきたので。
そして驚いて開いたわずかな隙間から口に含んでいた酒を流し込んでみる。
レンブラントの舌が器用にそれを受け止めるのを感じながらリョウが唇を離す。
「……リョウ……そういうことはどこで覚えてきたんですか?」
レンブラントが薄く笑いを浮かべて訊いてくる。
「さあ? 今思いついたの」
うふふ、と笑いながらリョウが答える。
ああ、いきなり飲んだからちょっとぼうっとするな……。なんて思いながら。
「そういう誘われ方をしたら乗らないわけにはいかなくなりますよ?」
リョウの手からカップが奪い取られ、残った中味をレンブラントが煽り、流れるような動きで空のカップがサイドテーブルに戻される。
「……え?」
次の瞬間リョウはレンブラントに組み敷かれていた。
視界が反転して、それでも少し酔いが回った体なので抵抗する事もなくされるがまま、リョウの唇がふさがれ少し温められた液体が流し込まれた。
想像していたより量が多くて唇の端から溢れ、微笑むレンブラントが舌で舐めとる。
「レンの腕、好き……」
リョウが小さく息を吐きながら呟く。
「ん……?」
レンブラントが柔らかく聞き返す。
リョウの背中にはレンブラントの左腕が回っており、右手はリョウの頬に添えられている。しかも上から覆い被さられているせいでリョウは今ほとんど身動きが取れない。
「……逃げられないように捕まえていてくれるみたいで……凄く安心できるの」
そう言うとリョウがレンブラントの右手の甲に自分の左手を添えて、その手のひらにそっと唇を押し当てる。
「リョウ……可愛いですね。……それじゃあ、逃げないでくださいね」
レンブラントはそう言うとゆっくりリョウの頬に、そして首筋にキスを落とし始めた。