現実逃避と来客
「あ、リョウ様、そのくらいでよろしいですわよ」
ハンナの声に焦げ始めた砂糖を見つめながら鍋を揺すっていたリョウが手を止める。
文献に目を通すことに精神的に疲れてしまったリョウは、ハンナを巻き込んで台所で新しいレシピに挑戦中なのだ。
ちょっと前に蜂蜜の専門店で見かけたメニューが気になってハンナにそれとなく聞いたところ「作り方を知っている」という事だったので今日は午前中はいくつかの料理を教えてもらっている。
プディングに興味があったリョウだったが、ハンナが残り物のパンがたくさんあるのでパンプディングにしましょうとさらっと言うので、なにその魅力的な名前は? と食いついたところだ。
「はい、ちょっと失礼」
なんて言いながらハンナがリョウの手元の小鍋にミルクを入れる。
真っ黒に見えるくらいに焦げていた砂糖がクリーミーなブラウンに変わる。
「わあ……! きれい! ……それにいい匂いね!」
手早く混ぜ合わせながらリョウが思わず声を上げる。
「リョウ様は飲み込みが早くていらっしゃる。それでカラメルソースは出来上がりです。あとでプディングが焼きあがったらかけますので置いておいてくださいな」
と。
「こほん」
背後でわざとらしい咳払いが聞こえてリョウが振り返るとコーネリアスが一抱えほどの紙袋を持って立っている。
「あら、コーネリアス、お帰りなさい!」
「奥様、ただいま戻りました。こちらがお申し付けいただいたそば粉でございます。どちらに置きますか?」
心なしか「奥様」というところを強調するようにして言葉を返しながらコーネリアスがハンナに視線を送る。ハンナはハンナで「あら」なんて悪びれる様子もなく小さく舌を出して肩をすくめて見せるのでリョウは思わず吹き出しながら。
「ああ、そこでいいわ。すぐ使うから。コーネリアス、本当にありがとう。余計な仕事させちゃったわね」
「いえ、ではわたくしは仕事に戻ります」
小さくため息をついて軽く頭を下げるコーネリアスも、よく見れば口許を不自然に歪めており、湧き上がる微笑みを理性で抑えようとしているのが見て取れる。
ので。
「……コーネリアスって、ほんっとに真面目よね」
本人が台所を出て行ってからリョウがハンナの方に悪戯っぽい視線を送りながら声をかける。
「ええ。仕事一筋の人ですから。……しかも守護者の館で働くと決まった時からあの人、本当に一生懸命なんです。こんなところで働けるなんて考えてもおりませんでしたのでね。しかも旦那様もリョウ様もとても良くしてくださいますでしょ? 慣れてしまってついうっかり失礼を働かないようにといつも気にしてますのよ」
「そんなの、気にしなくてもいいのに」
ハンナの言葉にリョウが小さく口を尖らせる。
「所詮使用人ですからね、私たちは」
言葉だけを聞くとまるで自分を卑下したような言い方だが、ハンナの言い方はそれとも少し違う。むしろ今までどんなところで働いてきたんだろう、なんて興味を掻き立てられる。
「ハンナたちが今まで働いていたのってどこだったの? どんなお家だった?」
思わずリョウが手を止めて聞いてしまう。
「……そうですわね……。あら、そういえばガレットもお作りになるのではなかったでしたっけ? そろそろ作り始めないとお昼に間に合いませんわよ?」
ハンナの言葉にリョウの意識が作業に戻る。
ああ、そうだった。
ただでさえ忙しいハンナに無理を言って午前中を空けてもらったのだ。時間を無駄にしてはいけない!
「奥様、お客様ですが」
コーネリアスの声がかけられたのはリョウが何枚目かのガレットを焼き始めた時だった。
「え? 今? ……わあ、どうしよう……えーと、誰かしら」
実は薄く生地を焼くに当たって何度か失敗を繰り返し、今度こそは! というタイミングだったので今手を離したくないところだ。
「ルーベラ様です」
顔もむけずに投げかけた質問に気を悪くすることもなくコーネリアスが律儀に答える。
「え? ルーベラ? なんだ、通していいわよ。なんならこっちに来てもらって?」
そんな明るいリョウの返事を受けてコーネリアスが丁寧に一度頭を下げてから引き下がり、少し間をおいて軽い足音が台所に近づいてきた。
「わあ! リョウさん! いい匂いがすると思ったら何作ってるんですか?」
入ってくるなり声を上げるルーベラは相変わらず……元気そうだ。
「うん、今ね、ガレット……っていうものを作ってるんだけど」
ぺらっと焼きあがった薄い生地は破けないようにそっと隣の皿に積み重ねていく。
「へえ、ガレット! こないだ蜂蜜のお店で見たけど美味しそうでしたよ! あれとおんなじですか?」
リョウの手元をキラキラした目で見つめながらルーベラが声を上げる。
「あ! そう! それなの! その作り方をね、このハンナ先生が教えてくださっているのですよ!」
リョウがおどけるような口調でハンナを紹介すると。
「リョウ様……使用人を先生などと呼んではなりません!」
ハンナが真顔になって一歩下がった。
「あら、ダメよ。教えてもらうときはきちんと敬意を持つべきだと思うの。使用人って言ったって私の手が回らない仕事をやってもらってるんだから下に見る理由なんかないでしょ。むしろハンナもコーネリアスも感謝されて当然なのよ?」
リョウが腕組みをして軽く首を傾げながら朗らかに言い放つ。と。
「……リョウ様……」
ハンナは返す言葉が見つからないと言った風に、それでも若干潤んだ瞳は細められとても嬉しそうに見えた。
「……おお……さすが……」
聞こえるか聞こえないかの小さな声が同時にしてリョウが発生源のルーベラに目を向けると。
「あ、いや、失礼しました! さすがリョウさんだなっと思いまして」
えへへ、と笑いながらルーベラが満面の笑みになる。
「ここの守護者様は本当に気持ちが大きくてみんなから愛される方な訳ですよ! あたし、この都市に居られるの、ほんっとに嬉しくて!」
「……なにそれ?」
リョウがちょっと困ったような顔をして答えを期待しない返事をすると。
「ああ! そうですわ! ガレットがまだ途中です! 早く焼いてしまいませんと! ……ああ、でもリョウ様はルーベラ様とお話しなさいます? あとはわたくしがやっておきましょうか?」
ハンナが気を取り直したように声を上げた。
「あ! ガレット、なんですよね? これ、差し入れなんです! 使いませんか?」
ハンナの言葉に合わせるようにルーベラが持っていたバスケットを軽く持ち上げてみせた。
覗き込もうとするリョウに。
「えへへ。たくさん貰っちゃったんですよね、卵。最近リョウさんの所に来られなかったので久し振りに顔を見たいなーと思っていたらこんな口実ができたので持ってきてみました!」
ルーベラが照れたように笑いながら説明する。
バスケットのふたを開けると卵が20個は軽く入っている。
「わ! すごい! ……ていうかルーベラ、あなた本当に素直で可愛いわ!」
リョウは思わずルーベラの肩に腕を回して抱きしめた。
もう! なんだろう、この子……! さりげなく用事を作って遊びに来るとかじゃなくて、本気で用事を作って来てくれるなんて。可愛いったらない!
「ぎゃー、リョウさん! 卵、卵!」
反動で危うくバスケットからこぼれ落ちそうになった卵をおさえながらルーベラが絶叫する。
結局、作っているところを見たいというルーベラの意思を尊重して、作業は続行した。
「本来なら生地を焼きながら、上に具材を乗せ、卵を割り入れて一緒に焼き上げるものなんですけどね」
なんて説明を付け加えながらハンナが薄く焼いた生地に薄くスライスした肉と、野菜と、別に作った目玉焼きを乗せて軽く包む。
サイズ的にもこれなら女子には丁度いいランチメニューではないか、という感じの仕上がりにリョウとルーベラの歓声が上がった。
「もちろん、食べていくわよね? ルーベラ?」
手際よく仕上がっていくガレットを見つめながらリョウが声をかける。
「すみません。呼ばれてもいないのに、そのつもりでした……!」
ルーベラも料理の方から視線を離すこともなく返してくる、ので、思わずハンナが吹き出した。
「ハンナ、それ、あと二人分追加で作ってね」
「……はい?」
リョウの言葉にハンナが顔を上げて聞き返す。
「レンもいないし、この際一緒に食べるわよ! ハンナとコーネリアスの分!」
「え……でも」
お客様がいらっしゃるのなら、使用人が一緒に食事をとるわけには……そもそもコーネリアスがそんなことに同意するだろうか……。
そんな考えがハンナの脳裏をよぎるのと「これは決定事項です!」という朗らかなリョウの言葉が放たれるのはほぼ同時。
と。
「奥様……」
台所の入り口でコーネリアスの声がしてリョウが満面の笑みで振り返る。
「お楽しみのところ申し訳ないのですが、お客様です」
「え……? また?」
リョウが聞き返すと。
「……都市の司様とアイザック様です」
非常に平坦な仕事口調で来訪者の名が告げられた。
「えーと、こんにちは?」
相手がそういう人たちなら、放っておくわけにもいかないだろうとルーベラたちを台所に残してとりあえずリョウは、応接室に顔を出す。
「ああ、リョウ! すみません! 昼時に押しかけてしまって!」
慌てる風もなく真っ先にグリフィスがソファから立ち上がってリョウに声をかける。そんなグリフィスの動作に合わせるようにこちらは少々慌てた様子で隣に座っていたアイザックが立ち上がり、頭を下げた。
「何か急用ですか?」
この組み合わせで来るということは仕事がらみだろう、とは思うけど、司が直々に来るっていうのは何かとんでもない事態であるという事だろうか。なんて思いながらいそいそと二人の近くまで歩み寄りながらリョウが声をかけると。
「あ……いや……急用というほどのことでもないんですが……」
グリフィスが視線を一瞬泳がせながら言葉を濁した。
おや、と思ってリョウはアイザックの方に視線を送ると。
「ええ……思い立ってすぐに司殿が動き出してしまっただけで……ああ、いやしかし、こういうことは早めの方がいいに越したこともないのですが……」
あれ?
思っていたほど深刻ではない?
ちょっと拍子抜けしながらも、気持ちを落ち着けてリョウが二人を改めて観察する。
特にグリフィスはどことなく雰囲気がレンブラントに似ているので、仕事関係以外なら考えていることが読めそうなくらいの隙がある。
で、急ぎじゃない。昼時だと自覚している。決まり悪そうに視線を泳がせている。
うん。わかった。
「コーネリアス」
リョウがニヤリと笑いながら声をあげると、ドアの外で待機していたと思われるコーネリアスがすぐに現れる。
「悪いんだけどハンナに、『さらに二人分追加』って伝えて。いい? 『さらに』って言うのよ?」
おそらく意味がわからないまま短く返事をして引き下がったコーネリアスを見送って、リョウがグリフィスに柔らかい視線を戻す。
「これからお昼ご飯なんです。ご一緒にどうぞ? お客さんも来ているのでちょっと賑やかになりますけど、それで良ければ」
グリフィスが子供のように目を輝かせたことからして、おそらくそれ目当てできたのかもしれない。と、リョウは確信する。
アイザックの方は何やら気まずそうな、それでいて悪い気もしていなさそうな、なんだか複雑な表情だ。




