仕事始め
珍しく朝から雨が降っている。
「リョウ様、窓はお閉めになった方がよろしいかと……」
応接室で窓を開けっ放しで外を見ているリョウにハンナが遠慮がちに声をかける。
「あ、ごめんなさい! 寒いわよね! うっかりしたわ」
レンブラントが仕事に出掛けた時からずっと降り続く雨が珍しくてリョウはつい窓を開けて空を見上げていた。
朝の明るさの中、雲から落ちてくる雨粒は静かに降り注ぎ、なんだか心が落ち着く。
比較的穏やかな気候のこの地域では、収穫後の雨季と呼ばれるこの時期と、種蒔きの後の雨季と呼ばれる時期の二回を除いては通年ほぼ天気が良い。そして雨季といっても主には夜間に雨が降ることが多く、日中まで雨が降り続くということはあまり無い。
仕事を持つ者たちにはありがたい地域だ。
リョウは昔、クロードと転々とあちこちを旅した頃に雨にもいろんな降り方がある事を体験していたがこういう静かな降り方は昔から好きだった。
それでつい、窓を開けたまま空を見上げていたのだが。
「窓を閉めても雨は見えますよ」
ハンナがくすくすと笑いながら暖炉に薪を追加する。
窓を開け放っていたせいですっかり部屋の気温が下がってしまったのだ。
「……ごめんなさいハンナ」
「大丈夫ですよ。アイザック様がお帰りなった後で良かったですこと」
思いっきり項垂れるリョウに、ハンナが明るく答える。
そう。
つい先ほど、アイザックが第一弾の文献を届けに来たのだ。
それが、ここ応接室の端にあるテーブルに積み上げられている。量としてはひと抱えほど。厚みの異なる本なので一見した限りでは十冊とも十五冊ともいえそうな冊数だ。
ハンナがテーブルの上に出していたアイザックの分のお茶のカップを片付けながら積み上げられた本に目をやる。
「これは……結構な量ですわね。どのくらいで読み終わらせるのですか?」
「一応初めてだし、ひと月時間をもらったわ。終わり次第連絡が欲しいって言われたけど……そうね、読むだけならそんなにかからないと思うんだけど」
リョウが窓を離れてテーブルに戻る。
ふと、ハンナが作業の合間に寒そうに手の甲をさすっているのに気付き。
「ああ、ハンナ。ほんとにごめんなさいね。私、寒さとか気候の変化に疎くて」
暖炉の火というのは見た目より部屋の温度を上げるのが遅い。なので。
「ちょっとそこにいてね」
一応軽く忠告してから部屋の中に炎を出す。
広い応接室の壁や床、テーブルや椅子などの燃え移るようなものが無い所、数カ所に焚き火程度の炎。一応家具の類には結界を張る。
「……あら! あらあらまあ!」
ハンナが嬉しそうに声を上げ、あっという間に部屋が温まった。
いい加減温まったところでリョウは炎を消す。あとは暖炉の炎だけで十分だろう。
「やっぱりリョウ様のその力は便利ですわね! 歳をとると寒さは体にこたえるんですよ。とても助かります」
ハンナが一気に肩の力を抜いたのがわかってリョウがふっと微笑む。
「……ハンナはこの力を『便利』って言ってくれるのね。なんだか嬉しいわ」
人前で力を使っても怖がられないというのは、ただでさえ不思議な感覚なのに、ハンナはさらに喜んでくれる。
「ええ! こんなに素晴らしい力はありませんわよ! 家事をする女にとってリョウ様の力は魅力以外の何物でもありません!」
……あ、確かに。
リョウの頰がさらに緩む。
そういえば最初に台所で火を使うところを見たときにもハンナは目を輝かせていた。
……そうか、それなら明日から朝はまず家中の部屋を暖めてあげようかな。
ちょっと集中すれば自分がその場にいなくてもこの程度の広さなら大丈夫。何も知らない人が見たら大変な事になるけどハンナとコーネリアスなら大丈夫だろうし……そもそも二人が起き出す前にやってしまえば問題ないかも。そのあとはコーネリアスが各部屋の暖炉に火を入れるからそのまま保温されるだろうし。
数日前に家中のカーテンもハンナが変えてくれた。今までのような風で膨らむような軽い生地ではなく、重みのある厚手の生地のカーテンだ。だからといって部屋が暗くならないように色は明るいベージュにしてもらった。日中は気温もそこそこ上がるのでこういう物が役に立つのは朝晩だけなのだが。
後で何か飲み物を持って参りますね、なんて言い残してハンナが仕事に戻った後。
リョウがテーブルの椅子に座りなおして一番上の本をまず、手に取る。
「さて、と……」
一番上は厚みのあるしっかりした装丁の本。
……医学書?
ページをめくると人体の解剖図が載っている。
人体……いや、これは、竜族の者の体。
ぞくり、と。
嫌な寒気がリョウの背筋を走る。
少し前の、セイジとのことを思い出してしまったので。
……セイジの研究は、こういうものだったのかもしれない、なんて思いながらページをめくる。
本の内容としては、ざっくりいえば人間の体の造りと竜族の体の造りの違いをまとめたものだった。どこかで見たことのあるような挿絵や語彙が目に付く、と思ったら……あれだ。
あの時ザイラが持ってきてくれた文献の束。
多分あれが本の形になっている。もしくは、ザイラが持ってきたものがこの本の写しだったのか。……うん、ザイラが持ってきたものが断片的なものであったことや古さや筆跡にばらつきがあったのに対してこちらは一様に古く、きちんとまとまっていることを考えるとこちらが原本なのかも知れない。もしくは原本の完全な写しとして存在していた物。
ちなみに、ザイラが持ってきた紙の束の前半にあった伝説的な要素のページはなく、ほぼ最初から医学的な色の濃い内容だ。
なんとなくリョウの、ページをめくる速度が上がる。
これがきちんとした一冊の形をとっているのなら、あの文献を読んだ時に感じた疑問の……結局誰にも聞くことができずに得られず仕舞いだった答えにたどり着けるのかも知れない。
なんて思えるので。
斜め読みしちゃってるのはこの際、仕方ない。後でもう一度ちゃんと読めばいい。
この本が書かれた目的って、なんだったんだろう。
竜族の体と普通の人間の体の違いをここまで、残酷ともいえそうなほどの検証を重ねて記録した理由。
所々に、鮮明に描かれている解剖図にはたくさんの注釈が付いていて、竜族の男性、女性、年齢の違いによるそれぞれの所見があるところを見るに及んでリョウはちょっと気分が悪くなった。
これ……この厚さの本全体がこの調子で進んでいくんだろうか。
ふと、ポケットに手を伸ばし、小さな時計を出して見る。
アイザックが帰った後からもう三刻が過ぎている。
本は、斜め読みとはいえ半分ほどまで進んでいる。
リョウはなんとも重たい気分で残りのページをパラパラとめくり、ほぼ最後まで同じような記述が続くことを確認する。
で。
「うーん……」
なんとなく、その本は開いたままにして隣にまだ積み上げられている他の本を手にとって見る。で、ぱらり、とページをめくってみて。
「げ。……まさか、これも?」
とっさにその下にある本も引っ張り出してぱらりと表紙をめくってみて、さらにその下の本もちょっとだけ中を見て見る。
「うわ……そういう事か」
本のタイトルは目録を見たからなんとなく知っている。でも、タイトルって、例えば「どこそこ見聞録」とか、「誰それの記録」とか、内容そのものに触れるようなものではなかったのよね。だから予想してなかったけど、この度持ち込まれた本って……全部、医学書だわ。
しかも筆者も年代も、この感じだと全部ばらばら。
という事はどの本も、筆記に当たって筆者がどんな意図をもって書いたかなんて統一されてはいない、というのが現状だろう。
という事は。
「これ、私の知りたい事にたどり着く確率って限りなく低いかも知れない……」
それに……。
「あれ?」
えーと、そうなると、まあ、当初の目的通り「仕事」としてこの本を読んで行く事になるわけだけど。
これ、私が一人で読んだところで訂正箇所を見つけることなんて可能なんだろうか?
そう思い至ってリョウは最初に受け取っていた目録を引っ張り出す。
いくつかの枠が設けられていて、種類別に区切られているそのリストを改めて食い入るように見てみると。
なんとなく。
かろうじて医学に関する名詞がタイトルに入っているものがあったり、年代に関する語句がはいっていたりするのでそこから推察するに、最初の枠は医学。次のものが歴史。さらにその次は伝承。そんな感じに分かれているらしいことがわかる。
「結構、途方も無い仕事かも知れない……」
「リョウ様、温かいお飲み物をお持ちいたしましたよ」
現実逃避に入ってしまったリョウにやんわりとしたハンナの声がかかる。
虚ろな目のままリョウが本の山から脇に目をそらすと、カップから湯気が上がり、その隣には小さめの皿にクッキーが数枚乗っている。
「ああ、ハンナありがとう」
ハンナのこのタイミングの良さといったら、本当にどうしてくれよう。
リョウは虚ろな目にうっすら涙を浮かべて感謝の言葉を口にする。
「……大丈夫ですか?」
ちょっと驚いたように手を止めたハンナにリョウはかろうじて笑いかける。
「うん。大丈夫。ちょっと途方に暮れていただけ……あ、何? これ、いい匂いがする」
カップから立ち上る香りに嗅ぎ覚えがない事に気付いてリョウが今度は目を輝かせた。
「ええ、コーネリアスが珈琲を買い付けてきたんです。ご存知ありませんか? 植物の種子を煎って粉にしたものなんですよ。そのままだと飲み慣れていない方には苦味が強いと思いましたので温めたミルクをたっぷり入れておきました。少し蜂蜜も入れましたので口当たりはいいと思うのですが」
ハンナの説明にリョウの手がカップに伸びた。
「わぁ、本当にいい匂いね」
紅茶や薬草茶とは違う香ばしい香りが立ち上る。
一口飲んでみて、リョウが目を丸くする。
「……美味しい……!」
なんだろう、この絶妙な甘くて香ばしい香りとミルクのまろやかさ。それに、蜂蜜の甘みがコクを出していて……いや……コクがあるのは珈琲そのもののせいなのかしら。
「お気に召していただけて良かった」
ハンナが安心したように笑う。
「随分、大変そうな本ですものね、お疲れでしょう?」
そう付け足すハンナは開きっぱなしにしていた本のページに視線を一度落としたらしく眉間にしわを寄せている。
……あ、免疫のない女性にはちょっとグロテスク過ぎる挿絵だった。
リョウが慌てて本に栞を挟んでパタンと閉じて。
「あまり、見ていて気持ちのいい本じゃないわね。医学書みたいよ?」
なんて言いながら力なく笑ってみせる。
「お疲れ様でございます。もう少ししたらお昼ご飯にしましょうね。出来上がりましたら呼びに参りますので」
ハンナがそう言い残して部屋を出て行くと。
「はああああああっ」
後に残されたリョウが深いため息をついた。




