信頼できる他人と最愛の人
「リョウ……本当に、悪かった」
アルフォンスを見送ったあと、玄関のドアを閉めるなり、レンブラントがリョウを背後から抱きすくめてくる。
「え、レン……ちょっと……」
レンブラントの声の調子が普段聞かないくらい落ち込んでいるのでリョウが慌てる。
「許してくれるまで離さない。本当はもっと早く謝るべきだった。それすら出来なかったなんて僕はあなたの夫として失格だ……」
うーん……それで「許してくれるまで離さない」って……ちょっと可愛すぎるんだけど。
絶対、今、捨て犬な目をしてる!
そう思うとリョウは口許が緩みそうになるのだが。
「ねぇ、レン」
だめだめ。ここで笑ったら、私の甘えでなしくずしにしてしまう。
そう思うから少し声のトーンを落としてみて。
と、リョウの声の調子が意外だったのかレンブラントの腕の力が少し弱まった。なので、リョウはくるりと後ろを向いてレンブラントの腕の中でレンブラントと向かい合う。
リョウが両手で自分の方に項垂れている顔を挟んで覗き込むと、明るいはずのブラウンの瞳が暗く見えた。
身長差があるから見上げれば目が合うはずなのに、視線を敢えてそらそうとしているのか一向にその視線がとらえられない。
なので、時々レンブラントがしてくるように額と額をくっつけてみる。
コツン、と。
「あ痛……」
うわ、可愛くコツンとするはずが、軽い頭突きになってしまった……残念。
自分でやっておいて自分で声をあげたものだからレンブラントが今度こそ視線を合わせてきた。
うん。ある意味、目的は達成したな。
そう思いながらリョウが軽く微笑んでみる。
「あのね、私も悪かったって言ったじゃない。レンだけが悪かった訳じゃないんだからそんなに謝らなくてもいいのよ? 私、あの資料の抜けてるページについてアルの意見が聞きたかったの。でもたぶんあなたに相談したら行くなって止められるかなと思って……行ってから事後報告するつもりだったのよ。これって、私の方がよほど悪いわよね? 確信犯だし」
「……そう、だったんですね」
レンブラントがゆっくり、深くため息をついた。
あ、しまった。やっぱり私の方がどう考えても悪いわ。何しろ確信犯。動機が悪い。
リョウがそう思いながら新たに落ち込みかけると。
「あ、いや。僕は……ばれなければいい、くらいに思っていたんだからやっぱり良くないですよ」
レンブラントはそこまで言うと、はああああっ、と再びため息をついてリョウの首筋に顔を埋める。
ありゃ。
おかしいな。
これでは先に進まない。しかも余計落ち込ませてしまった。
もはやリョウにとっては反省とかいう本来の目的が完全に見失われているような気がしてならない。
「……ねぇ……これって、どっちがより落ち込めますか競技会?」
「……ぷっ」
リョウの棒読みな台詞についにレンブラントが吹き出した。
でもだからといって顔をあげるわけでもなく。
「え、ねぇ、レン。……笑うくらいならいい加減離してよ」
リョウが抗議すると。
「……すみません……さっきの頭突きが……既にツボで……」
笑いを噛み殺したような声でリョウの耳許にレンブラントが囁く。
……酷い。
リョウは手加減なしでレンブラントを突き飛ばした。
一通り笑ったあとで、ひとまずお茶にしようということで、本来ならそろそろ夕飯の支度をすべきところをリョウがお茶を淹れることになり。
何しろ朝食はかなり遅めの時間だったので、あのあと改めて昼食はとっていない。何となくリョウが心ここにあらず、な午後を過ごしてその後アルフォンスが来たものだから一段落して甘いものでも食べた方が落ち着くのではないか、ということになった。
レンブラントが実はパンケーキは作りすぎてしまっていたなんていうことも判明してリョウがそれに一手間加えてみる。
「うわ、これは……凄いですね」
「見た目は豪華でしょ?」
盛り付けられた皿に目を落としたレンブラントの第一声にリョウが得意気に答える。
薄く焼いたパンケーキは具材を挟む為に味は特についていなかった。
なので泡立てたクリームに数種類の刻んだ果物を混ぜて挟み込みながら重ねて、上にも少しクリームを絞ってから蜂蜜をかけてみたのだ。
クリームの甘さも控えめにしたので蜂蜜のコクが加わってちょうどいいはず。
考えてみたらパンケーキを作りすぎる、は、ありがちな失敗。
薄いパンケーキを作り馴れていないと粉と卵の量が案外多くなってしまうのだ。そして、生地は一度作ってしまったら焼いてしまわないとどうしようもない。
テーブルの、相変わらず角を挟んだ隣に座るレンブラントの前にケーキの皿を置きナイフを入れて切り分ける。
その間にレンブラントが、リョウが用意したティーポットから紅茶を注ぎ分けてくれる。
生成り色に刺繍の入った布巾をそっと広げて中から熱々に保温されているティーポットを取り出す様子はとても大切なものを扱うようで、リョウはつい口許に笑みを作ってしまう。
リョウが大切に扱う物は同じように大切に扱おうとしてくれているようだ。
茶葉を蒸らす時間、なんていうものも、いつもリョウが淹れるのを見ているせいか覚えてしまったらしい。
刻んだ果物をティーポットにも仕込んでいたのでカップに注がれると同時に幾つかの果物が混ざりあった甘くて爽やかな香りが広がった。
「そういえば、アル、自分のこと『わたし』って言ってたわね」
隣でレンブラントがケーキを口に運んで一瞬目を輝かせるのを見届けてからリョウがポツリと呟く。
確か、彼、いつもは「僕」って言ってた。それに私「君」なんて呼ばれたことあったかな、なんて思って。
「ああ、あれ。……多分、仕事モードに入ってるときの癖ですよ。僕もその公私の境界線はたまに分からなくなるんですが、医師として患者に接すると割りきっているときは大体あんな感じです」
「ふーん」
なるほど。
そうなのか……あ、もしかして、あれかな。レンの手前、私を診察したりなんだりするに当たってレンを安心させるため、とかあったのかな。
そんなことを考えながらリョウは紅茶を口に運ぶ。
香りは果物だけど、砂糖を入れているわけではないので果物のほのかな甘味はあるとしても味自体はさっぱりしている。
「レンはアルとの付き合い、長いのよね」
なんとなくそのままアルフォンスの話題になる。
「そうですね……彼、医師としての腕も確かですが、あれで精神面の専門家でもあるんですよ」
レンブラントが少し遠い目をしながら話し出した。
「まぁ、軍医、でしたからね。ある程度必要な知識として研究していたということもあったんですが……戦いで負傷したり、仲間や家族を目の前で失ったりした者が受ける心の傷は深い上に、敵に精神を喰われるという症例とも長年闘ってきていましたから」
あ、そうか。
リョウがふと、戦いで傷ついた人たちを思い出す。
ああいう人たちを等しく治療しようと思ったら、精神の分野にも通じていなければならないだろう。
「で、彼が言うには『そのついでに身に付けた知識』らしいんですがね、うちもかなり世話になったんです」
「……え?」
うちも?
言葉の意味が分からずリョウが聞き返す。
と、レンブラントが口許に穏やかな笑みを作った。
「グリフィスがね、僕を拾った時はまず、子育てについて相談に乗ってもらったらしいですよ。実の親子ではないわけだからある程度お互いの間に線引きをしなければいけない、かといって甘やかしてはならない、とか。……それに僕自身の相談相手でもあった。どうあがいても周りと打ち解けられない時期が長かったのでね、僕が自暴自棄にならないようにいつも目を光らせていてくれたんだと思います。気が付くとアルが隣にいて頭を撫でてくれている、なんてことがよくあった。多分アルは僕やグリフィスだけではなくていろんな人にとってそういう存在だったんだと思います」
「皆に……?」
凄いな、なんて思いながらリョウが聞き返す。
「そう、例えば……ほら、クリスの初の夫婦喧嘩の話をしたでしょう? 意味が分からなくて混乱していたクリスに妻を理解するよう諭したのはアルですよ。……それに、ハヤトも……あいつも騎士隊に入ったばかりの頃は友達を意図的に作らないっていう、ちょっと癖のあるやつだったからよく二人で話しているところを見かけましたね」
「うわ、凄いな……」
リョウはつい呆気にとられる。
この分だと私が知っているすべての人に、アルと関わった何らかのストーリーがあるんじゃないかと思えてしまう。
いや、きっとあるのだろう。
だいたい、普段から親しくしていないような人にいざという時に大切な相談なんか出来ない。
普段から信頼できるような関係を築いていない人からされるアドバイスなんて、それがどんなに正論でも受け入れるのは難しい。
アルはそれを地道に築いて来たんじゃないかな。なんて思える。
「アルってもともと人が好きなの?」
仕事、としてやって来たのだろうか? なんて思うからついそんな言葉がリョウの口をついて出た。
「ああ、そうですね。人好きだと思いますよ。根っからの。……だから意図せずして深入りしないようにたまにああやって公私の線引きをするのかもしれない」
レンブラントが何かを思い出すように、そう言うと紅茶のカップを口に運ぶ。
うわぁ……なんだか、かっこいい。
リョウが思わずこっそり目を見開いた。
「アルって……結婚してるの?」
そういえば、そんな話は聞いたことがなかった。
でも、今日みたく夫婦の意志疎通だとか、レンの話のように子育てだとかに関する的確なアドバイスが出来るなら。
そんなことを思いながらほぼ上の空でした質問にレンブラントがチラリと視線だけリョウの方に向けた。
「……あ、ああ、そうですね。していましたよ」
え!
「過去形……?」
慌ててリョウが聞き返す。
「結婚してわりとすぐ、亡くしたと聞きましたから……どうして?」
レンブラントの声が若干うわずっているのは……リョウは気付いていないようだ。
「え、どうしてって……だって、あんなに女性の心を理解してくれる旦那さんなら奥さん幸せだろうな、と思って。……そっか、亡くなったのか。……可哀想に」
まぁ、そういう時代だったんだから仕方がないことなのかもしれないけど。これからはそういう思いをする人が少しでも減ってほしいな……。
なんてリョウがしんみり考えていると。
ガタン!
「リョウ!」
「……へ?」
いきなりレンブラントが音をたてて立ち上がり、テーブルに手をついた姿勢で自分が凝視されていることに気付いて、リョウが一瞬身構える。
「まさか……アルがかっこいいな、とか思ってませんよね?」
「え?……何? だってかっこいいじゃない……」
勢いに呑まれてリョウが素直に答えるとレンブラントがみるみるうちに涙目になった。
「そんな……僕よりアルの方が良いなんて事は……」
は?
リョウの目が一瞬、点になる。
で。
「わーーーー! 違う! 全然違う! そんな気はない! 全く無いからね!」
なんで今日のレンブラントは捨て犬率が高いの!
そんな思いと共にリョウが慌てて全速力で否定する。
リョウとしては、今夜は外食にしてしまおう、と思っていたのにレンブラントが家から出たくないと頑なに言い張るので甘いものを食べたあとだし本格的に料理をする気にもならず簡単に食事を用意して済ませたあと、今度はレンブラントが一緒に風呂に入るとまで言い出したので半分お手あげ状態で、そこも言うなりになった。
体や髪を洗ってもらうのは……気持ちいいのでつい断りきれなくなり。
「……ねぇ、レン……くっつきすぎだと思うんだけど」
ベッドに入って、レンブラントはますますリョウから離れなくなった。
いつもなら、まぁ、腕枕。
リョウが甘えて擦り寄ると、レンブラントがやんわり抱き締める。
そんな感じだ。
それが。
まず、リョウは身動きがとれない。
上に覆い被さるようにして抱きつかれている格好だ。体重はうまく全部がかからないようにしてくれているらしく、押し潰されそうなほどの重みは感じないものの、右にも左にも、とにかく動けない。
足も絡み付かれて自由になるのは唯一首から上と胸元に引き寄せた手。しかも動かせるのはせいぜいが肘から先くらい。
「……リョウをちゃんと感じていたい」
首筋に顔を埋めたままレンブラントが囁く。
耳元で囁かれてリョウの体がびくりと震えると、その反応を全身で感じ取ろうとでもしているかのようにレンブラントが体全体を使ってリョウの体を押さえ付けるようにさらに密着してくる。
「レン……苦しいんだけど……」
別にレンに何をされても抵抗する気はない。
でも、この体勢でずっといるのはちょっと辛いかも。
それに。
もし不安であるとか、寂しいとか、そういうことが問題ならただこうしているよりちょっと話した方がいいのではないか、とも思えてしまう。
なのでリョウがなるべく控えめに抗議してみる。
と、ほんの少し、リョウの体にのし掛かっていた重みが軽くなった。
「……ごめん、リョウ」
そう言いながらリョウの首筋から顔をあげたレンブラントと目が合う。
あ。
やっぱり……。
相変わらず捨て犬な目。
リョウが軽く微笑みながらその両頬を手のひらで包み込む。
「ねぇ、どうしたの?」
寂しそうでもあり、すがり付いて来そうにも見える瞳を覗き込みながらリョウが尋ねる。
「……アルが言ったこと……」
レンブラントがようやく言葉を絞り出した。
「リョウはもう、十分償った、って話。だからセイジなんかの犠牲になる必要はないって……もし僕が言っていたらあんな風に納得してくれてましたか?」
「え?」
意外な話が出てきてリョウの思考が一旦止まる。
「アルが、僕はリョウにとって既に他人じゃないから僕が言っても無駄だ、と言ったんですよね。……でも僕は……リョウがあんなことを考えていたなら、僕がそれを否定してあげたかった……!」
「……あ、ああ……あれね」
リョウが今日のアルフォンスの言葉を思い巡らす。そういえばそんな事を言っていた。
大丈夫。レンが言っていたってちゃんと納得したわよ。
そう、安易に言ってしまいそうになり、リョウは目の前のレンブラントの瞳に気圧される。
その場を取り繕うような適当な言葉は、今は絶対言っちゃいけない気がする。
なので。
「……うん。多分、その場では、納得するかも」
ゆっくり自分の考えをまとめて確認しながら言葉を紡ぎ出す。
「その場、では……?」
レンブラントが食い入るようにリョウの瞳を見つめる。
「レンが、あんな風に言ってくれたらそれはとても嬉しいと思うの。……だって最愛の人に自分を認めてもらうのって一番幸せな瞬間だし。でも」
誤解させないようにしたいから言葉を選ぼうと思ってリョウが一度、言葉を切ると、レンブラントが微かに息を呑んだ。
なのでリョウは思わず小さく笑ってしまう。
「あのね、レン。レンは私にとって特別だから、レンがそう思っていてくれるのは私にとって最低限の居場所の確保にしかならない、ってことなの。……自信を持っていていいって言われたらそうできるけど、それって多分、レンの腕の中に居るときだけの自信だわ。私、本当にこの家から出られなくなっちゃうかも」
リョウの力のない笑いはそのまま自嘲の笑みになる。
アルが言っていたのはきっとそういうことなのだろう、と思ったのだ。
先にアルの言葉を聞いてしまったから客観的になれるけれど、もしあの時、あの言葉をレンが言っていたなら。
私にベタ惚れなレンの独りよがりな意見かもしれない、なんていつか考えるようになるかもしれない。そんなレンが最初に口にした考え方を、他の人が深い意味もなく繰り返したところでそんな言葉に信憑性なんかない! なんて、いつか心が荒んだ私が考え始めるかもしれない。
そうなったら、私はもうレン以外の人がいる所には出ていく勇気が無くなってしまう。
だから「信頼できる他人」という立場のアルが私の存在の正当性を確証してくれた。
そんなところだろう。
「……リョウは僕の言葉だけでは生きていけない?」
「私をこの家に閉じ込めておく? それならあなたの言葉だけで生きていってもいいわ。他は何も要らない」
レンブラントの不安そうに揺れる瞳を見ていると、リョウは本気でそれでもいいかな、と思えてしまう。
なのでそっと両手をその首に回してゆっくりとしがみつく。
レンブラントが暫くの沈黙のあと、ふっと、息をついた。
それは、ため息のようでもあり、小さな笑いのようでもあり。
それから。
「それは……やっぱり嫌ですね。それじゃまるで奴隷かペットだ。……リョウには自由でいてほしい。……人が自由で幸せでいるためには……周りの人との関わりと周りの人の助けが必要ってことなんですね」
レンブラントの声がいつもの声の調子に戻りつつあるのを感じてリョウが腕の力を緩めて顔を覗き込む。
「あら、いいの? 奴隷にでもペットにでもなる覚悟はあったんだけど」
なんて言いながらくすりと笑う。
と、レンブラントの瞳が一瞬見開かれた。
「リョウ……それ、本気ですか?」
「うん。別に良いわよ?」
リョウが緩く微笑む。
そんなリョウの言葉にレンブラントが軽く息を呑んだ。
「……リョウ、意味、分かってますか? それって何をされても……どう扱われても文句を言わないで受け入れるってことですよ?」
心なしか声が上ずるレンブラントにリョウは相変わらず緩く微笑んだまま。
「うん。だってレンの言うことなら何でも聞けるし」
「何でも……って……」
言葉を続けようとした口を思い直したかのように引き結んだレンブラントがリョウから視線をそらし、しばらく何かと闘うように眉間にシワを寄せたあと再びその目を覗き込んでくる。
「……そういう誘い方はずるいな。ちょっと我慢できそうにないから覚悟してもらえますか?」
レンブラントはそう囁いてにやりと笑う。
リョウが何か言おうと開いた口はあっという間に塞がれて、多少はあったはずのリョウの体の自由は押さえ込まれるようにして無くなっていった。




