後悔
あれ? なんの匂いだろう。
リョウがぼんやりと考える。
嗅いだことのない匂いが鼻をかすめたような気がした。
嗅いだことのない……お茶、ともいえない薬ともいえない……あ、違う。あれだ。セイジに飲まされた黒いお茶。あんなような匂い。
そういえば人が動く気配がする。
セイジだろうか。
肌に直接触れる人の手の感触もある。
あ、ヤバい! 今切られたら感覚があるから痛みが尋常じゃないかも!
そう思うのに、体が動かない。
声も出ない。
「……やだ! 触らないでっっ!」
どうにか声を絞り出して、目が覚めた。
「リョウ? 大丈夫ですか?」
近くにあった人の気配を思いっきり突き飛ばした。……つもりだったが、気が付くと目の前にレンブラントの心配そうな顔がある。
突き飛ばすために伸ばしたはずの自分の手は、力なくレンブラントの胸元に添えられている。
え、あれ?
レン……?
「嫌な夢でも見ましたか?」
レンブラントの手がリョウの頬に添えられ、その後ゆっくり背中に回る。
リョウは、自分は部屋のベッドの中にいて、この部屋の中には目の前のレンブラントと自分以外はいない、という事を納得するのに少し時間が掛かった。
気が付くと息が上がっていて肩に痛いくらい力が入っている。
「大丈夫、ただの夢ですよ」
そう言って背中を撫でるレンブラントの暖かい手にふっと力が抜けた。
「ごめんなさい、レン……私、何か言った?」
……触らないで、って叫んだような気がする……。
リョウが顔を上げられずについ小声で尋ねてしまう。
レンブラントが小さく笑う気配がした。
「……僕に触られるの、嫌ですか?」
あ、やっぱり!
思わず、思いっきり顔をあげて否定しようと息を吸い込んだ瞬間。
唇が塞がれた。
見開いた目の前にレンブラントの顔。
リョウは反射的に目を閉じそうになり、同時に眉をしかめて手に力を入れる。
「……本当に触れられるの、嫌だった?」
戸惑うようなレンブラントの声に、リョウが急いで首を振る。
「違うの。……知らない、匂いがする……」
キスをして分かった。
さっきから気になっていた薬のような匂い、夢に出てきた匂い……あろうことかこの人から来てる!
「え、あ……! すみません、さっきの煎じ薬、臭いがついたままなんですね!」
レンブラントが慌ててリョウとの間に少し距離をとり、口に手を当てた。
「え、煎じ……薬?」
意味がわからない。
薬を飲まされたのは私の筈。なんでレンが飲んだことになってるんだろう? ……まだ夢を見ているのだろうか……?
理解できない不安感からなのか、やけに心臓がドキドキしてリョウが不安げに尋ねる。
「ああ、さっきアルが来てね、僕に飲んでおけって渡していったんですよ。……え、リョウ?」
リョウが混乱しながら微かに震えているのを見て今度はレンブラントが一気に不安になる。
一度距離をとった間を再び詰めて腕を伸ばし、リョウの体を抱き込んで背中をさする。
「……あ、あの……ごめんなさい……違うの、今、夢に出てきたのが、セイジが出したお茶だったから……」
「あ……!」
リョウの言葉にその反応の意味がわかってレンブラントが小さく声をあげた。
しまった、匂いで思い出させてしまったか!
そう思いつつ、息が掛からないように急いで顔をリョウからそむけ、今度こそ本格的に体を離して起き上がる。
「すみません。リョウ、ちょっと口をゆすいで来ますね。煎じていたから服と、髪にも匂いがついているかな……シャワー浴びてきた方がいいみたいですね」
レンブラントが慌てて自分の寝間着の匂いを確認しながら呟く。
ので。
「あ、だめ。レン、行かないで。平気だから……!」
自分でも抑えがきかなくなってリョウは思わず身を起こしてレンブラントに抱きついていた。
今、独りにされたら本当に昨日の記憶と闘うことになりそうだ……!
そんな気がして、自分が裸であることを気にも留めず、もっといえばいつの間にか窓から入る光は早朝のものではなくもっと明るい光であることも一切忘れてリョウはレンブラントの首に両腕を回してしがみついていた。
さっきの夢の感覚。
凄く生々しくて、実際昨日は感じなかった恐怖感が半端なかった。
あの感覚を思い出すのは嫌だ!
そう思うとしがみついた腕の力を緩めることなんかできずに、ますます強くしがみついてしまう。
ふと、レンブラントが笑みをこぼす気配がした。
そしてやんわりと抱き締められる。
「大丈夫。どこにもいきませんよ。もう少しこうしていましょうね……リョウ、匂い、大丈夫ですか?」
耳元でそう言われてリョウが慌てて小さく何度も頷く。
よく嗅いでみたら私が飲まされたあのお茶とは匂いが違う。
もっとずっと薄くて、柔らかい匂いだ。
違う匂いであることを確かめたくて何度も匂いを嗅いでしまう。レンブラントの寝間着、首筋、髪。
レンブラントが自分の匂いをあちこちと嗅ぎ始めたリョウについ小さく笑ってしまう。
そしてそのまま少し腕の力を緩めるとリョウの鼻先がレンブラントの口元にたどり着いた。
なので、試しにその唇に軽くくちづける。
リョウは一旦びくりと引いたあと、すぐに微笑みながら唇を重ねてきたので レンブラントは少し安心して腕に力を入れ直し、ゆっくりキスをする。
暫くキスを楽しんだあと、リョウが小さく息をついてレンブラントの唇から少しだけ距離をとる。まだ息がかかるくらいの距離だ。
「……あの薬の匂いとは違うから全然平気。むしろこっちはいい匂いだわ」
さっき夢の中で認識した匂いとはかなり違うことに改めて驚く。
そんなリョウの言葉に、レンブラントが安堵の息を吐いて、額と額をくっつけてくる。
あ、でも。
と、リョウが小さく言葉を続けた。
「レン、薬って……具合悪いの……?」
アルが煎じ薬を持ってきた、と言っていた。
医者がわざわざ処方薬を届けに来るということは、相当具合が悪い、ということではないだろうか。
「ああ、大丈夫ですよ。……たいしたことじゃい」
レンブラントがいつも通りの笑顔を作るのだが、リョウはますます眉をしかめた。
それを見たレンブラントが気まずそうな笑顔に変わって額を離した。
「ちゃんと説明しないと納得出来ない、といった顔ですね……えーと、ちょっと疲れていたから体を休める薬を強制的に飲まされただけです。それに、かなりよく効く薬だったからもうなんともなくなりましたよ」
そう言いながらレンブラントの手がリョウの頭を撫でる。
心なしか「もうなんともない」というところが強調された気がしてリョウは一度安心しかけて、ふと、レンブラントの「疲れ」の原因が自分であることに思い当たり愕然とする。
「ああ、リョウ! 本当に大丈夫なんです。アルが気にしすぎなだけですよ。あなたがそんな顔する必要はない」
少しずつ下を向いていくリョウの顔を包み込むように両手で支えて上を向かせたレンブラントが情けない声を出す。
「……うん。ありがと。……ごめんなさい、気を遣わせてるわよね。なんだか自分の思慮のなさに勝手に落ち込んでるだけだから気にしないで」
リョウが力なく笑顔をつくって答える。
本当に、思慮に欠けている、と思った。レンが気を遣って言葉を選んでくれているのであろうことも分かる。アルが心配して「よく効く」薬を持ってくるくらいだから相当疲れていたのだろう。
考えてみたら行き先も告げずに診療所に行っていたのに良く見付けてくれた。きっと相当心配して探し回ってくれたんだと思う。
そして、見つけた自分の妻があの格好だったら……相当心配する。それは昨夜の彼の様子から痛いほど理解している。
私なんてただ馬鹿みたいに寝てただけなのに。
そう思うと、自分がしたことのせいで回りがどう動いているのか心配になり、とはいえ何をどう訊いていいかも分からないのでリョウは混乱してくる頭を抱え込みそうになる。
「……お腹、空きませんか?」
不意に、レンブラントの声でリョウの下降していく思考と感情にストップが掛かった。
「へ?」
思わず顔をあげるとレンブラントがくすりと笑った。
「お腹が減っていると情緒不安定になるものですよ。……ああ、何か着るものも持ってきますね。少し待っていなさい」
そう言うとレンブラントはリョウの額にキスを落として、ベッドの上に座り込んだ姿勢のリョウに掛け布を軽く巻き付けてベッドから降りる。
「あ……!」
リョウはここに来て、ようやく自分が完全に昼間の明るさの中で、裸でレンブラントに抱きついていたことを認識して耳まで赤くなりながら固まった。




