訪問客
リョウがぼんやりと目を開ける。
薄暗い室内。見慣れた寝室。
わずかに明るいところを見ると、まもなく夜明け、か。
……あれ?
夜明け?
私、いつベッドに入ったっけ?
レンに夕飯出したっけ?
リョウが身じろぎをする間もなく静かに慌て始めた。
確か、昨日、診療所の帰りについでだからと手で持てる範囲で買い物をして帰宅した。
夕方になる前に、夕飯の支度をしてなんとなく疲れたからシャワーを済ませて……。
うん。疲れたからレンが帰ってくるまでちょっと横になろうと思って、そのまま、ホントに眠っちゃったんだ!
レン、帰ってきた?
思わず勢いよく寝返りをうって後ろを見る。
「……んん……」
と、少し間を空けて隣で眠っていたレンブラントがモゾモゾと動きながら微かに声を漏らした。
……うわ。隣に入ってきてたのに私、全然気付かなかったんだ……。
リョウにしてはちょっと珍しいことだった。
眠っていても周りで人の気配がしたら気付くものなのだ。
まぁ、よほど疲れていたり、相手が上手に気配を殺してくれたりしていたら気付かないこともあるが。
あれかな、いつもはハナを連れてする買い物を自力でやったせいで持てる量の加減が掴めずあちこち行ったり来たりしてしまったから疲れすぎたのだろうか。
そもそもつい先日もこんなようなことがあった。
この家にいると本当に、完全に気を抜いてしまうみたいだ。……良いこと、なのかもしれないけど……我ながらちょっとびっくりする。
それにしたって……平和になったせいで気が抜けているんだか……体力も落ちたってことかな。
今日は剣でも持って素振りでもしようかしら。
リョウがそんなことを考えていると。
「……あ……リョウ? ……もう朝ですか?」
レンブラントが目を覚ました。
「あ、ごめんなさい。起こしちゃったわね。まだ日は昇ってないからもう少し寝てて大丈夫よ」
リョウがなるべく耳障りにならないように小さな声で謝る。
リョウ自身もそろそろとかけ布の中に潜り込み直しながら。
と、レンブラントの腕がリョウを抱き寄せてそのまま温かい体が密着してくる。
「昨日はずいぶん疲れていたみたいでしたね」
レンブラントがリョウの耳元で囁いた。
「う……そう、みたい、ね。なんだか気が付いたら眠ってしまっていたみたいで。……レン、夕食は食べたの?」
反射的にレンブラントの胸元に頬をすり寄せながらリョウが囁き返す。
「ええ、いただきましたよ。あのスープ、美味しかったな。前に食堂でよく一緒に食べていたのと同じ味でしたね。リョウが作ると具が沢山入るからさらに美味しく感じますね」
くすり、と笑みを漏らしながらレンブラントが答える。
あはは。
それは、ついうっかり、なんだけど。
リョウが内心苦笑する。
食堂のスープも具沢山というのが売りだった。リョウはそれを目指して作っているのだが、小人数分の適量をいつもつい越えて具材を投入してしまうのだ。
で、最近は開き直っている。
自分でもたまに「これはスープじゃなくて煮物かもしれない」と思うときがあるくらいだ。
でも、レンブラントの誉め言葉は素直に嬉しい。
なので、返事の代わりに再びすり寄ってレンブラントの頬にキスをしてみる。
こんなひとときが好きだ。
静かにリョウはそう思いながら微笑む。
レンブラントの腕にゆっくり力が入って抱き締められて、身動きが出来なくなる。
そんなぬくもりにも安心してしまう。
するりと抜けられる程度に緩く抱き締められるより簡単には抜けられないくらいにしっかり抱き締めていてもらえる方が安心できるので、つい確かめたくて反発するように体に力を入れてしまう。
「……あ、すみません。苦しかったですか?」
レンブラントが戸惑ったようにそう囁くと腕の力を緩めた。
「ううん。いいの、今みたいにぎゅってして? その方が安心できるから」
リョウが思わず甘えた声を出すとレンブラントがくすりと笑って再び腕に力を入れ直した。
二度寝というものは……どんなときでもお勧めできるものではない。
リョウが玄関のドアに寄り掛かりながら一息つく。
ベッドでじゃれあっていたせいでそのまま二度寝してしまった二人は完全に寝過ごし、レンブラントは遅刻すれすれで家を飛び出していった。
「さて、と」
レンブラントを見送って再びドアの内側に入ったリョウは、手を腰に当てて深呼吸をひとつ。
……決めた。
今日は、午前中は素振りで体力戻さなきゃ。
だいたい、ちょっと歩き回って慣れない荷物運びしただけで疲れるとか、あり得ない。恥ずかしすぎる。
それからセイジに会いに行って、夕飯は……作るのが間に合わなかったらレンと食堂に行こう。
たまには二人で外食というのもいいと思うのだ。
簡単に一日の予定を頭の中で確認して寝室に向かう。
寝室と言うにはちょっと広い部屋は、半分はくつろぐための空間だ。
ソファがあり、テーブルがあり、飾り棚があり、小さな本棚とちょっとした書き物机がある。
そんなスペースの隅に立て掛けてあるのがリョウの剣。
初めは壁にかけようか、なんて言われていた。
確かに装飾も多少はついているし取り立てて戦いで持ち歩く必要がなくなったことを考えると壁に飾っても良いのだろうけど、なんとなくリョウは気が進まず本棚の陰に立て掛けたままにしている。
レンブラントを始め騎士である者たちは相変わらず外出時に剣は必ず身に付けている。
でも、リョウは騎士というわけではないのでその必要がなくなっていた。そもそも守護者が帯剣して歩いていたらそれは都市の人々にあまりいいメッセージは伝えない。都市が何らかの危険にさらされていることを暗に伝えることになってしまうので。
そんなこんなで、最近は手入れをするとか部屋の掃除をする時とかくらいしか手に取ることもなくなってしまっていた剣だった。
リョウがその剣に手を伸ばし、なれた手つきで鞘から抜く。
使い込んだ柄はやはり手に馴染むし、握りこむと剣の先まで感覚がすっと通るような感じがする。
リョウにとっては使いなれた重さではあるが、一般的なそれよりも重量のある剣でもあり、これをなんなく扱うということはそれなりに体力もあるということなのだ。
……あれ?
体力、落ちたのかと思ったんだけどな。
リョウがちょっと首をかしげる。
体力が落ちたならば、剣の重さが気になってもおかしくないだろうと思ったのだが全くそんな感覚がない。
……まぁ、気付かない程度のうちに元の体力に戻しておいた方が良いだろうし。
そう思い直して、一度剣を鞘に納める。
まさか部屋の中で素振りは、ない。
とりあえず、まずは動きやすい格好に着替えて……あんまり人目につく場所じゃやりにくいから……裏庭辺り、かな。
などと考えながら。
午前中の、早い時間帯。
ちょっと剣を振るにはいい時間帯かもしれない。
周りは静かで集中しやすいし、朝の空気は澄んでいて深く吸い込むと気持ちいい。
リョウはそんな感想を抱きつつ一度静かに目を閉じてから、剣を構えてみる。
実戦、というより昔教えてもらった単なる基本の型を思い出しながらの、素振り。
教えてくれたのはクロードだった。
昔、彼を思い出すのが辛くて剣を持つことさえ出来なかった時期もあったが、やはり、気付けば教えられたことを一つ一つ思い出しながら体を動かさずにいられなくなっていた。
忘れてしまうことが恐ろしかった。
今は。
忘れてしまうのが恐ろしいとは、思わない。
でも、忘れないようにしたいと思う。
それはレンが忘れる必要はない、と言ってくれたから。なのかもしれない。その言葉が自分の想いをそっと後押ししてくれた感覚だった。
クロードを想う気持ちに、期待していた形で応えてもらったわけではないけれど、それでも、彼は自分の中の大切な人であることには変わりないのだ。通じなかった想いごと大切にしたいと思う。
体を巡る程よい緊張感。
感覚を研ぎ澄ますと、目を閉じていても周りの様子がある程度わかる。
頬を撫でる風の香りから、周りで咲き誇っている薬草の様子まで思い描ける。
そこを通ってくる風の質。
空気の気配。
今は誰も近くにいない、という安心感からか決まった型を守りつつ過去の記憶につい思いを馳せてしまう。
『……誰?』
目を閉じて集中、ということに難しさを感じていたリョウが、いっそのこと目隠ししたらいいじゃない! と思いついてこっそり朝稽古をしていたとき、背後に微かな気配を感じて振り向き様に切っ先を向けたことがあった。
『……な、にやってんだ……目を閉じてやれとは言ったが目隠ししろとは言ってないぞ!』
焦った声がして、剣を握った手を固定したままもう片方の手で目隠しをずらしたらクロードの喉元すれすれで切っ先が固定されていた。
あの時のクロードの焦った顔!
思わずリョウが笑みを漏らす。
まぁ、確かに怖いわよね。
まだ感覚も鋭敏とは言えず、剣の腕だってたいしたことない女の子が目隠ししたまま自分の喉元に剣先を突き付けてきたら。
私も下手に動かして何かあったらいけないと思ったから目隠しを外して目視するまで剣を持つ腕は固定したけど、あの時、声にビックリして下手に動いていたらクロードの首、落ちていたかもしれないのよね……。
と。
「……何かご用でしたか?」
わずかな風の変化に今度こそ我に返ったリョウが目を開けた。
背後にはグリフィス。
「ああ、すみません。邪魔をするつもりはなかったんです。この時間は気持ちがいいので少し散歩をしていたんですよ」
リョウが剣を下げて振り向くと困ったように笑うグリフィスと目が合った。
「あら……お仕事はこれから?」
剣を鞘に納めてリョウが微笑む。
グリフィスの仕事ぶりには定評がある。本当にいつ休んでいるのかわからないほど、夜遅くまで働いているのだ。
なので、早朝ならともかくこのくらいの時間に散歩をしているというのはちょっと意外だった。
そうはいっても、一般の人たちが働き始めるには少し早い時間だ。
レンブラントは隊長という仕事柄、早朝に家を出てはいるが。
「ええ、昨日はほぼ徹夜だったのでね。今日は朝は少しゆっくりできるんですよ。……まぁ、周りは週に一日くらい休んでくれ、なんて言うんですがね。一日はさすがに休めませんが半日くらいはゆっくりしようかと思いまして」
「それは……お疲れさまです」
そうか、そんなに働いているなら是非とも休んで欲しいな。
などとリョウも思わず同情の目を向けてしまう。
「少し摘んできたんですが、お茶にでもしませんか?」
グリフィスが右手を軽くあげると、その手にはふわふわした緑の葉がついた茎が数本握られており、その先には白い花が幾つもついている。
考えてみれば、グリフィスの働く城も住まいである離れも、ここリョウたちのいる家とは庭が繋がっているようなものだ。広さやお互いの生活からしてそうそう行き合うことはないが、この花を摘もうと思ったらちょっとした散歩がてら、ふらっとこっちまで来るというのはごく自然なことだった。
リョウは折角なので家にグリフィスを案内して一緒にお茶を飲むことにした。
カミレと呼ばれる白い花は、お茶にしても生の花の時の香りそのままに林檎に似た香りがする。
摘みたてのもので入れたお茶はほんのり爽やかで、乾燥させた花で入れたお茶より香りが柔らかい。人によっては青臭いからと言って乾燥させたものを好むこともあるがリョウはどちらも好きだった。
「すみませんね。急に押し掛けた形になってしまった」
カップを片手に、それでも言葉とは裏腹にとても楽しそうにグリフィスが微笑む。
「あら、お気になさらず。……本当はちゃんと食事にでもお呼びしたいのにレンが嫌がるんですよね。なんでしょうね、あれ」
リョウが少し決まり悪そうに答えながらカップを口に運んだ。
ザイラやルーベラなら台所の隣の部屋に通すところだが、今日は相手が仮にも「義理の父親」でもあり「都市の司」でもある人だ。
滅多に使わない応接間に通してみて、部屋の片隅の応接用のテーブルを使ってみている。
……普段使わないとはいえ、簡単にでも掃除しといて良かった! 埃なんか積もったりしてないよね……?
などとつい、リョウはあちこちをちらちらと窺ってしまう。
「……あれは……たぶんやきもちだと思いますよ。貴女を他の男に見られたくないのでしょう。それに貴女の手料理を他の男に食べられるのも……嫌なんでしょうね……はぁ」
グリフィスが力なく告げると最後に小さくため息をついた。
そんな風に育てた覚えはないんですが……と呟いて遠い目をするグリィフィスは、血の繋がりはないとはいえしっかり父親の顔をしている。
なので、リョウはつい吹き出してしまう。
「そういえば」
心地よい沈黙が少しあった後、グリフィスが口を開いた。
「リョウは家事をほとんど一人でやっているんですね?」
「え? あ、はい」
なんとなく背筋を伸ばしながらリョウが返事をする。
……やっぱりどこかに埃が積もっていたかしら?
なんて思うと冷や汗が出そうだ。
「大変ではないですか?」
そんなリョウの考えを知ってか知らずかグリフィスがにっこり笑いながら尋ねてくる。
「……そう、ですねぇ……」
リョウはほんの少し答えに詰まった。
料理は元々嫌いではないし、作ったものを食べてくれる人がいるというのはとても嬉しいことで、しかもレンブラントは本当に美味しそうに食べてくれるので苦にならない。しかも今日の予定のように「いつでも食堂が利用できる」という都市の生活スタイルがあるからどうってことはない。
掃除は……正直いって手が回らない。というのは事実。だからこの部屋みたく手を抜く部屋があるわけで。
あとは、洗濯。
騎士服やリョウの上着のように上から支給されている服に関しては洗濯屋を利用する。騎士服は各駐屯所に洗濯室があって以前は下級騎士の雑用の中に洗濯なんていう雑務もあった。
リョウも騎士だったときはそのお陰で最低限、下着や寝具程度を自分で洗うくらいで済んでいた。
今はさすがに守護者の上着を夫の駐屯所に持っていく訳にはいかないから都市の洗濯屋に持っていき、ついでに他の服なんかも出していた。
下着くらいは自分で洗うけど。
でも、実はこの家、ちょっとの洗濯には勿体ない、ちゃんとした洗濯室がついていたりするのだ。
「使用人を雇う、というのは可能ですか?」
考え込んだリョウに意外な言葉がかけられた。
「使用人、ですか?」
思わず聞き返したリョウにグリフィスが、ああ、と少し慌てた。
「すみません。リョウの仕事の質がどうとかいう話ではないんです。むしろリョウはよくやっています。家で食事を作ること自体、この都市ではなかなかしないことですし、これだけ広い家を一人で管理するというのはただ事じゃない」
グリフィスがカップを置いてテーブルの上で両手を軽く組み合わせた。
なんとなく仕事の話をするような雰囲気だ。
「実はここ最近、この都市には難民が入ってきたり、落ち着いてから移住してくる者が増えたりしましたのでね、職が足りなくなっているんですよ。そこにもってきて騎士隊は縮小しましたが仕事内容は戦闘が無くなった分普段からかなりハードになっています。だから騎士達の給料は上げざるを得ない。……で、今、そんなこんなで今までより給料が上がる者たちには人を雇うことを奨励してみようか、ということになっているんです」
なるほど。
自分の家事のいたらなさとは無縁の話にリョウの肩の力が抜けた。
確かに今まで騎士達の給料は生活が最低限保証される程度のものだった。
生活を豊かにするとかそんなことを言っていられる状況ではなかったのでそこに不満を持つ者はそういなかっただろう。
でも、ここ最近リョウも、レンブラントの給料を目の当たりにして「こんなに沢山何に使ったらいいんだろう」と思っていた。だいたい、毎日忙しいんだから娯楽に使う暇なんかない。それに質素な生活になれている騎士が豪奢な生活も出来るわけがない。
さらに、リョウはリョウで守護者としての手当て、のようなものを都市から貰っているのだ。
「元老院や軍関係者をはじめとして仕事に専念するために家の事を任せられる使用人を雇えば少しは格好がつく、ということなんですが……司の屋敷や守護者の館はその筆頭に上がっていましてね。まぁ、ここに使用人がいないのに他の者達がそれを差し置いて人を雇うなんて出来ないだろう、ということなんですが」
あー……。
なんとなく言わんとしていることがわかってリョウが頷く。
「取り敢えず、うちにも何人か雇うことにして、あとはここの敷地を管理する者も何人か雇うことにしているんです。この家も部屋数は多いでしょう? 住み込みで働く人を雇うことが出来れば助かるんですが」
「そう、ですね。部屋数としてはそれでも大丈夫ですけど……私の一存では……」
リョウが言葉を濁す。
グリフィスを食事に呼ぶことさえ躊躇するレンがそれって許可するんだろうか。
そう思えてしまったので。
「ああ、大丈夫。あいつにはこちらから話を入れます。今日の午後は都市の経済について幾つか会議が入っているのでその折にでも正式に。折角リョウとお茶が出来たから……その、つい嬉しくて先走った情報を流してしまった……」
グリフィスが照れたように笑ってカップに残っていたお茶を飲み干した。
ああ、そういうことか。
リョウが思わず、くすりと笑う。
一緒にお茶ができて嬉しい、なんて面と向かって言われるとものすごく照れ臭い。
正直言ってこちらこそ恐悦至極、なのだ。
「ああ、やっぱり」
そんなリョウを眺めながらグリフィスがそんな言葉を漏らした。
「?」
リョウがなんだろう? という目を向けると。
「あ、いや。……いい笑顔で笑うようになったな、と思いまして。……ああ、あまりこういうことを誉めるとレンのやつがまたやきもちを妬くな……わたしはそろそろ仕事に戻ることにしますね」
リョウが誉め言葉を消化して顔を赤らめる前にグリフィスが慌てたように立ち上がった。
なんだかんだで気付けば昼前だ。
つられるようにリョウも立ち上がり、グリフィスを玄関まで見送ることにする。




