過ぎたものと今あるもの
強い光を感じて、リョウが眉間にしわを寄せる。
すぐ近くに温もりを感じて反射的に擦り寄ると、その体をあたたかい腕が包み込んだ。
「……ん……あ、もう朝……?」
いつもは日の出と同時に起き出していたから、部屋が明るくなっているという事にリョウが戸惑う。
「……まだ寝ていていいですよ。言ったでしょう、僕は今日は昼まで休みですから」
体を包み込んでいる腕の主、レンブラントが囁く。
「え、でも朝ごはんの支度しなきゃ……」
リョウがもぞもぞと動き出して、はた、と動きを止める。
「……だいたい明け方近くまで眠らせなかったんだから。それに……そのままベッドから出られないんでしょう?」
「……う……」
リョウが動きを止めた理由を察してレンブラントが悪戯っぽく笑う。
リョウが着ていた寝間着も下着も、レンブラントの物と一緒にベッドの下に落ちている、らしい。
しかもほとんど記憶にない状態で下に落としたので、この感じだとベッドの周りをぐるりと一周しなければいけなさそうだと思い当たったリョウは日も昇ったこの明るさでそれは恥ずかしすぎる、と、動けなくなったのだ。
「だからほら、もっとこっちにおいで。……朝は冷えますよ……ほら、肩が冷たくなってる」
レンブラントの腕がリョウの背中に回り、そして温かい手が細い肩を包んで自分の方に引き寄せる。
「寒くないですか?」
囁かれる声にリョウが、小さく息をついて「ん、あったかい……」と答える。
どうやらちゃんと眠りについてからまだ数刻しか経っていなかったらしい。
体に残るわずかな倦怠感にちょっと納得して、レンブラントの声に安心して、心地よい温かさを実感すると、再びリョウの瞼が重くなってくる。
ああ、駄目だ。この感覚に負けると本当に眠ってしまう。しかも今寝たら本当に昼まで起きないかもしれない。
そう思うとリョウは、眠気に逆らって起き出そうと両手に力を入れてレンブラントの腕の中から抜け出そうとする。
「……リョウ、無駄な抵抗ですよ。もう少し寝たら起こしてあげるから寝なさい」
くすりと笑ってレンブラントがリョウの開けようと頑張っている瞼にキスをする。
実際のところ、リョウの腕も眠気が勝って大して力は入っていないのだ。
「……んー、ダメ。今寝ちゃったらもう起きられなくなる気がする。……レン、何か話して」
リョウがレンブラントの首に抱きつきながらちょっと甘えた声を出すので、レンブラントもつい口許がゆるむ。
「……何かって……何を話せって?」
レンブラントが抱きついてきたリョウの体を抱きしめ返しながらくすくす笑う。
リョウはまだ寝ぼけ眼だ。
「……ん、何でもいい……レンの声、すごく好きなの……」
「クロードより?」
レンブラントの声は相変わらず甘い。
リョウは思わず小さく吹き出す。
「……そうね……ずっと彼のことは忘れないようにしようと思っていたんだけど……レンが忘れさせてくれる?」
リョウが腕を解いてレンブラントの胸元に顔を寄せる。
想いが通じなかったクロードの事よりも今ここにある温もりに酔っていたい、と思った。
レンブラントが両手でリョウの頬を挟んで上に向けてからその唇に口づける。
「……忘れなくてもいいですよ。今リョウがここにいるのは彼のおかげなんですから」
そう言って眼を細めるレンブラントの口調は限りなく優しく、リョウが一瞬目を見開いた。
くったりと力が抜けたリョウの体をゆっくり抱きしめながらレンブラントが一度ゆっくり息を吐く。
「リョウの寝顔を見ながら考えていたんですよ……。クロードはきっと竜族という種族を愛していたんでしょうね。そしてリョウにも『火の竜』として負い目を感じるんじゃなくその名に相応しく、あるべき姿で生きて欲しいと願っていたのかもしれない。そしてそれは力を誇示するような生き方ではなく、人を愛し共存するようなそんな生き方で……リョウが自分で自分なりの方法を見つけて生きて行けるように助けたかったんじゃないかと思ったんですよ」
「……あるべき姿……」
リョウがレンブラントの言葉を口の中で小さく繰り返す。
火の竜について語るクロードを思い出してみる。
「火というのは面白い……人が使うから役に立つ。人に使われることによって初めて存在意義がある。だから火の竜は人に惹かれる性質を持つのかもしれないね」
そう言って静かに笑った彼の真意は、今更知る由もないが。
それでも、今更ながら。
自分に都合のいい解釈だとしても。
こうして、誰かに愛されることが許されるなら。
それが「あるべき姿」だと、思ってもいいのなら。
じわりとリョウの目に涙が浮かぶ。
「……レン……私のこと、愛していてくれる?」
リョウが消えそうな小さな声で囁く。
と、リョウを抱きしめていたレンブラントが思わせ振りなため息を吐いた。
「……リョウ」
静かに耳元で名前を呼ばれて、リョウの体が反射的にびくりと震えた。
……しまった。
こんな事をわざわざ聞いたら面倒くさい女だと思われてしまう……!
そう思い当たって、謝ろうと顔を上げたリョウの目とレンブラントの視線が絡む。
リョウの予想に反してレンブラントは悪戯っぽい笑みを浮かべており。
「……どうやら、あれだけじゃ足りなかったみたいですね」
「……え?」
リョウがその言葉の意味に戸惑った一瞬の内にレンブラントはリョウの上になっていた。
「いいですよ。仕事に出かけるまで、たっぷり時間をかけて納得させてあげますからね」
ニヤリと笑うレンブラントに。
「……! わーーーー! 違う違う違う! 足りてる! 足りてますってば!」
リョウの声が部屋に響いた。
「……ちゃんと食事してから行ってね」
テーブルに、昨夜用意していた料理の一部と新たに作ったスープを並べながらリョウがそう言うと、向かい側の席に座って当て付けがましく不機嫌そうな顔をしているレンブラントがこれまたわざとらしくため息をつく。
「昼まで家にいて何も食べてません、なんて他の人に言えないでしょ?」
リョウがそう言うとレンブラントが再びため息をついて見せて。
「……別に構いませんよ。妻とやることやってましたって言えばいいんですから」
「……! レンブラント!」
リョウが一気に顔を赤くして叫ぶ。
……この人、本当にこんな人だったっけ?
そう思いながらリョウが熱くなった両頬を自分の手で包む。
「……ベッドに行って仕切り直しますか?」
「しません!」
からかうようにニヤリと笑うレンブラントにリョウが即答する。
先ほどは絡みついて離れないレンブラントをどうにか引っぺがしてバスルームに駆け込み、結界まで張って落ち着くまで引きこもったのだ。
朝っぱらから……なんて考えられない。
だいたい照明を落とした夜ならともかく、明るい部屋の中ですることじゃない、気がする。
朝食にしては遅めの、昼食にしてはちょっと早めの食事の支度をしていても、気を抜くとレンブラントが背後から抱きついてくるので台所でちょっとした攻防戦が繰り広げられた。
思い出すだけで顔が熱くなるのにその元凶を目の前にしているから、熱が一向に引かない。
リョウが困り果てて視線を泳がせているとレンブラントが食事に手をつけるのではなく、テーブルで頬杖をついてリョウの方を眺め始める。
「……リョウ、座ったらどうですか? 席に着かないなら本当に二階に連れて行きますよ?」
「……え! ああ! いや、座ります! 私、お腹空いてるんだから!」
夕べは結局何も食べてなかったのだ。
実のところ支度をしながら何回かお腹が鳴ってしまった。
慌てて座って目の前のスープに口をつける。
そんな様子をレンブラントが楽しそうに眺め、つられるように食事を始めた。
「リョウが作る料理は美味しいですね。昨日は食べられなくて残念だったんです……一緒に食べられて良かった」
「……嘘だー!」
リョウが思わず半眼になる。
昨夜といい、今朝といい、そんな風には微塵も感じなかった!
という視線を送る。
「いや! 本当ですよ! 昨日は本当に残念だと思って帰ってきて……その……帰って来たらリョウがあんなところで寝ているから……つい……」
「……つい、脱がせたの?」
昨夜は目が覚めたら着替えが済んでいた。記憶を辿っても着替えさせられている時の記憶がない。
……全く警戒することなく熟睡していた自分が怖い……いや、夫と居るのに警戒しながら寝る必要はないのだけど……。
なんて考えながらレンブラントを軽く睨みつける。
「……あれは、起きないリョウが悪いですよ? ……呼んでも起きなかったし……脱がせても見事に起きなかったんですから」
レンブラントの視線が頼りなく宙を彷徨う。
……むしろ起こさないようにやったに違いない。
と、リョウは確信した。
「……だいたい、一日仕事で疲れて帰って来たところにあんな顔して寝てられたら……我慢なんてできませんからね」
もっともらしい口調に聞こえるが……疲れて帰って来て……そういう気が起きるものなのか、ちょっと疑問だ。
とさえ思える。
昨日の夕食のおかずで作ったサンドイッチを頬張りながらリョウが白々しく「ふーん」なんていう相槌を打つ。
そうは言っても、レンブラントがリョウの手料理を食べる時には本当に美味しそうな顔をして食べている。
自分が多少なりとも料理をするせいか、食材の使い方や味付けにもちゃんと反応してくれて……作り手としてはありがたい限りの反応なのだ。
リョウが料理を楽しむようになったのは本当に久しぶりのことだった。
クロードと生活していた頃はあちこちを点々としていたので、その中でいろんな料理を覚えた。
でも、彼がいなくなって、食べることに関する欲が全くなくなったので、自分のために作る料理は美味しいものにしようなんて考えることがなくなってしまっていたのだ。
ここでの生活が始まって、そして最近いろんな食材が都市に入ってくるようになって、自分でもびっくりするくらいいろんな料理を思い出す。
クロードとの生活は短くて……長かった。
ざっと二十年以上の付き合いだったのだ。
……こうなると、親子みたいなものだったのかも知れない、と思う。
「……オレンジ、ですか?」
リョウが食後に淹れた紅茶を目にするなり、レンブラントが目を輝かせる。
リョウはふと、その声に反応して、何かを思い出しかけたところで……それにそのまま蓋をするようにふっと笑う。
それから改めて満面の笑みをつくって。
「そう! 昨日ザイラが沢山持ってきてくれたの。まだあるから今夜の夕食のデザートにも何か作って出すわね」
そういえばよく泡立てた卵で作る甘いオムレツに取り出した果肉を挟んでも美味しかったな……なんて思い出す。
「それは楽しみですね。……今日は早く帰って来ますから寝ないで待っていてくれますか?」
レンブラントがにっこり笑って尋ねてくる。
「そうね。……寝てたら何されるかわからないものね……あれ? レン……まさか寝てるうちに何かしたりは……してないわよね?」
ちょっと嫌味を言うつもりで返した自分の言葉にふと嫌な予感がしてリョウがレンブラントを見据える。
途端にレンブラントが明らかにうろたえ始めた。
「……え、レン……?」
「……いや……あれはリョウが……いやでも……何も覚えてないんですよね?」
レンブラントがうろたえながらも念を押してくるので。
「……何したの?」
リョウがちょっとひきつった笑いを浮かべる。
「……っ! ああ! そろそろ出かけなくては!」
明らかにはぐらかそうという勢いでレンブラントが席を立つ。
「ええ! ちょっと!」
合わせるように立ち上がるリョウから逃げるようにバタバタと身支度をし始めるレンブラント。
そんな彼を見送りながら、リョウがくすりと笑いをこぼす。
仕方がない。
今夜は例の香水をつけて彼の帰りを待っていてあげよう。
そして昨日何をしたのか聞き出してみよう。
さっきほんの少し思い出しかけた感情。
ちょっと懐かしかった。
あれはクロードと食事を「楽しんていた」時に味わっていた感情だ。
あの、幸せだった頃と同じ……いや、それ以上のものがいつも手に届くところにあるという贅沢。
そんな贅沢が怖くて時折、不安要素を探してしまうけれど、いつか、きっと、不安要素を探そうとするこの気持ちが麻痺してくるんじゃないかと思えるほどの幸せ。
だって、レンは私が不安にかられるような事があったら絶対に支えて慰めてくれるのだ。
不安に思う必要はない、と、納得するまでちゃんと助けてくれる。
クロードといた頃は、何も知らないが故の幸せだった、と思う。
自分が何者で、周りからどれだけ拒絶されているか。
クロードに、想い人がいることにも気づいていなかった。
思い通りに物事がいかない理由も、分かっていなかった。
教えられてなんとなく知っていることも、ちゃんと理解していなかったのだ。
そして現実を知って、理解した途端、全てが壊れた。
今、それを再び築き上げようとしているのかも知れない。
それを、助けてくれる人もいるのだ。
今私は、独りじゃない。




