FZ1 Fazerの彼女
僕が彼女と出会ったのは、海のそばを通る国道だった。潮の香りなんて僕は慣れ切っていたというのに、どうしてかそのときのつんと鼻をつく感覚はいまだに強く焼き付いている。
僕より10歳ほど年上だった。彼女の髪色は銀色が塗されていて、田舎であることを差し引いてもかなり風変わりな彩色だった。少なくとも僕はそのような嘘っぽい輝きの毛髪を見たことなんてそれまでもそれからも一度としてない。
ウール素材の暗い紺色をしたフード付きコートと、ギラギラした真紅のタートルネックシャツは、形式的に言えば色合いが喧嘩しあっているようにも思えたけれど、その場の雰囲気から浮いている彼女に纏われているからこそ、絶妙の様相を呈しているように印象付けられた。
服装からして冬なのだろうけど、この回想ではそのことはあまり重要ではない。
彼女の横に鎮座しているバイクは、シルバーと黒で無骨に塗装されており、大きさも相まって、女性らしさを微塵も感じさせないフォルムだった。ヤマハのFZ1 Fazerという車種名は、後に記憶を頼りに調べて知ったことだ。いずれにしろ気軽に買える代物じゃない。
彼女は僕の方は見ず、煙草を加えてやや顎を上向かせ、何もないはずの空を見上げていた。強いて言うならこれからの悪天候を予感させる灰色の雲が広がっていたくらいだ。彼女が右手につまんでいた煙草からも同系色の煙が棚引いており、中空で空の色に溶けてしまっていた。
「どうしたんですか?」
僕が声を掛けると、分厚い横髪の隙間から彼女の瞳を垣間見ることができた。妙に赤みがかって見えたので、カラーコンタクトだったのかもしれない。身がすくむほどではなかったけれど、目は離せなかった。僕の意識はすっかり彼女の雰囲気に飲まれてしまっていた。
「バイクの調子が悪くてな、少し休んでいたところなんだ」
声の調子は彼女の見た目ほどに刺々しくなく、むしろあどけない女性らしさを湛えていた。若干目を瞬かせた後、「だったら」と僕は続けた。
「うちで修理できますよ。親父がバイク屋やってるんで。良ければ案内します」
「ほお、それは助かる」
彼女の眉が急な弧を描いてみせた。それから身を翻してバイクのレバーを両手でつかんだ。僕の視界から再び彼女の顔は消えていた。
「近いのかな?」
「それなりに歩くと思います。田舎なんで」
僕が彼女の横に並ぶと、彼女もまたゆっくりとバイクを転がし始めた。僕は前に進んでもよかったのだけど、なぜだか並ぶより先には出たくなかった。
家につき、彼女は父親といくつか話して契約を済ませた。
修理が終わるまでは店のロビーでふらふらと過ごしていたと思う。僕はカウンターから彼女の姿を見ていたけど、話しはしなかった。何ものにも遮られていないはずなのに。
父親が再び彼女と話し、身長の半分ほどもある大きな座席に跨って、彼女は行ってしまった。結局最後まで、僕は彼女の横顔までしか見ることがなかった。
★ ★ ★
僕の人生はいくらかの年を経た。僕自身、中学生から高校生へと変化はしていた。世間一般に言えば僕は成長していたのだろうけど、はっきりそれと呼んでいいのかは、今をもってはまだ自信がない。
生活の拠点は生まれた時から変わらず、片田舎のバイク屋の二階にある。僕の部屋は小学生のときから広さも内装も変わっていない。
隅に積まれるガラクタは世間の流行の変遷を表していて、もはや化石と言える代物まで転がっていた。父親お手製の本棚には中ほどに漫画が詰め込まれており、上段には古い教科書類、そして下段に参考書類が重ねられている。今後、それらの分厚い本が、中ほどのふんわりとした領域を侵食していく様は容易に想像することができた。心残りも殆どない。
本棚の横の壁にはいくつかポスターやペナントが貼り付けられている。自分で買ったものもあれば、どこかに旅行にいった友達からもらいうけたものもある。
その中で一際目を引くのは、とある荒い映像のコピーだった。数年前に東北で起きた自然災害のニュース映像をネットで拾い、家々が混濁した水に押し流される一場面を捉えて拡大印刷したものだ。
当時の社会がもたらした浮ついた機運に乗っかって、意気揚々と壁に貼りつけたのだけれど、さすがに今ではそんな刺々しい嗜好は沈んでしまった。時たま無性に恥ずかしくなるものだから、折を見て剥がしたいのだけれども、なかなかその機会が得られないまま、見られないのをいいことにそのまま放置されてしまっている。
僕が再び彼女のことを思い出したのは、ある夕方にひとりのライダーが店を訪れたときだ。父親はたまたま近所に出張修理に出ていた。ものの数十分間だけの店番を任されていて、もし修理が必要な客が来たら父親がいつ帰るかを速やかに伝えるのが僕の役目だった。
「すいません、帰ってくるまであと二十分ほど――」
僕の言葉が途切れたのは、入口に立てかけられた一台のバイクが目に入ったからだ。客の所有物であるらしいその大柄のバイクは、懐かしいダークな色合いをしていた。
「FZ1 Fazerですね」
一時期ネットで検索して引き当てたその名前が、思わず口をついて出てきた。
脈絡のない単語だったので、客が首を傾げるのも無理はないことだった。
「なんだ、直せないのか?」
「いえいえ、そんなことはないです。ただそのバイク、僕の……知り合いも乗っていまして」
父親が帰るまで時間はあったので、僕は客に彼女の話をした。といっても内容自体にドラマがあるわけでないのは十分承知していた。ただ風変わりな女の人と出会って、お店に連れて行って別れただけだ。ここから話が広がりでもして、父親を待つ客の暇つぶしになってくれれば幸いという程度の話だった。
ところが、客の反応は思った以上に大きかった。銀髪の女性の容姿に触れた途端、彼は眉を顰め、話を聞きながらも常に何事かを頭の片隅でこねくり回している様子だった。
やがてお話しが終わるころになって、客がぴんと首を跳ね上げた。
「この辺で銀髪のライダーといったら、心当たりがあるぞ」
「え、ええ? 本当ですか?」
「ああ。もう4,5か月前になるがな。ある山間を走っているときに出会った。同じマシンに乗っていたことが話すきっかけになったんだ。とはいえ、目指す方向が違っていたから、それほど話し込んでいたわけでもないがね。道の駅でちょちょいと話した程度だ。その女、これから数年ぶりに故郷に帰るんだって言っていたぞ」
男が話した地名は聞き覚えのある隣県の街だった。距離はあるが、電車でいけないこともない。
僕はその客からもっと情報を聞き出そうとした。主に彼女がどのあたりに暮らしていたのかについて。
「なんだい、会ってみたいのか? 一度しか会ったことないんだろう?」
「それはそうなんですけど……なんとなく気になって」
「ふむ。説明できればしてやりたいんだが、俺もそのとき話したっきりだしな。ただ、あの髪色は目立つから街のバイク屋でも当たればすぐに見つかるんじゃないか?」
この客の一計に納得して、僕は礼を伝えた。
そのあとすぐに父親が帰ってきたので、僕と客の会話はそこで打ち切られた。
僕は自室へと帰ってプランを練ることにした。彼女とまた一目会いたい、そう思い立ったのである。
★ ★ ★
その週末、僕は電車に乗って隣県へと向かっていった。
丸一日かけて彼女を探す予定だった。必ず見つけなければならないというわけではないが、自分なりに納得できる捜索をしてみたいと思っていた。
僕は電車があまり好きではない。決まりきったレールしか走らないから、などという陳腐な歌詞のようなフレーズは山ほど世の中に溢れているけれど、僕が電車に抱く不信感はまさにこのフレーズの中にあった。
電車はどこにでも行けるようでいて、本当は駅という点を繋ぐ役割でしかない。人々は駅を拠点として活動するから、繁華街を含めた人々の往来も駅を中心に発展する。駅から遠く離れた場所は需要が無くなり寂れていく。このような社会の盛衰にはかねてより興味を抱いていた。
おそらくバイク屋の息子として、人々の変遷の話をよく耳にしていたからだと思う。バイクは電車よりも自由に走る。車と同じように道路を走れるし、車より俊敏に降りて歩く旅人になることができる。だから旅先の隅々を見ることができる。
発展も衰退も、ライダーたちは見てきていた。その景色と考え方が僕に刷り込まれていて、僕は電車を嫌うに至っている。仕方のないもどかしさはいつまでも僕の心に残っている。
郊外を走り抜けていく車両の少ない電車は常に揺れていて、朝早く目覚めたばかりの僕を再び眠らせようと躍起になっていた。
僕の脳裏にはすでに彼女がふわふわと漂っていた。銀髪は棚引くものの、その内側にある顔まではわからない。
僕は彼女の顔を見てはいなかった。見ることができなかったわけではなかったのに、記憶には残っていない。覚えているのは横顔と背中だけ。その不自然な欠落も僕を駆り立てる一因になっていた。
彼女は僕を手招きしていた。あの大きな無骨なバイクの後部座席。僕は促されてそこへ座る。彼女は横にいて、ぼやけた顔で僕のことを眺めている。
僕の意識は、今度はバイクに移っていった。修理屋の目線で見慣れていた計器類、そしてウインドウ越しに見える山間の景色。僕は免許なんて持っていない。これは夢だろうと察しがついた。
その途端、景色が灰色に染まっていく。勿体ないことをした。あとわずかでも恍けていたら僕はあのバイクのエンジンを吹かせることができたというのに。彼女とどこまでも、あてのないツーリングができたというのに。
目を覚ましたとき、電車は地方都市に到着していた。一時は人の減っていた社内も、今ではぎゅうぎゅうに詰まっている。ここからあと三十分ほどで目的の街へ辿り着く。
電車はまた出発し、ゆらゆらと揺れ始める。レールの上であり、しかも今度は景色さえ見えない。しわくちゃのスーツが目の前にずらりと並んでいて、僕は耐えきれなくなり目を閉じた。
夢にいたれない覚醒した暗闇に、耳障りなアナウンス音だけが鳴り響いていた。
★ ★ ★
彼女の故郷と思われるその街は県の中央に位置する盆地だった。駅は僕の地元のよりも大きかったけれど、活気は同じくらいに萎びていた。平日の昼間という時間帯のせいでもあるだろう。
僕はネットを頼りにバイク屋を探し回った。駅のそばにも2,3件あったが、彼女の特徴を述べても直接的なヒントは得ることができなかった。
その代り、情報を得られそうなお店や施設を案内してもらえた。通なライダーが通い詰める職人気質のバイク屋や、ライダーの団体が所有している交流施設などだ。
それらの場所にも足を運び、ようやく銀髪の彼女を見たことがあるという話をいくつか聞くことができた。
そのころには、僕はすっかり謎解きの与えるある種の昂揚感を堪能し始めていた。
「銀髪のあいつならよく知っているよ。知り合いの娘さんなんでね。あいつならこの前父親に会いに病院に行っていたよ」
こう言ってくれたのは、街のライダー団体に所属する高齢の男性だった。すでに定年も迎えており、体力が持つ限りバイクに明け暮れて一生を終えるのだろうと思える剛毅な人だった。
「病院、ですか。お父さんがご病気とか?」
「いや、怪我しただけだよ。階段で転んだんだと言ってたかな。まあもう結構な歳だったしね。出てったあの子も素っ飛んで戻ってきたってわけさ」
「出てった?」
「なんだ、知らなかったのか。あいつ家出していたんだよ。10年くらい前かな。俺もあいつを見たのは久しぶりだったから」
僕の頭の中の彼女の輪郭が奇妙に揺らめいた。
別に家出をしていたことがショックだったわけではない。むしろ人間らしい所作に親しみを抱いたくらいだ。
彼女を調べれば彼女のプライベートな一面が見えてくる。そんな当たり前のことが新鮮味を持って僕に受け止められた。その驚きが彼女のイメージを揺らがせたのである。
★ ★ ★
男性から教えてもらったところによると、入院していた彼女の父親は先日退院したばかりだったらしい。長いこと独り身で、使用人との暮らしを続けているが、彼女がまだ残っているかはわからないと言っていた。
僕は彼にお礼を言い、情報を頼りに街を歩いた。
軽い軽食を済ませて、目的地である一軒家に辿り着いた。それなりの由緒のある家らしく、広々とした塀があり、庭に立っているらしい松が敷地の外からもはっきりと見ることができた。
「旦那さんの娘さんのことですか」
玄関口で細身の使用人が僕の話を聞きうけてくれた。
「あいにく彼女はもう別の場所に出発してしまって」
申し訳なさそうに伏目になって、使用人は答えてくれた。
「その、行き先とかは?」
「それも……ごめんなさい。娘さんはあまりご自分のことを話したがらないので」
「そうですか……」
軽い失望は感じたが、そもそも運が良ければ彼女と会える程度の捜索だったので、僕は溜息をつくだけだった。
「それなら仕方ないです。急にお訪ねしてすいませんでした」
「いえいえ、そんな。こちらこそすいません」
使用人が慌てて深々と頭を下げる、その向こう側に、ゆらりと大柄の人陰が現れた。
「あいつのことで用か?」
「旦那様」
振り返った使用人は真っ先にそう答えた。
旦那様と呼ばれたからには、彼女の父親なのだろう。背は高く、腕も脚も太くて、褐色のイメージの似合う大男だった。彼女とはあまり似つかない。
彼女の父親は僕の方を鋭い目でにらんできた。僕はすぐに身をすくませてしまった。オーバーにリアクションをとったわけではない。本能的な反応だった。
「君があいつを訪ねてきたんだな?」
「え、ええ」
「……少し聞きたいことがあるんだ。入ってくれ」
突然の申し出に、僕はもちろん、使用人もどうしていいかわからないでいる様子だった。
彼女の父親は使用人を押しのけ、再び僕に目を向け手招きをした。そこでようやく僕は足を踏みだすことができた。
★ ★ ★
板張りの廊下をゆったりと歩みながら、彼女の父親は口を開いた。
「君は、あいつとはどういう関係なんだ?」
「……中学生の頃、だから3年くらい前なんですけど、そのときに彼女と会いまして。バイクが壊れていたので、バイク屋をやっているうちで直したんです」
「……ん、それだけか?」
「あ、はい……それだけです。ただあの人のことを覚えていて、一度会ってみたいと思っていたんです。先日たまたま彼女を見かけたという人に会いまして、それで思い切って探しに来た、というわけです」
僕のたどたどしい説明が終わってから、彼女の父親は少しだけ口を噤んだ。
廊下の左側は広々とした庭で、外から見えた松の木が中央に聳えていた。身をひねりながらもそれぞれの方向へと拡散していく枝は、不思議と調和して見えて、たとえ興味がないとしても視線を集中させたくなった。
「あいつは10年前に出ていった」
新しい話が、静かなトーンで開始された。
「私の妻はすでに亡くなっていてな、私とあいつの二人家族、そして使用人だけがこの家で暮らしていた。あいつが社会に出ようという頃になって、突然あいつは自分のバイクに乗り、遠くへ行ってしまった。私には何も断りもなく。
ただ、直接に会ってはいないものの、年に数回電子メールを送って連絡は取っていた。あいつは別に私のことを嫌って出て行ったわけではないのだろう。もし嫌いなら、連絡など一切よこさないはずだからな。
しかし、だとしたらどうしてあいつは出て行ってしまったのだろう。この前あいつと10年ぶりに再会したわけだが、その理由を質問してもあいつは素知らぬ顔をするばかりだった。私にはそのことがいまだにわからないでいる」
彼女の父親の歩みが止まり、僕も足を止めた。板張りの鳴りが止む。辿り着いたのはひとつの部屋の障子戸の前だった。
「彼女の部屋だ。中はあいつが出て行ったときのままにしてある。もちろん埃を払うくらいの掃除はしていたが」
説明し終えて、彼女の父親は扉の取っ手に手をかざした。僅かに力が入り、扉が横へとスライドされる。部屋の中の様子が、僕の目に明らかにされた。
「どうだろう。彼女がどうして出て行ったのか、君にはわかるか?」
問いを耳にしながら、僕の目は部屋の一点に集中していた。
本棚の横にある、壁の隅。四角い一枚のポスターのようなもの。ふたつのビルが聳えていて、その一方の真ん中から轟々と炎と煙が立ち込めている。何を表しているかはすぐにわかった。10数年前に海の向こうの大国で起きた大規模な飛行機テロの画像だ。
僕はその瞬間を見ていたわけではないけれど、その映像が当時あちこちのニュースやネット界隈で飛び交っていたことは知っている。そのひとつを拡大印刷したものが、彼女の部屋の片隅にピン止めしてあった。
彼女がどうして出ていったのか。
父親のその問いが、改めて僕の脳裏に反芻された。
「わかります」
咄嗟に僕はそう答えた。目線は片時も例の画像から離れないでいた。
彼女もまた、一時の昂揚感でその画像を貼りつけたのだろう。内容に意味があるわけじゃない。飛び切りショッキングで、世間が騒ぐ場面を捉え、自分の目の届く場所に置く。思春期の彼女の荒んだ様子が、目に浮かぶようだった。
「彼女はここから離れたかったんです」
「……嫌だったのか?」
「いえ、そうじゃなくて。ここだと……その、うまく言えないけど……止まっちゃう気がしたんだと思います」
なるべく失礼にならないようにと、慎重に言葉を考えた末の結論だった。
彼女の父親がこの内容をきちんと納得してくるかに関しては全くもって自信がない。伝わらないかもしれない。それでもそれが、渾身の、僕の彼女に対する理解だった。それは僕が発すると同時に、僕自身にも突き刺さって聞こえてきていた。
「そうか」
やがて聞こえた彼女の父親の声は、ひどく小さい音に思えた。彼の身体つきには似つかわしくない、静かな寂しいリズムにのって。
「それなら仕方ないな」
申し訳なさが僕の心中にじわりと広がった。まるで僕の父親がその言葉を発したかのように。
★ ★ ★
帰りの電車で、僕はまた彼女の夢を見た。
バイクにまたがる彼女の姿。僕の前で、エンジンを止めて片足で立っている。顔はやはり見ることができない。
僕もバイクにまたがっている。彼女と同じFZ1 Fazerだ。
腕も脚も思いっきり広げてポジションを取る。たとえ免許があったとしても、乗りこなすのは随分難しそうに思えた。
前方の彼女が微笑んだ。ボリュームのある髪の向こう側で。
彼女のバイクが発信していく。馬力のあるマシンなので、1,2秒で60キロ近くまで加速できる。
彼女はすぐに点のようになってしまった。銀の光だけが煌々と目に届く。
僕は急いでエンジンを始動させる。振動があり、マシンが動く。それまで曖昧だった場面が、一挙に晴れた。
灰色の空と潮の香り。あの日彼女と出会った海沿いの国道だ。マシンはもう壊れていない。彼女との距離が縮まっていく。丈の長いコートの背中と、シルバーの棚引く後ろ髪を僕はずっと見つめている。
太陽の光が彼女を照らし、僕の目に焼き付いたとき、不意に僕は気づいた。
僕は彼女の顔を見ることはないだろう。
見るとか、会うとか、そんなことは大した問題ではないんだ。それよりも、僕はずっと、彼女の背中を追いかけていたいんだ。
僕はこのバイクを乗りこなす、銀髪の彼女に憧れているのだから。
目を覚ましたときには、僕の住む県にまで戻っていた。帰宅までまだ時間はあるが、もう寝る気は無かった。
「……乗って行こう」
頭の中で浮かんだ単語が、小さな呟きとなって表れた。周りに聞こえたかもしれないが、別に気にすることもないと僕は思った。
――あ、でも、家出はやめておこう。まずは父親と相談しよう。
先ほどの彼女の父親との会話を思い出しながら、僕はそう、頭の中で付け加えた。それから先は、ひたすらに、バイクを駆る自分の姿を夢想していた。