グロリア①
「よっしゃ! いいゾ」
イルシスが暴れる鹿の頭と身体を押さえてぼくたちに言った。「いいゾ」って言われても……。
「ナイフを首元に入れれば筋が切れて動かなくナル。死ぬからナ」
わかってるけど……。
「血が噴き出るから、注意しろヨ」
もがく小鹿の顔に目をやる。歯を食いしばってキューッキューッと鳴いている。真っ黒い大きな瞳が必死に何かを訴えているように見えた。
「無理だ。アンネ、お願い」
「わたし!?」
ぼくがトマホークを差し出すと、アンネはとても困った顔をした。
「い、いやよ。だって、この子……」
「だよね……」
親子のうち子供だけ殺すなんて、なんというか残酷だ。
「イルシス、そいつ逃がしていいよ」
「はえ!?」
イルシスは眼を丸くした。
「肉だゾ、肉! 肉!」
「だって、子供だし」
「そうだ! 柔らかいゾ!」
「可哀そうじゃないか」
「ええ!?」
とても理解できないと言った表情だった。
「捕まえたモノは絶対食べル。駄目だゾ」
この原住民に博愛の精神を説くには、どうしたものか……。ぼくは数年前に布教活動を行った宗教者たちに少しだけ同情した。
「イルシス、想像してみてよ。この鹿は今日朝起きた時、母親の暖かい胸の中にいたんだ。きっと、こう思っただろうね。ありがとうお母さん。いつか、自分も母親みたいな立派な親鹿になるぞってね。その時、この子には無限の可能性があったんだ」
「意味わかんないこと言うナ!」
ダメだ。この子に何を言っても無駄なんだ。ぼくは数十年前、彼女たちとの争いを避けられなかった開拓者たちの気持ちがわかった気がした。
アンネも隣で困っていたが、ふと思いついたような顔をした。
「もっと大物のほうがいいんじゃないの」
それだ!
「そうだよ! こんな小さいのじゃ満足できないよ。これじゃ捕れないほうがマシなぐらいさ」
イルシスはしばらく黙ったが、
「……オスカーは欲張りだナ」
ぼそりと呟いた。一応納得してくれたらしい。
ぼくが小鹿の足に絡まったロープを切ると、イルシスが小鹿からゆっくり離した。
「大物がいいんだナ」
「……まぁね」
立ち上がって逃げて行く小鹿を見つめながら、イルシスに答える。すると、
「じゃあ、少し待ってロ」
「あっ」
イルシスはそう言い残して、声をかける間もなく林の中に駆けて行った。
◇ ◇ ◇
残されたぼくとアンネはイルシスを水場で待つことにした。もう新しい獲物を捕まえる気力はない。
「どこに行ったんだろう」
「知らないけど、すぐに戻ってくるわよ。いつもは一人でここに来てるんだから」
「グロリアはこないの?」
彼女の能力があれば狩りなんて簡単なはずだ。
しかし、アンネは大きく首を振った。
「全然っ。特に最近は公務だとか何とか言って家のこと何にもしないんだから」
彼女はグロリアのこととなると語気が強くなる。
「連保保安官なんだよね。信じられないけど」
女性が拳銃を持っているだけでも驚きなのに、まさか連邦保安官なんて。
「なったのはついこの間だけどね。ずっと補佐だったんだから。グロリアとデリンジャー、両方とも……」
「父さんの?」
アンネは大きく息をついた。
「ええ。だから、まだ認めてないって人も多いわ。でも誰かがやらなちゃいけないからね」
それは、つまり父さんの代わりという意味だ。でも、
「どうして、あの二人は……」
聞きかけた時、突然近くの茂みから何かが飛び出してきた。
「オスカー、大物、大物!」
イルシスだ。そう思い振り向いた瞬間に言葉が詰った。
「ブロロ」
低いうねり声と共に現れるや否や、巨大な前足で力強く芝を蹴って大地を揺らした。
そいつを見たぼくとアンネは仰天し、同じタイミングで叫んだ。
「「魔物じゃない(か)!」」
イルシスを追いかけて現れた魔物は、頭を振って、今度はこちらに向かって走ってきた。
素早いイルシスよりもぼくの方が楽だと思ったのか。
逃げなきゃ! 身体が叫び、ぼくはすぐに駆け出した。
「ブロロロロォオン」
魔物の鳴き声が、嫌が応にも背中を押す。必死にその場から離れようとした。逃げ道はひとつしかない。
「そっちはダメ!!」
ダメ? どうしてさ……あっ。
失敗はアンネの言葉の理解が遅れたことだ。
細い小道に入った途端、ぼくは蹴るべき地面をどこかに失ってしまった。
「うそ」
落とし穴だ。
自分が作った罠にまんまと嵌ってしまったのだ。
身体が制御を失い、転倒する途中、ゆっくりと理解した。
柔らかい地面にぶつかる。頭から、一回、二回、前のめりに転がった。いつの間に吸い込んだのか、口の中に土の味が広がった。
「だめええええ」
顔を上げた。アンネの悲鳴と――魔物の凶暴な口腔があった。
喉の奥の虚空まで見える。吸い込まれる。逃げようが――ない。その時だけはすべてがスローになった。
「オスカーっ!」




