プロローグ
赤い荒野に、撫でる様な一陣の風が吹いた。
飛ばされた砂粒が、ぼくの襟元にぶつかり、汗と混ざって胸元を流れた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
ああっ、今すぐ綺麗な水で洗い流したい。この汗だくな身体に頭からシャワーを浴びて、それからあったかい布団に包まれる。きっとぐっすり眠ることだろう。翌朝は寝坊してしまうかもしれない。そしたらお母さんが下の階から箒の柄で床を突くんだ。ぼくは飛び起きる。時計を見て大慌てさ。その日は父さんとキツネ狩りに出かける約束をしているからね。
――それはとても素敵な夢だ。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
お笑いだ。現実のぼくは鞄一つ持って、荒野のど真ん中を逃げ回っているというのにさ。
太陽が肌を焦がし、吸い込んだ空気が内側から肺を炙る。もがけばもがくほど苦しくなる。鍋に入れられた蛙はこんな気分なのだろう。
「はぁっ、はぁっ――うっ」
固い地面で足を挫いた。ゴキリと嫌な音と、刺すような激痛が身体に響く。バランスを崩しながらも、歯を食いしばって、なんとか一歩を踏み出した。
「はぁっ、はぁっ、ひぐっ」
ははは、とうとう涙まで出てきたよ。
ぼくは背丈の倍ほどの岩を見つけ、その陰に逃げ込んだ。足がガクガク、喉はカラカラだ。暑さのせいで視界もぼやけてきた。少しは休もう。このままじゃ、どのみち死んでしまう。
十五歳の少年が、たった一人で西部地方を彷徨っていると聞けば、故郷の大人たちはどんな顔をするだろう。「西部とは文明のない野蛮な土地だ!」「見るも恐ろしい魔物たちがうようよしているぞ!」「あそこに住んでいるのは我々とはまったく別の人間だ」これがぼくの街での共通認識だった。
そんな世界に、どうしてぼくが足を踏み入れてしまったのか。もちろん、理由はある。だけど、その話は、ぼくが生き残った後にしよう。なぜなら――、
グラグラと足元に微かな地響きを感じた。反射的に地面を蹴って、岩から身体を離した。
突進してきたそいつの頭が、岩とぶつかった。
硬い岩はバラバラに砕け、巨大な破片が宙を舞った。砂煙の中から、巨大な化け物が姿を現した。イノシシのフォルムに艶やかな漆黒の毛並、獲物を捜す二つの目玉は血走ったように赤く充血している。
「ブロロロロロロロロロロロロロロォォォォォ」
「うわぁぁぁあああぁぁぁぁぁ」
硬い地面に足を取られて転びそうになりながらも、ぼくは必死に足を動かした。
魔物と呼ばれるあの化け物は、きっとぼくたちを食べるため『だけ』に生きている。だから、筋肉で膨れ上がった足が四本もあるし、でかい図体には胃袋が詰まってる。銃弾を弾く固い毛皮に、鋭い牙だって持っているのだ。
こんな場所で、こんな化け物に目を付けられた時点で、最悪の状況と言っていい。
その上、
「うそだろ……」
その上だ。目の前に広がった光景には、言葉を失った。
どこかで、ぼくのことが大嫌いな神さまが言っている。死んでしまえ。殺してやる。
崖になっていたせいで直前まで見えなかった。ぼくの足元に伸びていたのは荒野を一直線に引き裂いた巨大な裂け目。谷底は深く、まったく見えない。落ちたら命どころか、形も残らないだろう。飛び越えるのに必要なのは、勇気よりも翼だ。
「ブロロロロロォオオン!」
振り返る。巻き上がった砂塵の中で奴が雄々しく叫んだ。向かってくる。背後には崖。目前には魔物。どこにも逃げ場はない。
「ぼ、ぼくは――」
絶体絶命。驚天動地。最終戦争! 絞り出た言葉は、
「こんなところ来たくなかったっ」
情けない弱音だった。
故郷から離れて数万キロ。高価な乗車券を買ってまでやってきたぼくに待っていたのはこんな末路。ひどすぎる!
「オスカー!」
その時、どこからかぼくを呼ぶ声が聞こえた。
周囲を見渡す。誰もいない。当然だ。こんな荒野に知り合いなんているわけない。
「こっちだ!」
「え――あうっ」
左からまた声が聞こえて来たかと思うと、誰かがコートの後ろ襟を力強く引いた。
首が締まり、足が地面を離れ、身体が宙に浮いた。
「ちょっ、わぁっ」
突然の浮遊感に重心を失い、手足が宙をかいた。目に映るのは流れるように過ぎ去っていく地面。
なにが、起こっているのか。理解が追いつかない。
「暴れるな! 後ろに乗れ! わたしの身体にしがみつくんだ!」
戸惑うぼくに向かって、そいつは怒鳴った。
馬に乗ったそいつは、ぼくを掴んだまま、崖に沿ってすれすれを走った。
後ろに見える魔物は凄まじい脚力で地面を抉り、ぼくたちに向かって急カーブを切った。
「ブロォ、ルルルオオオオォォオン!」
目を付けた獲物は意地でも食べる気らしい。
こんな荒野でようやく見つけた食事なのだ。と、やつはまたぼくに頭を向けて雄々しく吼えた。
「早くしろ! やつに喰われたいのか!?」
「そ、そんなの、急に言われたって!」
無理に決まってるだろ! 馬から下ろせ! きみは一体なんだ! どこから来た! 名を名乗れ!
「――――っ」
山ほどあった言葉のすべてが、姿を見上げた、その瞬間に喉の奥に消えた。
声の主が女性だった。からではない。長い髪が日差しを浴びて美しく輝いていた。からでもない。
少女が服の外側に纏っていた青白い衣、その女神のようなオーラが、ぼくの目を捉えて離さなかったのだ。
「いい加減にいろ! 落としてしまうぞ」
はっとして崖に目を落とす。巨大な谷底はごうごうと風を吹かせてぼくを呼んだ。
「う、うわぁっ」
必死に腕を伸ばして彼女の身体にしがみついた。足を伸ばしてなんとか馬に股をかけると、あとは彼女が捕まえてくれた。するりと彼女の後ろに収まった。
「大丈夫か? しっかり持てよ」
荒々しい馬の手綱を片腕で操りながら言う。ぼくは頭を大きく前後に振って、彼女のお腹に手を回した。
「よしっ――」
彼女はぼくから手を放すと、両手で手綱を握る。馬を力強く蹴った。ゴリリと固い皮が擦れる音がした。
ヒヒィインッと、嘶くと同時に馬が加速した。必死にしがみつく。彼女の革のベストで鼻がこすれた。
ぼくたちを乗せた駿馬はこの荒野を飛ぶように駆け抜けた。後ろの魔物との距離がぐんぐん開いていく。
すごい、この調子ならすぐに引き離せる。
「見えてきたぞ!」
走りながら彼女が崖の向こう側を指差した。
遠い。しかし、確かに町が見えた。黒い煙上げる巨大な煙突を中心に、時計のように曲線を描いて立ち並ぶ白い町並み。近づいていく。それは大きな、大きな町だった。
誰もが目を疑うだろう。荒野に囲われたこんな場所に一体どうして人間が住むことができたのだろうか。まさにあれが……
「あれが……サン・ダディ」
天の奇跡としか言いようがない。死ぬような目に遭いながら、ぼくはついにやってきたのだ。かつて大陸中の男たちが夢見た町へ。
ふと、彼女は馬の足を止めて馬の頭を反対に振った。真正面に魔物を据える。
「ちょ、なにしてんだよっ。このまま町に!」
ぼくは女の背中を叩きながら訴える。距離は開いたが、まだ魔物はぼくたちに向かってきている。立ち止まる意味がわからなかった。
彼女は、ぼくの問いに答えてくれなかった。代わりに、
「オスカー。きみのお父さんから話は聞いている」
「えっ」
――父さん?
不意の言葉に、息が止まる。
「もし自分に何かあったとき、東部に残した息子をよろしく頼む。とな」
彼女は腰に吊ったホルスターから拳銃を抜いた。慣れた手つきでシリンダーに弾を込める。
なんでこんなときに父さんが出てくるんだ!
心臓がハイスピードで動き出した。走っていたときとは比較にならないくらいだ。胸が苦しい。
「う、嘘だ! 父さんが、ぼくのことなんて」
「しっ」
「ぜったい――っん」
伸びてきた彼女の人差し指がぼくの唇を優しく塞いだ。すぐに離れたが、彼女は軽く微笑んだせいで、それ以上、何も言えなくなってしまった。
彼女は魔物に視線を戻すと、左腕を胸の前に水平にして土台をつくり、そこに銃を握る右手を交差させた。毛むくじゃらの魔物に銃の先を合わせる。片目を瞑り、一つ、息を吐いた。
まだ魔物とはずいぶん距離がある。彼女は待っているのだ。獲物が射程に入る瞬間を。
「嘘じゃない。だからわたしはここにいる」
ゆっくりと、彼女は言った。
「ブロロオオオオオオオオオオオオォォォォォォォヴヴヴヴヴ」
荒々しい咆哮をあげ、鋭い牙を剥いた魔物が迫る。大気の震えがビリビリと身体に伝わる。
ごくりと、ぼくは唾を飲みこんだ。いまさら反転して馬を蹴ったところで、もう逃げられない。もし彼女がその弾丸を外すか、タイミングを誤れば、ぼくたちは魔物の勢いに押し潰されて、谷底に一直線だ。
絶体絶命。驚天動地。最終戦争!
そんな状況で彼女は笑った。
「父親たちの町にようこそ。オスカー」
放たれた彼女の青い弾丸は魔物の眉間を一直線に貫いた。