第三話
また、2月4日が始まった。
「見つけたか?」
「いいえ……あの傘の色、とても目立つのに全然見えない」
「まだ来てないのかもな」
樹希が友人たちにも聞いてくれるが、仕事に関することではろくな情報が得られなかった。ただ、唯一教えてもらえたのは俵屋――有名な米問屋を張れと言うことだけだった。
一見、平凡な店にしかないそこには怪しさなど微塵もなかった。本当に何かあるのか疑わしいくらいに。でも、ここに時雨が現れるはずだ。
「怪異の気配なんてないわ……」
「お前が気が付けないだけじゃないのか?」
「あなたはどうなの? 何か感じる?」
「いいや――いない……のかもな」
「じゃあ、なんでここに時雨が現れるって言ったのよ」
「嘘つくような奴じゃない。絶対に何かあるはずだよ」
「だといいけど……」
怪異はどこにでもいる。もっと、気が付かないほど小さいか、奥深くにいるのか。まだ、現れていないのか――少なくとも、今日は一度もあの大ムカデの怪異は見ていない。
それから、陽が傾きかけた頃。周囲が俄かに騒がしくなった。夕飯時の呑気な喧騒ではなく、もっと不審なものを見るようなざわめき。
「何だ……?」
突然、気配がした。ぞわりと全身の毛が立った。それと同時に、人垣が割れた。我先に、人々が口々に叫びながら逃げ出している。
その中心――いつの間にか鮮やかな色をした傘があった。場違いなほど、美しく、清楚に。竜胆色の傘が。
時雨だ。
彼は、傘の柄から何かを引き抜いた。夕陽を受けて輝いたのは、刃物――日本刀。時雨が現れた怪異に立ち向かっている。
「行くぞ」
人ごみをかき分け、樹希についていく。刀を抜き、怪異を喰らうつもりだった。そこにあったものを見るまでは。
そこにいた怪異は、何度も私を食べたあの大ムカデ。威嚇のためかシューシューと息を吐き出し、身体を少しでも大きく見せようと伸びていた。無数の脚が動き回り、時雨をとらえようとする。
援護しないと。
そう思うが、一歩も動けなかった。身体が覚えた痛みが、思い出される。
ごりごりと自分の骨が砕かれる感触、肉が身体からはぎ取られる痛み。自分の命が、身体から真っ赤な液体となって流れ出る音。
それらは、根が深く――。
「春陽っ……! 立ってるだけなら、退がれ!」
戦闘の邪魔になる。分かってはいる。でも、身体が動かなかった。前にも、後ろにも足が動かない。気が付くと、目の前には赤茶色の牙が迫っていた。
「危ないっ」
後ろから引っ張られたと思うと、樹希の腕の中にいた。そして、顔に何かが飛んでくる。
見上げると、樹希の顔半分が真っ赤に染まっていた。首から、ボタボタと血が流れ出ている。
「樹希、樹希。しっかりして、大丈夫だから」
首から夥しい血が流れ出てくる。それを必死に抑え、周りに助けを求めた。でも、散り散り人々は近くにいない。応援もまだ来ていない。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
「大、丈夫……ごほっ――よ……ぅ」
喋るたびに、息を吸うたびに血が口から溢れる。ひゅうひゅうと呼吸音だけが響く。まだ何かを言いたそうにしていたが、やがて彼の体から力が抜けた。
「樹希?」
呼びかけてみるが、何の反応もない。瞳からは光が失われていく。まだ、身体は温かいのに鼓動は止まっていた。