第二話
チッチッチッチッチッ、カチリ。
耳元で、時計の針が動く音がした。次に目を開けると、いつもの見慣れた景色が目に入る。自室だった。空気の匂いも、外から聞こえる音も同じ。
「……ここ……」
私は確かに証拠保管室にいた。待ち合わせをしているという樹希に急かされて、保管室へ入ったのを覚えている。そこで地震にあい、落ちてきた時計を手にした。その時に、人を――老人を食べている怪異を見つけた。
そして、あの大ムカデの怪異に食べられた。自分の息遣い、骨を砕かれる音。あの痛み。
夢にしては、あまりにもリアル過ぎる。
「時計……」
夢が覚める前に、握りしめていたことを思い出す。固く閉じた手に、懐中時計があれば怪異の仕業だろう。力を入れ過ぎて固まってしまった指を開いていくが、手の中には何もなかった。
「本当に夢だったの……?」
「おーい、春陽。さっさと行くぞ」
「どこに?」
「どこにって……証拠保管室だよ。これ、保管しないとまずいだろ」
障子の前に立っている樹希が顔の横で小さな箱を揺らす。カタカタとなる小さな箱の中には、櫛が入っていた。昨日、退治した怪異が憑りついていたもの。
それからは、見た夢の通りに全てが起こった。局長へと2月4日付けの報告書を渡し、証拠保管室へと向かった。
「春陽? 早く中に入ろうぜ。俺――」
「うるさい。黙って」
不満げな樹希を無視して、扉を睨み続けた。どうしても確かめたかった。あれがただのリアルな夢なら、見たものと違う部分が合ってほしい。
そして、保管室の扉が開いた。中から出てきたのは――時雨だった。
栗色の瞳が私を見下ろす。女性のような色白の端正な顔立ちに、綺麗に切りそろえられた栗色の髪。手には、薄い青紫色――竜胆色の番傘を携えていた。
「そこで――何をしてるんですか?」
「時雨……」
「どこで私の名を? どこかで会ったことが?」
夢の中で。そんなことは言えなかった。私が黙って横にずれると、時雨は竜胆色の番傘を手に去って行く。その背を見送っていると、樹希が私の背を押した。
何かが起こってる。何かが。原因は分からない。
今、私は悪夢を辿っている。この後、地震が起きるはずだ。落ちてきた懐中時計を手にした瞬間、怪異に襲われて私は死ぬはずだ。
一歩、保管室の中へと足を踏み入れた。後ろからは、私がピリピリしているのを感じ取ったのか、樹希が心配そうな声をあげていた。
そして、私は再び立っていた。自室の畳の上で、固く手を握りしめて。また怪異に食べられたのだ。
「今日は、何日なの」
急いで障子をあけ、廊下をのんびり歩いてくる樹希に飛びつく。
「報告書を見せて」
「え? あ、はい……」
また、2月4日が始まった。これは、夢ではない。確実に何かが起こってる。精巧な幻影か、時間が巻き戻ってるのだろう。
精巧な幻影であれば、不意を衝けば壊れるはず。壊れなくても、綻びがどこかにできる。
私は迷わず拳を作り、振り上げた。今、目の前にいる樹希の横面に。彼は派手に廊下に転がった。
「何で殴るんだよ!?」
「幻影かどうか確かめたかったの」
「そういう時は、グーじゃなくてパーで殴れよ」
「分かったわ。次はチョキにしておく」
手が痛い。世界は壊れた様子もなく、どこかがほころんでいるようにも見えない。幻影じゃない。
とすれば、残る答えは1つ。
私は、2月4日を繰り返している。早く原因を突き止めなければ、私は永遠にここから抜け出せない。
「あー……痛ってぇ」
「証拠保管室へ行くわよ。早く!」
あの時計が原因になっているはず。時間が巻き戻ったとき、確かに手にしていた。2度とも。でも、時計は今、私の手元にない。それなら、一体どこにあるのか。
廊下を駆け抜け、管理用のパソコンに飛びついた。時計に関する情報を探すが、記録は古いものばかり。画像を見てみても、私が手に取ったあの古い懐中時計はなかった。
「なんでないの?」
「何捜してるんだよ……」
「時計よ。古い懐中時計。確かに保管室にあったのに、記録がないの」
憑りついているはずの怪異は、誰かに退治されているはずなのに。どうして、証拠であるはずの時計が保管されていないのか。パソコンの画面を見ながら、悩んでみても答えは出なかった。
あの時計が再び力を持った理由も分からなかった。
「おや、先客がいましたか」
声のした方を見ると、時雨が小さな箱を手に立っていた。栗色の瞳が私を見下ろしている。形の良い唇から、品のいい低く穏やかな声が発せられた。
「あなたは――本当に美しい紫色の瞳だ。局長の秘蔵っ子は……」
「中身は何?」
「時計ですよ。古い、古い。先刻、街中で暴れていたのを緊急退治したものです」
「貸して!」
小さな箱を時雨の手からひったくる。蓋を開けると、見覚えのある時計が入っていた。それを手にした瞬間、背後から音が聞こえてきた。
ごり、ごり、ごり、ごり。
液体が落ちる音がする。きっと、血だろう。咀嚼音に混ざって、うめき声が聞こえた。腰に佩いた刀を手に振り返ると、それがいた。大ムカデが。
樹希と時雨は、いなかった。何故かはわからない。でも、大ムカデを退治すれば、私は2月4日から抜け出せるはず。そうすれば、きっと彼らは戻ってくるはず。
そう信じて、大ムカデへと斬りかかる。
その瞬間、大きい音が聞こえた。何度か聞いたことがある。これは、すべてをなかったことにする音。
カチリ、と。ひときわ大きく、耳についた。
――秒針の音が。