第一話
2月4日付けで報告書を局長へと提出し、証拠を保管室へと来ていた。屯所内では監視の必要性もないのに、樹希がついてくる。
「どうしてついてくるの。用事があるんでしょ?」
「あるよ。あるけど、1人で証拠――特に怪異絡みの物は、1人で作業をしない決まりだろ」
「知ってる」
「なら従え。早く終わるぞ、俺はこの後遊びに行くんだ」
片手に収まる程度の箱には、怪異が強く思いを残した櫛が入っている。もうすでに、私が喰べた男性の霊――化け物と成り果てた人の記憶を思い出す。
とても、とても愛しい人の記憶。結婚を近い、苦楽を共にする証のために櫛を女性に贈ろうとした。でも、できなかった。櫛を手に入れたその日、殺されてしまったから。
「記憶を深く探ろうとするな。辛いぞ」
「……知ってる」
もうすでに私の中に収まった人物の記憶を見るのは確かにつらい。怪異となった人たちは、二度死を経験するから。あんな体験は一度でも充分過ぎるほどだ。
それでも、私は知らないといけない。今まで、何も考えずに怪異を喰い殺していた分だけ人の想いをないがしろにしていた気がするから。
「やることが極端なんだよ。もう少し受け入れ態勢を整えろ。下手に探ると、向こう側に堕ちる可能性だってあるんだぞ」
分かってる。怪異の想いに呑まれてしまう可能性があることは。それでも、私が獣からもう一度人に戻るために、見なきゃいけない気がしていた。人として、大事なことを思い出すために。
「いいから、今はやめておけよ。消化することだけを考えろ。少しずつ、普通の生活を取り戻していけばいい」
「復讐なんかやめて?」
頭上を仰ぐと、樹希の黒い瞳が春陽を映し出していた。頼りない顔をしている。あの藍澤宗助の――鼓の事件から、自分が弱くなってしまった気がする。怪異にも、人のような想いが残っていると知って。
それでも、あの時の記憶は忘れない。室内を汚していた夥しい血、私の家族を奪い、大事な人の剣士としての命も奪った怪異達。奴らを、この世から消し尽くすまでは私は強くいないといけないはずだ。
「そこで――睨みあわれると、困るのですが」
声のする方を見てみると、栗色の瞳が私を見下ろしていた。女性のような色白の端正な顔立ちに、綺麗に切りそろえられた栗色の髪が目に入る。手には、薄い青紫色――竜胆色の番傘を携えている。
「ご、ごめん。春陽、こっち」
樹希が腕をひっぱり、私を端へと寄せる。
「いいえ。平気ですよ。それにしても――本当に美しい紫色の瞳だ。局長の秘蔵っ子は」「……あなた誰よ」
「時雨と言います。監察をしているので、そのうち仕事でご一緒することもあるでしょう。その時はよろしくお願いしますね」
言うなり、時雨は見惚れるほど優雅に一礼すると去っていった。
「あいつが怪異になったら、まっさきに喰い殺してやる」
「はいはい。お前に怒るって感情があってよかったよ。それよりさっさと証拠収めるぞ。待ち合わせ時間が近いっ!!」
樹希が私の背を押して、証拠保管室へと入れた。
その時。
俄かに足元が揺れ始め、棚が前後に動き始める。地震だ。頭上からは証拠品が落ちそうになる。それを必死に手で押しとどめるが、間に合わずにいくつかが床に転がった。
「治まったか……。俺、他にも落ちてるものがないか、ちょっと見てくる」
「お願い」
そうして樹希は、足早に部屋の奥へと消えて行った。
春陽は周囲に散乱したものを拾い集め、改めて棚へと戻す。その時、突然ガタンと小さな箱が目の前に落ちてきた。衝撃で蓋が開く。中を見てみると、懐中時計が入っていた。
小さく、薄汚れていてとても古いものだ。使用者が長年、大切に扱っていたのだと見ただけで分かる。
時計を手にした瞬間だった。背後から、その音が聞こえてきたのは。
ごり、ごり、ごり、ごり。
ごり、ごり、ごり、ごり。
何かをかみ砕く音がする。
何かが、何度も何度も咀嚼をしている。そのたびにびちゃびちゃと何かの液体が、床に零れ落ちた。耳を覆いたくなるほど大きな音ではない。それでも、耳を塞ぎたくなったのは、時折聞こえる何かのうめき声のせいだった。
――食べられているのは、誰?
恐ろしさを押さえつけ、後ろを振り向く。
「何、あれ……」
それは、人を食べていた。
私の身の丈よりも大きく、細長い胴からは無数の脚が生えていた。それは老人を呑みこもうとするたびに、うぞうぞと脚を動かす。何かの感情を表しているのか、頭から生えている一対の触覚が時折揺れていた。
大ムカデは、私のほうに意識を向けながら老人を食べ続けていた。夢中で、血肉を貪り続けるその姿は、この世のものとは思えない光景。
それでも、動かないと。食べられている人を助けないと。
春陽はすぐに腰に手を伸ばす。が、何も掴むことはできなかった。いつも腰に佩いている刀は、今、刀匠に預けている。
まずい、今の私は――自分の身すら守れない。それでも、老人を助けないと。何か対抗できる武器はないかと探してみるが、目に入ったのは何の変哲もない懐中時計だけ。
それ以外に何かないか。何か、何でもいい。
その間も、ごりごりと、咀嚼音が響き渡った。
「あ……ぁ……助、け――」
やがて老人は、最後の骨の一片まで砕かれて呑みこまれた。ごくりと。次いで聞こえたのは、怪異が地を這いずりまわる音。
大ムカデはあっという間に私に迫ると、細長い胴を持ち上げて啼いた。本来声が出るはずはないのに。ひどく耳障りな音を立てながら、脚を伸ばしてくる。
「やめて――」
ムカデの形をした怪異は、私の肌に触れ幾つも生えている脚で撫でまわす。やがて――それは大きく口を開けると、喰らい始めた。私の肉を。
ごり、ごり、ごり。
ごり、ごり、ごり。
骨が砕かれる感触が全身を貫き、痛みを感じる暇もない。その中で、手にしているのは時計だけ。それは場違いなほど、正確に時を刻み続けている。
私が腹の底に収まろうとしたとき、カチリと一際大きな音が鳴った。最後の時を刻むように。