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十八畳と聞くと、アパートの安い部屋の三つ分に相当してかなり広いイメージがあるものの、道場が十八畳というのはそれほど広いとは感じない。特に俺や若菜が修めている実践武術は、四角く区切られた試合場なんて区別は設けず、単に有効的な攻撃によってのみ勝敗を決めるからだ。
もっとも、家の敷地にそんな施設があること自体が稀なんだろうけどさ。
「ハイッ!」
若菜が、胴を薙ぐように打矢を振り抜いた。
間合いの外。
振り抜く前にそれには気付いていたんだろう。若菜は、打矢を手から離し、慣性に従って斜め後ろへと飛ばし、鋼線を延ばして攻撃面を広げ、独楽のように回転する動きで二撃目に入っている。
短く二度跳躍して、更に後ろに下がった。壁が背中のギリギリまで迫っている。
若菜は壁に打矢がぶつからないように鋼線の長さを調整し、俺の頭の位置を水平に薙いできた。
狙い通り。
壁にぶつかって勢いが削がれれば一度手元に回収するしかない。それを避け、攻め続けるためには、壁にぶつからないギリギリを振り抜くしかなく、打矢本体の軌道が読みやすくなる。
若菜の打矢を叩き落し、前へと踏み出すが――。既に、若菜が低い姿勢で突っ込んできていた。打矢の軌道を調整した後、俺が打ち落とすために視線を逸らした隙に突進してきたんだろう。
左に!
重心を移動させ、サイドステップで避けようとするが、若菜が俺の両足に抱きつく方が早かった。道場の床にうつ伏せに転がされ、そのまま背中に乗った若菜が俺の首の後ろに膝を入れてきた。
詰み、だ。
抜ける隙は無いし、下手に動けば首の骨を脱臼させられる。
「……参った」
素直に降参するけど、若菜はすぐに俺の背中から降りなかった。むしろ、より密着するように上体を傾げているのが背中の感触から分かった。
「もし、だよ?」
耳に若菜の息が掛かる。
「このまま膝に私が体重をかけたら……どうなると思う?」
考えるまでも無い質問だ。首の骨が脱臼して俺が死ぬ。ただそれだけ。
「好きにすれば?」
慌てなかったのは、そんなことしないはずと思っていたからじゃない。人間、いつかは死ぬんだし、あんまりじたばたするのも性に合わなかっただけだ。結果が同じなら、無駄なことはしたくない。そもそも、好かれてるのかもって思う時もあるものの、嫌われてるんだろうなって思う時も少なくないので、若菜が俺を殺しても別に不思議じゃない。もっとも、不思議じゃないってだけで、実際に殺されたら腹立たしいだろうし、可能なら呪ってやろうとは思うけど。
「……マジになっちゃって、かっこ悪いの」
一瞬だけ空気が張り詰めた後、そんな台詞を口にしてから、若菜は俺の尻をペシペシと二回叩いて、背中から降りた。
立ち上がり姿勢を正せば、若干、作っているような感じがあるものの若菜の得意そうな顔が目の前につきだされる。
別に……今は腹は立たない。面白くない、と、思ってしまうのまでは止められないけど。勝負は勝負。負けたのも事実だ。
中学校も終わりかけの今となっては、男女の差も確かにある。が、実践武術は得物も使うし、単純に体力や腕力だけでは勝てない世界だ。特に俺達の流派では投擲具も使うんだし、急所を射抜くのにはそんなに大きな力は要らない。
十回戦えば、六回は俺が勝ち、一回は引き分け、三回は若菜が勝つ。実力は、性別による差ほどには離れていない。悔しいし、認めるのも癪だけど。
「もう一本」
間合いを取って声を上げるが、若菜の態度はつれなかった。
「ええ~」
だるそうな顔で、不満そうな声を上げている。
勝っている今、気分良く今日の訓練を終えたいんだろう。でも、逆に俺は、若干気分がよくない。負けたままっていうのも、すっきりしないものが腹に残る。
それに今日は、動きを読む練習として――投擲は、相手の未来予測をして、その場所に射ち込む必要がある――若菜に先制させていたので、あと一本、いや、二本ぐらいは俺から攻撃したかった。
でも……。
若菜は打矢を無造作に壁に掛け、タオルを手に取り、顔をぬぐって肩にパシンと――微妙におっさんくさい動作で掛け、ニカっと笑った。
「匠、風呂借りるよ」
今日はもうお仕舞いか。
まあ、いい。
明日は、こっちから打ち込んでやる。
俺も装備を道場の壁に掛け、盗難防止の鍵で固定する。知らなければこれ単品で使うって考えが浮かばないような武器だけど、人を殺せる代物である以上、管理は疎かにできない。
道場の掃除は――、午後にするかな。
埃は見当たらないが、木の壁には傷が多い。俺と若菜がつけたものもあるけど、もっと昔からある傷の方が多かった。戦前は、門下生も多かったと聞く。その名残だ。
まめに掃除しているとはいえ、経年劣化を感じさせるどこか煤けたような道場。再興を望むなら、建て直しが必要なんじゃないかって思う。舐められないためにも。
いや……。まあ、本当に再興させる気があるのかって訊かれれば、言葉を濁さざる終えないけどさ。
道場を出て、その出入り口にも鍵をする。
庭の向こうにある母屋に戻ろうとして振り返ると、俺の作業が終わるのを待っていたのか、若菜が横に並んだ。
「ああいうキャンプの後だとさ、なんか、こう、都市に住む幸せを噛み締められる気がする」
若菜は大袈裟に感動している……ふり? 演技? まあ、そんな感じの、作為を拭いきれない態度をしてせ見せてきた。
「お湯の出るシャワーに、良い香りのするボディソープ。コーヒーと甘いお菓子」
若菜はチラチラと俺の方を見ながら言っているんだけど、いまいちその意図がつかめなかった。昼食は、コーヒーと甘いお菓子にしたいんだろうか? いつも通り、和食の準備を朝のうちに済ませてたんだけど……。
「あ……。そう」
風呂は普通に使えるし、ボディソープも若菜が持ち込んでいるものがまだあるはずだ。コーヒーはインスタントでよければすぐにでも出せるし――まあ、夏場にホットなんて俺は飲む気がしないが――、甘いお菓子も、台所へ行けばなにかあるだろう。
うん、どれを要求されても対応は可能だ。だから『あ……。そう』としか返せない。今日の最後のひと勝負で負けた以上、適度にいうことを聞いてやらないと、またメンドクサイ騒ぎ方をされるし。
「感じ悪いんじゃない?」
俺の左頬に、若菜の人差し指がつきささる。
っていうか、若菜は俺がにこやかで馴れ馴れしく若菜と接するとでも思っているんだろうか? ……もしそういう感じで接したら、キモイとか言うくせに。
「午後から出掛けるから、ちゃんと準備してよ」
それが本題だったのか、不機嫌な顔をしつつ、どこかこちらを窺うような視線が上目遣いに向けられる。
若菜は、女子としては背が高い方なので、俺とそんなに身長は変わらないけど、こうして並ぶと、やっぱり自然と上目遣いになるらしい。元々、真正面から向き合い続けていた影響からか、若菜はあまり顔を上げるようにしては俺を見ない。多分、同じぐらいの背丈だった時の感覚が抜けていないんだろう。
「いってらっしゃい」
分かってはいるけど、あえてすっとぼけて見せると、頬をつついていた若菜の指が、今度は頬を抓ってきた。
「匠も来るんだっての。アンタの秋物もいくつか買わせたいし」
お盆も過ぎ、夏休みも後僅かだってのに、俺は神聖なる休日を平穏には過ごせないらしい。まあ、宿題も済んでるから、出かけるのに不都合は無いけどさ。
ただ、若菜と買い物に出かけると、疲れる。
……いや出歩くのが疲れるという意味ではなく、金を遣うということによる気疲れだ。
「若菜の選ぶ服は高い」
夏は、三~四千円するネクタイっぽいなにかのついたポロシャツっぽい服を買わされたし、秋物って言うと春の感じから五~六千円するジャケットとか、買わされそうだ。特になにか使う予定のある小遣いでもないが、無駄な出費は好きじゃない。
……高校卒業後、なにがあるとも分からないんだし、大学のための貯金は悪いことじゃ無いはずだ。
「安くて丈夫なカーゴパンツで俺は良いのに」
頭の後ろで手を組んでぼやくと、若菜が肩に掛けていたタオルを振り被って――。俺の後頭部をぼふん、と、タオルで叩いてきた。
濡れてもいないので痛くはない。
若干、若菜の匂いがする程度だ。より正確には、若菜がずっと使い続けている制汗スプレーの柑橘系の香りが。
「バカバカ! フザケンナ! そんな許婚連れて歩けるか!」
ぱふん、ぽふん、と、打矢で鍛えられた若菜の連撃が、タオルによって完全に威力をなくした上で俺を襲っている。
そんな許婚連れて歩けるか、なんて言われても困る。自発的に若菜の後をついて歩いているわけじゃないんだし、俺を連れ回すなら、少しぐらいはこっちに歩み寄ってくれてもいいだろうに。
それに、野暮ったい格好の男が嫌なんだったら――。
「いや、てか、許婚って周囲に広まってるのも若菜がそんなことをよく言うからであって、お互いに距離を取っていれば、知っている人だけが知っている雑学的なものとして――」
「なんで秘密にしたいの?」
右の頬も抓られ、正面を向かされる。
頬を抓られているせいか、どこかシリアスになりきれない部分はあるけど、若菜の目は全く笑っていなかった。
ふん、と、鼻から溜息を逃がす。
若菜の肘を軽く叩いて抓っている指を外し、少しだけ斜めに構えて俺は言った。
「吹聴する話じゃないって言ってるだけだろ」
「なにが不満なわけさ。私の」
若菜の目が据わっている。犯罪者を断罪するかのような視線だ。
しかし、それにあっさりと負けてやるような間柄じゃない。っていうか、俺は別に不満だとかそういう話をした覚えはない。若菜の被害妄想だ。
「不満だなんて、言ってない」
「言ってるも同じだっての」
ああ、もう!
若菜は安易にムカつくとかいっているが、俺の方がムカつくことが多いように思う。最近は特に。
前髪を掻き揚げ、半目で若菜を睨み返すと「匠が風呂入る時、水風呂にしといてやるんだから!」とか叫ばれた。
が……。ん? ちょっと待て、おかしくないか?
「え? 湯を張るのか? シャワーだと思ってたから、それは準備してないぞ」
一応訊き返してみると、若菜はきょとんとした顔になって――すぐさま、顔を真っ赤にして言い返してきた。
「……風呂上りに、ガスのスイッチ切るもん!」
「いや、普通に服脱ぐ前にスイッチ入れ直せば良いだけだろ。お湯出るまで、そんな時間掛からないぞ」
「なんでああ言えばこう言うの!」
「お前がだよ!」
肩を怒らせて脱衣所へ向かう若菜の背中を見送る。
若菜の天然のせいで、シリアスな空気台無しだ。
……狙ってそうしたのかもしれないけど――。いや、考えすぎだな。若菜は、時々って言うか、ちょくちょく天然が出るし。かと思えば、何気ない一言を深読みし過ぎて怒ったりもするから、始末に終えない。
ああ、もう!
と、若菜に聞き咎められないように心の中だけでひとりごちてから、俺は台所へと向かった。