宗教
ニーチェは言った。
「神は死んだ」
だがしかし、本当に?
*
赤い。赤いあかいランドセル。
合皮のなめらかな曲線、銀色の留め金、細い糸によって縫い合わされた、あれは一つの完成された世界だ。
しかし、と羽鳥は思う。
ランドセルとはあんなに赤いものだっただろうか?
思い出せない。彼の双子の片割れは赤いランドセルを背負っていたが、色あせた記憶は鮮やかな赤を呼び起こしてはくれなかった。彼自身が買い与えられたのは黒いものだ。
女の子は赤、男の子は黒。はじめからそう決められていた。
けれどそうだ。おれは本当は赤いランドセルが欲しかった。
赤いあかい、鮮やかなランドセルが――。
*
羽鳥は覚醒した。目が覚めていちばん初めに目にしたのは、コーヒーをこぼしたようなしみのついた天井だった。羽鳥はしばらく横たわったままそのしみを見つめ、夢で見たランドセルのことをぼんやりと思い浮かべていた。そして、なぜランドセルの夢なんか見たのだろうと考えた。
手を伸ばして枕元の携帯電話を探り時間を確認すると、七時四十五分だった。高校の始業にはもう間に合わない。
上半身を起こすと、今度は壁に貼ったビートルズのポスターと目があった。メンバーがリバプールの横断歩道を並んで歩く有名な写真だ。
ビートルズがそこまで好きなわけではなかった。正直言ってジョンレノン以外のどれが誰だかもわからない。羽鳥は彼らの音楽ではなく、ポスターやミュージックビデオやCDジャケットのデザインの方を好んでいた。それも中学時代までのことだ。
二段ベッドのちゃちなはしごを下りると窓辺に寄り、薄くカーテンを開いて下をのぞく。ちょうど小学生が一人歩いて行くところだった。夢で見たのと同じ、赤いランドセルを背負っていた。
*
朝の教室の空気がなんとなく張りつめているのは、雪国で冬の訪れが早いせいだろうか。それとも、受験や卒業が、もう目に見えるところまで来ているからだろうか。
生まれ育った多くの者が十代のうちに働き始め、結婚し子供を産むこの土地でも、僕の通う高校は県内でも有数の進学校だ。生徒のほとんどが東京の大学を目指す。参考書や赤本を持ち歩き、単語帳をめくってクラスメイトと足並みをそろえながらも、時折考える。いい大学に入ったとして、その後どうなるんだろう。僕らは、大人にならなければいけないのだろうか。
あってもなくてもいいような朝礼を終えて、担任が教室を出ていく。冴島羽鳥が現れたのはそのあとだった。
痩せてやたらと背の高い羽鳥が背中をまるめて席につくのを、僕は後ろからぼんやりとながめた。羽鳥はブレザーを脱いで背もたれにかけたが、グレーのタータンチェックのマフラーは外さなかった。強く注意されない限り、羽鳥は一日中あのマフラーをしたままだ。
僕らは小学生の時からずっと同じ学校に通う幼馴染だ。中学のときに一度疎遠になったけれど、今年同じクラスになったのを機に、また話をしたり、ときどき一緒に帰ったりするようになった。
羽鳥は学校で唯一の指定校推薦を取り、すでに都内の私立大学への入学が決まっている。一方の僕はまだ、自分の進路を決めかねていた。上京したい気持ちと、地元を離れたくない気持ちがせめぎあっていて、思い悩むままに時は時間が流れていた。
季節は冬だった。年が明ければセンター試験が待っている。その先にあるのは、人生を決める大きな分かれ道だ。
悠長に悩むような余裕がないことは僕だって分かっている。目に見えないだけで時間はいつだって圧倒的なスピードで流れている。中学生だったあの日の僕が、いつのまにか十八歳になっていたように。
そう。それは、十八歳の冬だった。
*
日が落ちた公園の入口に羽鳥は立っていた。最寄のバス停から自宅までの、十分ほどの道のりにある新興住宅地にある公園だ。
羽鳥が七歳でこの町に越してきたとき、ここは見晴らしがいいばかいりの過疎地だった。老いに呑まれて死んでいくのだろうと、羽鳥は思っていた。それが、新幹線の開通した数年前から急激に開発が進み、今では同じ形をした真新しい一軒家が立ち並ぶ。何組もの若い家族連れがそこから吐き出されるのを見るたびに、羽鳥は不思議な気持ちになるのだった。
互い違いに設置された車止めにゆるく腰掛けて、羽鳥は公園の隅で草をむしっている少女をながめていた。彼女はなぜか赤いランドセルを背負ったままで、やせっぽちの少女を後ろから見ていると、まるでランドセルが地面をうごめいているようだった。
それは、ここのところ羽鳥が毎日見かける女の子だった。
しばらくその後ろ姿を見ていたあと、羽鳥は腰を上げ、公園に足を踏み入れた。彼女から一メートル手前のところで立ち止まり、しゃがみこむ。羽鳥の知らないキャラクターがプリントされた七分丈のTシャツに膝丈のスカートというその格好は、今の季節にはいささか薄着過ぎる。よく見れば、スカートと靴下の間の素肌には鳥肌が立っていた。
ひたすら草をむしりつづける少女に、羽鳥は声をかけた。
「寒くねーの」
少女は答えない。雑草を掴んでは引き抜くという動作をひたすら繰り返す。
「何歳?」
答えない。雑草を抜くその目は怒っているようだった。
羽鳥はしゃがみこんだひざにひじをついて、またじっと彼女を眺めた。
小さな手は砂で荒れていた。ひたすら手元だけを見つめる少女は、羽鳥の存在を必死に意識から追い出そうとしているように見える。
背中のランドセルをよく見ると、細かい傷がたくさんついていて、合皮が一部はがれていた。
「ランドセル下ろさねーの」
「……だいじなものだから」
初めて返事があった。その声は手と同じようにがさがさしていて、ずいぶん長いこと声帯を使っていないようだった。
「気に入ってんの?」
こちらを見ないまま頷く。
「俺もさあ、赤いランドセルが欲しかったんだよ」
「……男なのに?」
怪訝そうに言って、彼女は羽鳥を頭からローファーの先までじろじろと眺めた。黒目が小さくて、伸ばしっぱなしの髪はところどころほつれてからまっていた。
「赤のほうが黒よか綺麗だろ」
また視線を手元に落とす。だが、手は握りしめられたまま雑草を引き抜くことはなかった。
瞬きを繰り返し、考えながら一言ひとこと噛みしめるように少女は言った。
「……でも、男が赤いランドセル持ってたら、からかわれると思う」
「なんで」
「オカマって言われる。たぶん」
「……そうかもな」
呟いて、羽鳥は公園の時計に目をやった。彼女がちらりとこちらを窺ったのがわかった。時間は七時になるところだった。
羽鳥は立ち上がり、マフラーを外して女の子に差し出した。
「やるよ」
少女は探るようなまなざしで羽鳥をじっとりと見上げた。
「いらなかったら捨てていい。俺は別のが家にあるから」
しばらくじっと羽鳥とマフラーを見比べたあと、少女はそろそろとマフラーを受け取った。
それから羽鳥は何にも言わずに公園を後にした。少女がマフラーをそっとと首に巻いているのも、見なかった。
*
羽鳥と並んで帰り道を歩く。
羽鳥と二人で帰るのは久々で、何を話したらいいかわからずに僕らはしばらく無言だった。まだコートを出すほどの寒さではなかったけれど、時おり服風が身を切るように冷たかった。僕ははだかの両手をずっとスラックスのポケットに突っ込んでいた。
横目で羽鳥を窺って、うつむきぎみに歩く姿に違和感を覚える。いつでも巻いているあのマフラーがないのだ。
「おまえ今日マフラー忘れたの?」
首を縮めるようにして歩く羽鳥に聞いた。頭が重いとでも言うように首を大きく傾げ、あー、と羽鳥は言った。
「なくした」
「……ふーん」
なくした? いつも先生に注意されるまで授業中でもずっと巻いてたのに?
なんとなく釈然としなかったけれど寒くてそれ以上追及するのが億劫で、僕らはまたお互いに黙ったまま駅まで歩いた。
「ちひろ、大学決めたのか」
駅のホームで三十分に一本の電車を待っている時、羽鳥がふいにたずねた。
「決まってない……から、こっちの大学もあっちも両方受けるよ。まあ、そもそも選べる立場じゃないけど……」
冗談めかして言うつもりが失敗して、尻すぼみの言葉が情けなく取り残された。
闇はぐんぐんと迫ってきていた。燃えるような夕焼けが闇に吸い込まれていくのが、線路のかなたに見えた。
「……羽鳥はなんで地元出ようと思ったの」
僕とおなじようにポケットに手を入れて、羽鳥はオレンジと黒のグラデーションの空を眺めていた。雲の流れが速くて、がら空きの首回りがよけいに寒々しい。
「このタイミングを逃すと、一生こっから離れられない気がした。なんか俺、ここにいると周りのいろんなことに引きずられて、自分がだんだん駄目になってく気がするんだ。だから俺はここを出なきゃいけないと思うし、そのタイミングは今しかない気がする」
目を細めて羽鳥は言った。美鳥のことを考えているのかなと、根拠もなく思った。
かつて、羽鳥は双子だった。彼の双子の片割れは中学の時に亡くなった。それまでは身長だって背の順で前から数えたほうがずっと早かったのに、双子が死んだあとその存在を突き放すように羽鳥は急にぐんぐんと背を伸ばして、あっというまに僕を追い抜いた。いつも着ていたアビーロードのTシャツを着なくなった。皮肉っぽく笑うのをやめた。
そう、美鳥が死んでから羽鳥は変わった。僕や他の同級生が矮小で切実な思春期の悩みにぶち当たっている間、羽鳥はもっとずっと先を見据えていた。毎日こつこつ勉強し、推薦を勝ち取り、金を貯めるためにアルバイトを始めた。悩むひまなどないというように、やるべきことを淡々とこなし、着実に前に進んでいるように見えた。
たぶん僕はそんな羽鳥を見ているのが辛かったのだ。停滞する自分が情けなく思えて。
「お前はどんどん大人になるな」
ため息をついて、僕は足元に視線を落とした。スニーカーの先のゴムがすり減っていた。
「おれはたぶん怖いんだ。今地元を離れたら、たぶんもう家族で一緒に暮らすってことはないだろ。家族と離れるのが嫌っていうか、何かを決定的に変えるようなことを決めるのが嫌なんだと思う。いつかはそういう日が来るのはわかってんだけど、先延ばしにしたいんだよ。子供だよな」
口に出してみて実感する。僕は恐れている。何かを自分の手で終わらせてしまうこと。
ホームに電車が滑り込んで、僕らは無言で乗り込んだ。車内は空いていたが、僕らは座らずドアにもたれていた。窓から眺める空はどんどん黒に侵食されていく。
「大人になるってさ、それまで根拠もなく盲信してた何かを――神様みたいなものを現実にぶち壊されて、この世に絶対的なものなんかないって思い知ることなんだと思う。その上で何を信じて生きるのかを見つけるのが、大人になるってことなんじゃねえかな」
空を見つめたまま羽鳥は言った。
「俺も怖いよ。何もかもが変わっていくのが怖い。変わらないものが取り残されて遠ざかっていくのが怖い。俺は早くここを離れたい。たぶん――美鳥がいないから」
そう話す羽鳥の横顔を見て、僕は本当に久しぶりに思った。
美鳥によく似ている、と。
*
日曜の昼。自室のドアがノックされた。珍しいことだ。いやだな、と反射的に思った。
「羽鳥、今度時間作れる?」
ドアを四十五度くらい開いて、そこから母親が顔を出してたずねた。羽鳥は内心、来たなと思った。
「会わせたい人がいるんだけど。急ぐわけじゃないから、羽鳥の都合のいい日でいいんだけど、土日のどこか空いてない?」
母親に交際相手がいることはずっと前から知っていた。いずれその男と再婚するつもりであることも、その時期を、少なくとも羽鳥の大学進学まで待とうと考えていることも。
「バイトがなければいつでも大丈夫だと思う。そっちの都合のいい日を言っといてくれれば空けとくから」
「じゃあ、来月の一番はじめの日曜日空けといてくれる? それくらい先ならバイトの融通もきくでしょ?」
「大丈夫、空けとく」
お願いね、と言って母親は扉を閉めた。
羽鳥は物置と化している二段ベッドの下段を見つめた。死んだ双子の使っていた赤いランドセルが、隅の方に置かれている。自分がいまどんな顔をしているのか、さっぱり見当がつかなかった。
時はどんどん流れていくし、あらゆることは変化しつづける。これから俺は、自分だけでそれに対応していかなければならないし、そのためには大人にならなければならない。羽鳥はすでに自分の神様を失っている。大丈夫、俺には大人になる資格がある。
羽鳥は上着を羽織って、家を出た。
休日の昼間なだけあって、公園は子供と保護者でにぎわっていた。その中で羽鳥は明らかに浮いていたが、気にせず公園内を見渡した。目当ての人物は見つからない。
人が集まっているところに交じっているとは思えない。ひとけのない方に目をこらすと、藤棚の下の日陰に赤いランドセルが見えた。ずんずん近づいて、草をむしるランドセルに声をかけた。
「今日は学校ないだろうが」
西本あかねは半分だけ振り返り、すぐにまた背を向けた。
二人がこうして会うのはもう何度目だろうか。二度目に会ったとき彼女は羽鳥に年齢を聞いた。三回目に名前を教えてくれた。同じに日に、父親が帰って来なくなって家には母親しかいないとあかねは言った。
彼女は二回に一度は同じ服を着ていた。いつもランドセルを背負っていた。そして、羽鳥があげたマフラーを巻いていた。
「家においといたら捨てられちゃうかもしれないから」
あかねの左足には痣があった。ずっと治らない痣。彼女はそちらの足を少しだけ引きずるように歩くのだった。
西本あかねは母親から虐待を受けていた。羽鳥はそのことをもう知っているし、あかねも羽鳥が知っていることを知っていた。
雑草を抜いているような動作をしているが、日陰のその場所に雑草はほとんど生えていない。あかねは素手で土を掘り返していた。爪に土が入って真っ黒になっていた。
「なあ。宗教ってわかるか」
「……神様を、信じること」
「なにか信じてるものがあって、それを信じることが生きる支えになるなら、それはもう立派な宗教なんだ。お前に神様はいるか?」
あかねは昏い目で羽鳥を見た。日の当らない藤棚の下は日なたよりもずいぶん温度が低い。長く居座るにはここは寒すぎる。
「ある宗教で花、人間の本質は魂にあって、肉体はその入れものにすぎないんだ。普段感じる痛みだとか空腹だとかは表面的なもので、本当に大事なものは魂にある。だけど魂は肉体に縛られて自由には動けないんだ。わかるか?」
「……どうすれば、自由になれるの」
「生きてるうちは肉体を捨てられない。一度死ねば、肉体から解放されて魂は自由になる」
泥のついた爪を噛んであかねはうつむく。しきりにまばたきして、体を前後にゆする。
「……体じゃなくて、その中にある魂が本当の姿ってこと?」
「おまえがそう思うなら、そうさ」
羽鳥は立ち上がって、あかねに背中を向けた。ずいぶん体が冷えてしまっていた。
何が正しいのか? 善悪など羽鳥にはわからない。
信じているものだけが、真実だ。
*
『十二月十一日、○○県○○町で、小学五年生の娘が自宅で母親・西本加奈子さんを包丁で刺す事件が発生した。
血まみれの状態で家の前に座り込んでいた娘を近隣住民が発見し通報。すぐに病院に搬送されたため、重傷だが母親の命に別状はないとのこと。
警察の聴取に対して娘は、「これは本当の母親ではないと思った。肉体を殺して母親を解放しようと思った」などと話しているという。
西本さんは夫と離婚しており、娘と二人で暮らしていた。娘は西本さんから日常的に虐待を受けていた可能性があり、容体が回復し次第事情聴取が行われる予定とのこと――。』
*
近所で殺人未遂事件が起きた。小学五年生の女の子が母親を包丁で刺したというのだ。狭い田舎のことだから、噂はあっという間に広がった。それは以前から近所で虐待が疑われていた女の子で、僕も何度か見かけたことがある。いつもずいぶん遅くまで一人で公園にいた。痩せた小柄な子で、七、八歳だと思っていたからニュースで年齢を知って驚いた。赤いランドセルがやけに大きく見えたのを覚えている。
実を言えば、僕はその子が警察に搬送されるところを目撃していた。シーツのようなものをかぶせられた小さな子どもが覚束ない足取りでパトカーに乗り込む。その一瞬、僕は見た。彼女の手が、しっかりとマフラーを握りしめていたのを。遠目からでもわかった。それはグレーに紺と赤のラインが入った、高校生がよく持っているような、使い古されたタータンチェックのマフラーだった。
羽鳥だ、と思った。羽鳥が、あの少女にマフラーを渡したのだ。ダッフルコートの袖をつかむ。やけに寒かった。
羽鳥が、羽鳥が。そればかりが頭を渦巻く中、僕は家に帰った。
それからしばらく後に、その子が決してマフラーを手放さないという噂を、聞いた。
翌日は雪が降った。
年内最後の登校日、僕と羽鳥はまた下校が重なった。
無言のまま歩く。羽鳥の首には、もう新しいマフラーが巻かれていた。温かそうな、まっくろのカシミヤのマフラーだった。
「……こないだの事件のこと、知ってる、よな? 五年生の女の子が母親を刺した事件」
事件のあった少女の住む新興住宅地も僕の家も羽鳥の家も、同じ町内にある。羽鳥が知らないはずがなかった。
羽鳥はなにも言わない。
「やっぱり虐待があったらしい。事件の時も栄養失調気味だったって」
「それで?」
羽鳥は立ち止まり、無機質な目で僕を見た。
「……子どもの虐待事件って、悲しいなと思って。親のことを盲信してるから、どんなにされても反抗したり、離れたりしないんだろ」
「信じること自体が悪いわけじゃない。けどそれが不幸の種になることもある」
「……母親が、あの子にとっての神様だったのかな」
「さあね」
興味ないと言うように羽鳥は歩き出す。
僕は、少女がすがるように羽鳥のマフラーを握りしめていたのを思い出していた。
僕は羽鳥に聞きたかった。あの子の神様をぶち壊して、今度はおまえがあの子の神様になったんじゃないのか?
ゆっくり歩く背の高い後ろ姿に僕は聞いた。
「……羽鳥の、羽鳥の神様は、なんだった?」
少しだけふり向いて、透きとおった目で僕を見て、羽鳥は言った。
「赤いランドセル、かな」
<了>