わがまま
高浜友子の葬儀に参列する気になったのは、単に心の整理がついたからとか、クラスメートからの連絡があって世間体にどうのこうのという理由からではなかった。ただ、体が勝手に動いた……そんな感じだった。
その日は、雲が多いはっきりしない空模様で、春の午後にしては今にも雨が降ってきそうな、否応無しに心が滅入る、そんな日だった。
妙に面白く聴こえる僧侶の読経が俺の胸に枯れた風を送り込んだ。
一同は黒の喪服に身を包み、時折鼻を啜ったりしながら、しんみりとした表情で首を垂れていた。ここにいる全員のうち、いったい何人が友子の死を悲しんでいるのだろうかと、ふと心の中で思った。
いつか、友子が言ったことがある。「人が死んだことに対して泣くのではないのよ。残された自分がかわいそうだから人は悲しむの。」
その時は、あまりにも刹那的すぎて、少し友子のことがかわいそうになった。しかし、その友子は、今はもういない。
いったい何のために生まれ、何をするために生きて、何をはたして死んでいったのだろうか…。そして、友子はその短い生涯のなかで、いったいなにを見たのだろうか。
涙は枯れた。友子を救えるのは自分しかいないという愚かな思い込みをしていただけに、その反動はものすごい爪痕となって、俺の心の中に深い傷を創った。
長い読経に間に友子の遺影を何度も見た。
屈託のない笑顔はいったい誰に向けられていたのだろうか。少なくとも最近は友子のあんな笑顔を見た記憶がない。
思えばそれこそが信号だったのかもしれない。そんなことが頭をよぎった。
去年の春、高校の同窓会で友子と十年ぶりに再会した。
「元気でやってるか?この文学青年め!いや、中年か?」
左手に水割りのグラスを持って、俺の目の前に現れたとき、なぜだか知らないが目に熱いものが込み上げてきた。友子はバッチリと化粧を決め、着ている服も派手だったが、目は昔の友子のままだったのだ。
「おめでとう友子。結婚式にいけなくてごめんな。」
そういった俺に、友子は厳しい表情で「その話はしないで!」と言った。
その顔は、高校の頃には見られなかった顔だった。
「ところで、この後、何か予定ある?あるとは言わせないけどさ。」
先ほどの表情は、もう消えていた。
「ああ。二次会のことだろ?ばっちしつきあうよ。みんなと会うの、久しぶりだしさ。」
そう言うと、友子は、「ばかね、いい歳して、みんなとつるんでみたいわけ?子供ねぇ相変わらず。」
「なんだよ、じゃあ、どういう意味なんだよ。」
「久しぶりなんだから、二人で、二人だけで呑みたいのよ。いけない?」
「え〜?」
俺は、半ば呆けて、半ば疑惑を込めて友子を見た。
そんな俺に友子は、まるでいたずらが見つかってしまった子供のように舌を出して、「深い意味はないのよ。」と言った。
やがて、時計の針も十二時近くを差し、二次会へ行く者、家へ帰る者、何処かへと姿を消す者と、みなそれぞれに散っていった。
俺と友子は、何だかんだと理由をつけて、二次会の誘いを断り、どうにか同じ方向へと進むことができた。
ようやく落ち着いたのは、俺のアパートから近い場所にある、大衆居酒屋で乾杯をしたときだった。
友子はビールのジョッキを高々と挙げ、俺の倍のピッチで飲み干していく。相も変わらぬ酒豪ぶりは、高校を卒業した後も健在だった。
「悩み事か?やけ酒ってのは女の価値を下げるぞ。」
たいして、根拠のある言葉ではなかったが、友子は微かにうなずいた。
そんな気がした。友子は昔から、何か辛いことがあると、それを隠そうとわざと明るく振る舞ったり、たいして興味のないくだらぬことに熱中したりしたのだった。
「美森にはわかっちゃうみたい。でも、あたしがピンチのときには必ずそばにいてくれたっけな。」
少し頬を紅くした友子は、昔の言葉づかいに戻ってそう言った。
「こんなことは今日だけだよ。美森の顔を見たら急に泣けてきちゃってさ。」
高校の頃、友子と俺は隣同士の席だった。友子はその頃から充分に美しく、多くの男共に怨まれもしたが、俺達の間には、いわゆる恋愛関係というものはなかったし、また、そのようなものが芽生える可能性はお互いにないだろうと思っていた。
人に聞かれるたびに、「ただの友達。」とだけ答えていた。面倒くさかったからだ。
実際、お互いにテストを見せ合ったり、弁当を分け合ったり、放課後寄り道したりする程度のことで、お互いに意識したことはなかった。
ただ、友子は俺の一番の理解者であったし、俺は友子にとっての一番の理解者であったつもりだ。
「本当に懐かしいよな。高校を卒業したの、ついこの間みたいだもんな。」
「何しみじみ語ってんだよ。もう酔ったのか?」
「ねぇ、憶えてる?ラブレターのこと。」
「忘れる分けねぇだろ。おれは、おまえが悪いんだ。」
「うん。いまでもそう思う。」
高校3年のとき、当然というか、今更というか、友子はラブレターをもらった。
差出人は当時風紀委員をしていた守山という男だった。
守山は硬派の人で、剣道にひたすら打ち込んでいた奴だった。
その守山が、何を思ったか、友子にラブレターを出したのだ。今なら直接申し込むか、電話で済ませるところを、延々と便箋に十枚もの思いの丈を綴り、それを友子に渡したのだ。ひどく時代がかった奴だと思ったが、根が真っ直ぐで正直な奴だと思った。しかし、友子はそんな守山の心情を知ってか知らずか、「なに?小説かと思った」といって、俺に見せたのだった。
友子には深い意味はなかったと思う。ただ、俺に見せたかったから見せたのだろう。しかし、俺はそんな友子を許せなかった。思い切りではないにしても、俺は友子をひっぱたいた。守山の気持ちを踏みにじったように思えたからだ。断るにしろ承知するにしろ、きちんと誠意には誠意で返すのが正しい人の道ではないかと諭したとき、始めて友子は俺に、「ごめんなさい。」と謝った。
俺は後味が良くなかったが、そう沈んではいなかった。なぜなら友子は頭のいい子だから充分に俺の気持ちなんて察していると思ったからだ。
その上で深く反省の意を表しているのは、やはり友子は尊敬に値する人物であった、という安心感を俺に与えてくれた。
「ねぇ。憶えてる?」
鈴の鳴るような声で友子が語るのを聞いていると、高校のあの頃のままなんじゃないかと思えてくる。
小さい柵はあったけど、何の打算も計算もない、ただ胸一杯の希望と数え切れないほどの夢を見続けていたあの日に戻れるんじゃないかと錯覚してしまう。
ふと、目を覚ますと、教室で先生が黒板相手に一生懸命に古文の解説なんかしてたりして、友子は「どうしたの?」って顔つきで俺を見る。俺は「いやな夢を見ていた。」って、言い返し、再び戻ってきたこの現実に、心地よい空間に、心から安堵するだろう。
しかし・・・。
「ねぇ。美森。どうしたの?」
友子は訝し気に俺のことを見つめていた。
「いや、ちょっと酔ったみたいだ。昔のことを思い出していた。」
「どんなこと?」
「いや、たいしたことじゃないんだ。授業中に居眠りしていた夢さ。」
俺は少し感傷的になっていた。
「あの頃のままでいられたら、どんなに楽しいかってね。ふと、思ったのさ。」
「えー!それってへんだよ。美森の口からそんな言葉が出てくるなんて。わたしは、美森ってちっとも変わんない奴だと思ってたのに。」
「あほ。俺だって成長するんだよ。」
子供みたいな奴と言っているようなものだ。口の悪さは昔と変わらないらしい。
「でもさぁ。」
友子が意地悪な目をした。
「美森まだ書いてんの?小説。」
「書いてますよ、時々ね。」
「なに?まだ書いてんの?!いいかげん、芽の先だけでも出しなさいよ。」
「いいじゃん、昨日今日に芽が出るようなものじゃないんだから。」
「今度、わたしに見せてごらんなさいよ。バッチシ批評してあげるからさ。」
友子はまるで俺の反応を見て酒のつまみにでもしてるんじゃないかと思うくらい、愉快そうに口元をほころばせ、カクテルやワインなどをガンガン呑んでいる。
俺は反撃のチャンスを伺っていた。
「だめだよ、いつか売り物にするんだから。それよりさ、おまえも結婚して一年ちょっとだろ?ガキはできたのか?いてもおかしくない歳なんだから、お互いに。」
反撃のカウンターパンチを決めたと思ったとき、友子の表情が変わった。
ふいに、何というか、そう、能面の如く無表情になってしまったのだ。
端整な顔立ちの美人であるが故に、それは一層の迫力を増して、俺の目に映った。その時の俺は、ひょっとしたら恐怖さえ感じていたかもしれない。それほどまでに顔色が変わる何かを俺は言ってしまったのだろうか?ひょっとして、家庭に不和でもあるのだろうか?
「どうしたんだ?酔っ払ったのか?吐くなよ。」
辛うじて誤魔化そうとした。
効果はてきめんだった。
友子の表情が目にみえて和らいできた。
「トイレ、向こうだぞ。」
「バカね、そんなに呑んでません。」
「そうか。」
「いいなぁ、美森君は。夢を追いかけて生きてるって素敵ね。わたし、すごく羨ましいなぁ。」
グラスに半分ほど残ったワインを見つめながら、友子は遠くを見るように語った。
友子はいったい何を見ているのだろうか。
俺にはわからなかった。ただ、まわりの喧騒が、異様なほど遠くで聞こえていた。
店を出た俺達は、駅に向かってのろのろと歩いていた。
友子は何か言いたそうだったが、結局は何も言わず、バックをぶらつかせて、ただ黙って歩いていた。
俺は俺で、友子はどうしてしまったのか?ということを聞くにきけず、両手をズボンのポケットに突っ込んだまま歩いていた。
駅に着くと、友子は、「今度、電話していい?」とだけきいてきた。「もちろんかまわないよ。いつでもどうぞ。」と答えると、友子は「ありがとう。」と笑顔で言い、お互い別方向の電車に乗り込んだ。
別れ際、友子が笑顔で手を振っていたのが印象に残った。
帰りの電車の中で、能面の表情のような友子と、笑顔で手を振っていた友子と、いったいどっちが本当の友子なのだろうかと考えた。
単純に答えが出るはずもなく、俺は車窓から夜の街をただ漠然と眺めていた。
話としては、結局、何一つとして出なかったが、友子が言い淀んでいたことについては、友子が友子なりに何か考えがあってのことなんだろうから、まだ俺が出る幕ではないのだろうと勝手に納得した。
友子の手に余るような問題なら、一人で抱え込まずに相談するに違いない。〈誰〉かはわからないが、俺は候補のうちの一人なんだと思った。なぜなら、お互いにあの頃から過ごした時間は、短くはないはずだから。
彼女の夫が浮気をしていると、彼女から聞かされたのは、同窓会で会った日から数えて、三回目の時だった。
「最初はやけに帰りが遅かったり、出張といって家を空ける回数が多くなったのよ。変だと思って会社に電話したら『もう帰った』とか、『出張は昨日で終わって、今、退社した』とか。そのうちに、もういいやって思ってなにも云わなくなった。お互い、たまに顔を合わせても『久しぶり』みたいなことしか云わなくなって、そうなると、もうだめだなぁって一人で考え込むことが多くなってきた。あの人もあの人で、なにも弁解しないし、当然、会社に電話したこととか知っているわけだから、そのことについても全く反応しないし。」
春の暖かい日差しには似合わない話だった。
いつも元気で、エネルギーが満ちあふれていた頃の友子を知る自分としては、今の友子の姿にショックを隠せなかった。
しかし、今はこんなことは問題ではなかった。一刻も早く、昔の友子に戻ってほしいと願っていた。この世の誰よりも強くそう思っていた。そのためには、俺はどういう役回りをこなせばいいのか、それだけを考えていた。
「なんだか変ね。こんなこと人に話すの初めて。やっぱり美森だと何でも話せる。」
肩先にこぼれる髪を指ですくいながら友子は遠い目をした。
俺はそんな友子を見るのに耐えられなくなって、思わず足下の地面を靴の先でほじくり返していた。
あまりにも生々しい、まるでドラマか映画のような話に、俺の心がついて行けなくなったのかも知れなかった。それほどに心の奥深い部分に傷を負ってしまったのだった。
たまに発せられる友子の乾いた強がりは、よりいっそう悲しみを誘うようだった。
「友子は、その・・・、だんなさんのこと、まだ好きなの?」
やっとの思いが口から出た。彼女の心を乱すつもりではなかったが、どう話を切りだしていいものか、わからなかった。
「さぁ、わからないわ。いまはただなんとなく、ただそこにいるだけ・・みたいな感じかしら。」
かわいらしい唇から発せられた言葉は、幾星霜を重ねた老婆が世を語るのに似ていた。
「とにかくさ、今は元気出して、これからのこと考えようよ。別れるにしろ、やり直すにしろ、ひとつひとつ解決していかなきゃ。最後の踏ん張りは体力がものを云うんだから、元気出して。今のままじゃ何にも出来やしないよ。」
(このままじゃ友子が可哀想すぎる。)
そう言いかけて言葉を飲み込んだ。
それを云ってしまったら、友子が可哀想だと思ったから。
「飯でも食って、体力つけるか!」
俺は立ち上がった。この雰囲気を打ち消したかった。
「私が作る。美森唐揚げ好きだったよね。」
高校時代、弁当のおかずはいつも唐揚げだった。
同じ唐揚げでも、友子の家の唐揚げと、うちの唐揚げの味が微妙に違ったのを、今でもはっきりと覚えている。
カレーと同じように、その家庭ごとに好みにあった味が存在するということを、その時初めて知った。
「俺のアパートの近くに、安くて品揃えのいいスーパーがあるから、そこへ買い出しに行こう。」
「だめよ。ちゃんとしたお店で買わなくちゃ。」
うっすらとだが友子の微笑みが見えた。
がんばれ友子。
こんなことでくよくよするな。
春の日差しのなか、俺は強く思った。
その夜、友子は俺の部屋で一夜を明かした。
俺は格好悪くも、彼女をベッドで寝かせ、自分は畳に布団を敷いて横になった。
夜半から降り出した雪のせいか、音という音はいっさい聞こえない。
ただ、雪の降る音だけが鼓膜を通り越して心にまで響いている。
俺は真剣になって自分に言い聞かせていた。
友子は友達なのだと・・・・。
学校の帰り道、鞄持ちをしたり、少し寄り道をして一緒に遊んだりした友達。
授業中にマンガを回し読みしていて、先生に一緒になってお説教をくらった仲間。
そう思わずにはいられなかった。いや、そう思うことで俺は理性を保ちたかったのだ。
かすかに友子の気配が動いた。
「眠れないのか?」
そういった俺に、友子は静かに歩み寄ってきた。
パジャマの替わりに着せてやったTシャツが、外の雪灯りに照らされた時、友子は俺の腕を取った。
俺は黙っていた。しかし友子はかすかにうなずいた。しばらく時間が止まったように、お互い動かなかった。
そして、おもむろに友子は首を振った。
「ちがうの。昔のこと、全部嘘になりそうでとうとう云えなかったけど・・・・美森、好きよ。」
あるいは、友子は嘘を言ったのかも知れない。でも、俺はそのとき友子のことをとても愛しく思っていた。ひょっとしすると、昔からそう思っていたのだろうか?
闇夜に浮かぶ友子の顔はとても美しかった。
白磁のような白い素肌に、おぼろげな細い肩の線。すべては妖しく幻想的で、夢の中の出来事のように思える。
かすかな友子の息づかいが、これは現実なんだということを認識させてくれる。
お互い、もう子供ではなかった。
クスクス笑う友子。いたずらっぽく舌を出す友子・・・・・・すべては昔の出来事だった。
「ごめん。しばらく手を握ってていい?」
お互いの体温を肌で感じながら、子供っぽいことを友子はいった。
返事の代わりに、友子の手を一瞬だけ強く握り返した。
軽く友子の頬を撫でると、涙の感触が指先に残った。
「悲しいのか?」
「ううん、よくわからないの。」
友子はそう呟いて目を閉じた。
眠りに誘われる感覚のなかで、俺は引き返すことのできない道を辿ってることを自覚した。そして、よりいっそう友子のことが愛しくなっていた。
雨から雪に変わった冬の夜、友子はやってきた。
みぞれがそぼ降る中、中途半端な寒さが、吐く息さえも白く凍らせそうな夜だった。
「泊めて。」
友子は一言、そういってスニーカーを脱いで部屋へと入っていった。
白いパジャマの上に黒のロングコートを羽織っただけの姿は、友子の身に尋常でないことが起こったことを感じさせる。
「友子、シャワー浴びてきな。体が冷えきってるぞ。」
友子は黙ってうなずいて、バスルームへと姿を消した。
俺は着替えを用意して、友子が出てきた時を見計らって熱い紅茶をいれてやった。
「え〜と・・・、無理にしゃべらなくてもいいよ。まぁ、人生いろいろあるさ。でも、どんなことがあっても俺は友子の味方だから。」
紅茶のカップで手を暖めながら、友子は一粒の涙を流した。それは、この世のどんな宝石よりも貴重に、そして美しく思えた。
「美森、ありがとう。」
そういって友子は俺の肩に体をあずけてきた。
俺は努めて優しく友子の涙を拭った。そして、その涙のあまりの冷たさに驚いた。
エアコンはガンガンに温風を送り込んでくる。しかし、友子の体は冷たかった。
濡れた髪を優しく指ですいて愕然とした。よっぽどのことがあったのだろう。友子の体はかすかに震えていたのだ。
目が少し腫れていた。そして、鼻をすすっては、また大粒の涙をポロリとこぼす。しかし、それでも友子は美しかった。
どこか常人ではない美しさを見たような気がした。
「美森は、私のこと一番理解してくれているのね。」
「あたりまえだろ。なにしろ俺と友子はつきあいが長いからね。」
適当に、しかし素直にそう言うと、友子の顔に笑いが浮かんだ。
「あのころに戻りたい。」
囁くように友子はいった。切実な願いのようだった。もちろん、俺も強くそう思った。
(あのころに戻って、友子と一緒にすべてをやり直したい・・・。)
過ぎたるを思うは、世の常なのか。過ぎ去った日々を思う度に、現実から逃れたいという欲求の現れなのかと思う。
戻れないとしても、ずっとこのままではいられないのだろうか?
今の、この瞬間を永遠に保ち続けたいというのは不可能なことなのだろうか?
なんだか、ずっとこのままでいられる気がした。
夜さえ明けないような錯覚を起こしていた。
翌日、一面の銀世界が広がる中、友子は帰っていった。
今にして思えば、友子を帰すべきではなかったのだ。
妙に現実離れをした友子の横顔を、俺はただ見つめていただけだった。そのとき友子は、あるべきはずの安息を、夢の向こう側に見ていたのかも知れない。
現実離れした夢のような夜は、友子の最後の決意を物語っていたことを、俺は気が付かなかった。
そして、その日の午後、人事のように、友子が自殺したということを、高校の時のクラスメートが連絡してきた。
出棺の時、友子の顔を見た。
あの夜の顔と同じような感じがした。
端整な顔立ちは、死してなお美しく・・・、いや、死してよりいっそう美しく見えた。生々しさがなくなり、あたかも名匠の手によって作り出されたアンティック・ドールのように、隙のない顔だった。
『彼女はいったいなにを思い、そして、なにを見たのだろうか?』
そのときの、俺の率直な疑問はそれだった。
霊柩車が去った後も、俺の心には友子が死んだという、単純にして明快な現実を受け入れることができなかった。
「友子は死んだんだ。」
もう何百回と言った言葉。友子の死と直面する勇気・・。
アパートのドアをあけて、「今日はカレーだよ。」といって、いっぱいに抱えた紙袋から、玉葱やジャガイモをとりだして、「美森はニンジン嫌いなんだよな〜。」とかいって笑う姿が見られるような気がして・・・・、ふと気づくと、友子は死んでしまったんだと自分に言い聞かせ、現実に戻ってくるのだった。
蛍雪が照らす夜に、彼女の言った言葉を思い出した。
「美森って、いつも・・・いえ、いつまでも子供みたいね。あなたの心の中には、打算とか、妥協とか、そう言う大人たちが持っている物がひとつもないのが、私には眩しすぎるわ。そんなあなたを見てると、私はとても自分が惨めになるの。でも、ねぇ美森。いつまでも変わらないでいることはとても難しいけれど、そのままの美森でいて欲しいと思うのは、私の勝手なわがままかしら?ねぇ、美森。そのままのあなたでいることが、私にはひとつの希望のように思えるの。」
独り言のように云った彼女は、もう、この世にはいない。
《終》