淡い腕時計
ある日の暮れ方のことである。私の左手首には、数日前に紛失し、先ほど交番で奇跡的に「回収」してきたはずの腕時計が収まっていた。
それは、いかにもお高そうな金色の針を内包した、淡い赤色の時計である。
六年前、名も知らぬ異国で非業の死を遂げたという、かつての恋人が遺した唯一の思い出のかけらであった。
警察官は、私が語る時計の特徴があまりに正確であることに気が付いた。そして何度か声をかけてくれたあと、疑問の余地なく私にそれを引き渡した。
思ったより交番に居座り続けたらしい。家路を急ごうとしたが何かが引っかかる。それは名付けようのない不気味な違和感であった。
「あーさむっ」
風が体に当たって私を追い越していった。
指先でなぞる留め具の古傷、肌に触れる冷たい金属の錆びれ具合、それらは確かに私の記憶の片隅に絶対残っているものである。それなのに、この時計は私の左手なのに他人の左手にはめられたような生理的な拒絶反応を私に示していた。
「私は本当に、この時計と時間を共にしてきたのだろうか」
家に着き、鍵を開けて薄暗い室内に入る。
私は逃れるように時計を外し、よく見慣れた机の上に置いた。
指で久しぶりに帰ってきた時計をぐりぐり触って何か充実感を味わっていた。
短い針は、正確に午後六時を指して静止している。
「もう六時か、今日も忙しくてご飯食べられてないや」
電池はとうに切れているのだろうか。いや、切れているのではない。この時計の中の時間は、六年前のあのときにすべてを止めてしまった。もうそのころのことなんて覚えてはいない。
そのとき、静寂を切り裂いて、玄関の扉がコン、コン、と音を立てた。
この不況の時代、わざわざこんな時間帯に訪れる者はろくなものではない。私はリビングの半開きの窓から、そぉっとその人を覗いた。
そこに立っていたのは、私と同年代ほどの若い男であった。服は泥に汚れ、髪は乱れ、お世辞にも上品とは言えない格好をしている。
「ちょっとうかがいたいのですが、ここは私の家ではなかったでしょうか?」
彼は私を知っている者なのであろうか。この家はもとより私と彼がお金を出し合って作った家である。
「あら、どなたでしょう?」
彼の顔が一瞬にして曇る。そして少しイライラした口調でこう述べた。
「ともかく。こちらが私の家でないとお考えなら、それを証明していただきたいのです」
「まぁ……」
私が何も言えないでいるのを見て男は続けた。
「証拠がないなら、私の家だと考えてもいいわけですね。」
「でも、ここは私の家ですわ」
「それがなんだっていうんです?あなたの家だからって私の家でないとは限らない。そうでしょう。」
私はただ立ち尽くすしかできなかった。何か嫌なものをぶつけられた感覚だ。無性に腹が立つのと同時に、底知れぬ恐怖が足元から這い上がってくる。私は会話を拒絶するように、ガシャリと音を立てて窓を閉め、鍵を掛けた。
部屋の中心に取り残され、私は荒い息を吐きながら辺りを見渡した。
見慣れた調度品、片付けの残っている汚れたキッチン、脱ぎ捨てられた衣服。ここは確かに私の生活の部屋だ。しかし、この空間のどこを探せば、「これが私のものである」という絶対的な証拠が見つかるというのか、私にもよくわからない。
そうだ、記憶だ。私には、彼との思い出がある。
私はふと机の上の時計を見た。
これは彼から貰った誕生日プレゼントだ。私は彼を愛していた。
彼は、どこで死んだのだったか。……海の見える異国の街だったか。いや、日本の、どこか別の都市だったかもしれない。
この時計を買ってもらったのは、海にデートへ行った時だったか、それとも、この部屋の明かりを消して、二人きりで祝った時だったか。
「いつだっけ……?」
呟いた私の声を聴く者などいない。
凄まじい焦燥が私を襲う。私は、彼という人間の声も、顔も、もはや正確に思い出すことができない。思い出せないのではない。最初から、そんな人間は存在しなかったのではないか? 私は、誰の死を悼み、誰のためにこの家を守ってきたのだ?
この時計の傷も、この家の存在も、それを証明する背後の記憶がすべてなかったことかもしれない。
私は耐え切れず、時計を握りしめて夜の街へと飛び出した。
電柱の冷酷な光が、狂ったように走る私の影を見つめる。
すまない、私の知っているはずの彼よ。あなたは私の中で生きていると思っていた。しかし、あなたと共にいた「私」とは、一体どこの誰なのだ。私は、あなたのなんだったのだ。
気づけば、私は再び交番の前に立っていた。
自動ドアが開き、昼間と同じ警察官が、不思議そうな顔で私を見つめる。
私は、ぎこちない動作で、受付のカウンターに淡い赤色の時計を置いた。
「落とし物を見つけたんです」私は、自分でも驚くほど平坦な声で言った。
警察官は目を見開いた。
「おや、これは……先ほどあなたが『自分のものだ』と言って持っていかれた時計ではありませんか?」
私は何も答えず、ただ、自分の左手首を警察官の目の前にゆっくりと突き付けた。
長袖の袖口を押し上げ、剥き出しになった腕を晒す。
警察官の顔から、血の気が引いていくのが分かった。彼は、私が差し出した腕を、凝視し、椅子をガタガタと鳴らして後退りした。その口から、引き攣った短い悲鳴が聞こえる。
つられて、私の視線も己の左腕へと落ちた。
そこには、すでに皮膚はなかった。
街灯の光を反射して怪しく光るのは、あの時計のボディと全く同じ、おぞましいほど均一な、淡い赤色のプラスチックだった。
いや、それだけではない。手首の皮膚の下で、無数の小さな歯車が蠢き、肉を噛み締めながら噛み合っているのが透けて見える。
感覚は、もうない。
ただ、肉体が内側から硬質な機械へと作り変えられていく、カチ、カチ、という虚しい秒針の音だけが、私の鼓膜を容赦なく震わせていた。
私はこれ以上、警察官の引き攣った顔を見るに耐えず、交番を飛び出した。
夜の街は、暴力的なほどに明るかった。整然と並ぶ家々の窓から漏れる灯りは、どれも温かく、それゆえに徹底して私を拒絶していた。あの灯りの下にある生活は、すべて本物なのだろう。
しかし、私の家は? 私の肉体は?
私は自分が帰るべき、本当の「贋作の家」を探して、灯りのない暗い細道を、カチ、カチと音を立てながら、永久に歩き続けるのだ。




