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第2話:理由のない違和感
夜の静けさが、やけに耳に残る。
玄関の扉を閉めた瞬間、外の空気が遮断される。広すぎる家の中は、いつも通り音が少ない。
靴を脱いで、廊下を歩く。
足音だけが、やけに響いた。
「……ただいま」
返事はない。
分かっていることなのに、なぜか言葉にしてしまう。
リビングを通り過ぎ、作業部屋へ入る。机の上には、さっきまで使っていたタブレットとペン。開きっぱなしの資料。冷めたコーヒー。
全部、さっきのままだ。
椅子に腰を下ろす。
画面に映る未完成のコマを、ぼんやりと見つめる。
線が、気に入らない。
何度も描き直したはずなのに、どこか違う。
ペンを手に取る。
画面に触れる。
――動かない。
さっきまで、あんなに焦っていたのに。
今は、ただ。
(……なんで)
指先に力が入らない。
代わりに、思い出す。
コンビニの前。
慌てた声。
ぎこちない手。
何度も言い直していた言葉。
「……変な人」
ぽつりと呟く。
なのに。
(なんで、こんなに)
気になるんだろう。
タブレットの画面を消す。
真っ暗になった画面に、自分の顔が映る。
隈が、はっきりと分かる。
「……最悪」
軽くため息をついて、椅子にもたれた。
そのとき。
「先生、起きてます?」
ノックもそこそこに、扉が開く。
「……結衣」
三上結衣が、顔を覗かせた。
「電気ついてるからまだやってるのかと思って」
「やってない」
「やってないんですか」
「無理」
短く答える。
結衣は少しだけ目を細めて、部屋の中を見回した。
「珍しいですね。止まるなんて」
「止まってるわけじゃない」
「じゃあ何ですか」
「……分からない」
そう言うと、結衣は小さく息を吐いた。
「締切、明日ですよ」
「分かってる」
「イベントもありますよね」
「分かってる」
「分かってるって顔じゃないですけど」
図星だった。
何も言い返さないと、結衣は少しだけ表情を緩める。
「で、何があったんですか」
「……何もない」
「嘘ですね」
即答だった。
「先生がこんな顔する時、大体人絡みです」
「……」
「当たってますよね」
否定しなかった。
できなかった。
「……ちょっと、外で」
ぽつりと口を開く。
「具合悪くなって」
「大丈夫ですか」
「それはもう」
「それで?」
促される。
少しだけ、間を置く。
「助けられた」
「へぇ」
結衣の目が、少しだけ興味を帯びる。
「どんな人ですか」
「……普通」
「絶対嘘ですね」
「普通」
言い切る。
でも、それ以上の言葉が出てこない。
「優しかったとか」
「……うん」
「かっこよかったとか」
「それはない」
即答だった。
結衣が吹き出す。
「じゃあ何でそんな顔してるんですか」
「……分からない」
それが、一番正直だった。
何が気になるのか。
どうして思い出すのか。
説明ができない。
「名前は?」
「聞いてない」
「聞いてないんですか?」
「聞いてない」
「相手は?」
「聞かれなかった」
「すごいですね」
呆れたように言う。
「普通、聞きますよ」
「……そう」
「で、もう会えないと」
「……多分」
言いながら、少しだけ胸がざわついた。
「ふーん」
結衣は腕を組んで、少しだけ考えるように黙る。
それから。
「それってまさか、一目惚れですよ」
あっさりと言った。
「違う」
即座に否定する。
「違います?」
「違う」
「じゃあ何ですか」
「……分からない」
また同じ言葉になる。
結衣は小さく笑った。
「それが一番怪しいんですよ」
「違う」
「じゃあ何で思い出してるんですか」
「……」
言葉に詰まる。
「仕事中ですよね、さっきまで」
「……うん」
「なのに止まってる」
「……」
「それ、理由ありますよ」
静かに言われる。
分かっているような顔で。
「……ない」
絞り出すように言う。
「ただ、ちょっと」
「ちょっと?」
「……気になっただけ」
それだけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
「へぇ」
結衣はそれ以上は言わなかった。
ただ、少しだけ楽しそうに笑っている。
「まぁいいです」
そう言って、机の上のコーヒーを持ち上げる。
「これ、もう冷めてますよ」
「いい」
「よくないです」
新しいコーヒーを入れに行くため、部屋を出ていく。
一人になる。
静けさが戻る。
タブレットの電源を入れる。
未完成のコマが、再び表示される。
ペンを持つ。
何を描こうとしていたのか、一瞬分からなくなる。
それでも、手は止まらなかった。
するりと、線が走る。
輪郭。
目。
少しだけ困ったような表情。
気づいた時には、そこに“顔”があった。
「……あ」
思わず、手が止まる。
(……なんで)
自分でも分からない。
意識して描いたわけじゃない。
なのに。
さっきの“あの人”の顔が、そこにあった。
「先生」
背後から声がする。
びくっと肩が跳ねた。
「なに描いてるんですか」
振り返るより先に、画面を覗き込まれる。
「……あー」
結衣が、納得したように息を漏らす。
「これはだめだわ」
即断だった。
「先生」
トン、と机を軽く叩く。
「仕事、仕事」
「……」
「締切は明日ですよ。急ぎましょう」
現実を突きつける声。
「……うん」
小さく、頷く。
もう一度、画面に向き直る。
さっきまで止まっていたはずの手が、今は自然に動く。
ペン先が、迷いなく走る。
さっきより、ほんの少しだけ。
線が、軽かった。
理由は、分からない。
でも。
完全に止まっていたわけではない。
ほんの少しだけ。
前に進んでいる。
「……なんで」
また、思い出す。
あの慌てた声。
必死な顔。
不器用な手。
――普通なのに。
どこか違う。
その違いが、うまく言葉にならない。
それでも。
――もう一度、会えたら。
そう思っている自分が、いるということだった。




