1
第1話:出会い
仕事終わりの空気は、いつも重い。
時計を見ると、終電まではまだ少しあるが、気を抜けば簡単に逃しそうな時間だった。編集部を出てからここまでの記憶は曖昧で、気づけば夜の街を歩いている。
肩が重い。頭も回らない。
今日も原稿は上がらなかった。
一人ならまだいい。二人でも、なんとかなる。だが、十人となると話は別だ。新人作家のスケジュールは安定しない。締切は守られない。フォローも、修正も、確認も、すべて自分にのしかかってくる。
「……はぁ」
ため息が漏れる。
やりがいがないわけじゃない。むしろ、この仕事が好きでここにいる。漫画が好きで、この世界に入りたくて、編集者になった。
それでも、体は正直だった。
ポケットからスマホを取り出す。
無意識に開いたのは、いつも読んでいる漫画だった。
画面に表示される一コマ一コマに、自然と目が吸い寄せられる。セリフの間、表情の変化、視線の動き。何度も読んでいるはずなのに、そのたびに新しい発見がある。
(やっぱり、すごいな)
疲れが、ほんの少しだけ軽くなる。
気づけば、足は近くのコンビニへ向かっていた。
――同じ頃。
広すぎる日本家屋の一室で、ペン先が静かに画面を滑っていた。
何度やり直しても、納得のいく線が引けない。
目の奥がじんと重い。
「……無理」
小さく呟いて、ペンを置く。
「少し、外に出よう」
玄関を出ると、夜の空気が少しだけ心地よかった。
遠くに見えるコンビニの明かりへ、足を向ける。
――そして。
コンビニの前で、視界が揺れた。
「……っ」
一歩踏み出した瞬間、力が抜ける。
そのまま、崩れるように――
「危なっ!!」
強く腕を引かれた。
勢いよく身体が引き戻される。
「ちょ、ちょっと待ってください!!大丈夫ですか!?え、顔色やばくないですか!?」
息を切らしながら、目の前の男がまくし立てる。
支え方も雑で、力加減も分かっていない。
なのに。
離す気が、まるでない。
「すみません、少し……」
「少しじゃないですよね!?いや絶対無理してますよね!?ちょっと座りましょう、あ、そこ、いやこっちの方がいいか……!」
ほとんど引きずるようにしてベンチまで連れていかれる。
「ゆっくりでいいんで、ゆっくり……ってすみません全然ゆっくりじゃないですよね俺!」
一人で焦って、一人でツッコミを入れている。
落ち着きがない。
でも。
手だけは、絶対に離さない。
ベンチに座らせると、すぐに顔を覗き込んできた。
「水!水いりますよね!?ちょっと待っててください!」
そう言うや否や、コンビニの中へ駆け込んでいく。
(……え)
数秒後、ペットボトルを握って戻ってきた。
「はい、これ!あ、冷たすぎたらすみません!」
キャップを開けようとして、手が滑る。
「あ、ちょっと待ってください今開けます、あれ、すみませんこれ固……いや開きました!」
差し出される水。
「ゆっくりでいいんで、無理しないでください」
その声は、さっきより少しだけ落ち着いていた。
けれど、まだ焦りは消えていない。
「……ありがとうございます」
少しだけ口に含む。
冷たい水が、身体に染みる。
その様子を、じっと見ている。
まるで、自分のことのように。
「顔色、まだ悪いですね……大丈夫ですか?いや大丈夫じゃないですよね」
「……少し休めば」
「休みましょう。全然休みましょう。俺、ここいますんで」
即答だった。
迷いがない。
「え……」
「いや、その……一人だとちょっと心配なんで」
言いながら、視線を逸らす。
でも、離れようとはしない。
(……変な人)
そう思った。
こんなに、必死になる理由なんてないはずなのに。
しばらく、隣に座ったまま時間が過ぎる。
何か話そうとして、結局言葉が出てこない様子で、何度も口を開きかけては閉じている。
「……あの」
「は、はい!」
びくっと肩を揺らして、こちらを見る。
その反応に。
「……ふふっ」
思わず、笑ってしまった。
「……え?」
「すみません」
少しだけ目を細める。
「こんなに慌ててくれる人、久しぶりで」
言葉を失ったように、固まる。
近くで見ると、特別目立つ顔ではない。
でも。
目の下には、同じように隈があった。
(……同じだ)
なぜか、そう思った。
「少し、落ち着きました」
「ほんとですか!?よかった……」
心から安心したように、力が抜ける。
「もう大丈夫です。本当に、ありがとうございました」
立ち上がると、少しだけ名残惜しそうな顔をする。
「あ、はい……気をつけてください」
それだけだった。
名前も、何も聞かない。
ただ、最後まで心配そうに見ている。
軽く会釈をして、その場を離れる。
振り返ることは、なかった。
――はずなのに。
少しだけ、気になった。
外見は特別でもない。
線で描けば、きっとモブで終わる。
――なのに。
この人は、多分。
他の誰とも違う。
そんな予感だけが、やけに強く残っていた。




