第8話 アイビーの過去(アイビー視点)
幼い頃、アイビーはとある町で母と二人、慎ましく暮らしていた。
父の姿は、物心がついた時にはすでになく、記憶の中にもほとんど残っていない。
母子二人きりの生活は、決して裕福とは言えなかったが、確かに幸せだった。
母の優しい声、優しい歌声——。
いつか大人になったら、母の故郷へ行ってみたい。
小さな夢を抱きながら送る日々。
それだけで、世界は十分に満ちていたのだ。
けれど——そんな日常は長くは続かなかった。
母は病に倒れ、看病の甲斐も虚しく、そのまま帰らぬ人となった。
深い悲しみに沈む間もなく、家の扉を叩く者が現れる。
見知らぬ男達だった。
彼らは冷たい声で告げた。父が残した借金があること、この家は差し押さえること。
そうして彼女は、思い出の詰まった家から、無理やり追い出された。
母を失い、さらに住む家まで奪われたアイビーには、行く当ても、頼れる大人もいなかった。
生き延びるために、盗みに手を出した。
胸に巣食う罪悪感と恐怖を押し殺しながら、通りを行き交う人々のから財布を奪う。
そんな綱渡りのような日々を送っていたある日のこと。
運悪く盗んだ財布の持ち主に、その場で腕を掴まれてしまった。
恰幅のいい中年の男だった。
油で撫でつけたような黒髪に、値踏みするような細い目。
分厚い指には、いくつもの指輪が光っている。
殴られるか、衛兵に突き出されるかと身構えていたが——男はアイビーの顔を見て、ぱっと表情を変えた。
「こりゃあ、とんだ上玉じゃないか!」
先ほどまで怒りに満ちていたはずの男は、途端に愛想のいい笑みを浮かべ、抵抗する暇も与えず、アイビーの腕を引いて歩き出した。
連れて行かれた先は、甘ったるい香りと空気が漂う建物——娼館だった。
男はそこを取り仕切る経営者だったのである。
その場所で、アイビーは様々な教養を叩き込まれた。
そこはいわゆる高級娼館で、相手にするのは主に貴族や富裕層だという。
そんな高貴な客人をもてなすには、顔立ちが整っているだけでは足りない。
言葉遣い、立ち振る舞い、歴史や詩歌、音楽の知識。
相手の機嫌を読み取り、望む距離感を保つこと。
もちろん教えられたのは教養だけではない。
男の悦ばせ方も——。
当時のアイビーには、それらが何を意味するのか完全には理解出来なかった。
それでも、不快感はあった。
元々物覚えが良いので、大抵の教養や手管はすぐに覚えることが出来たけれど。
笑顔だけは、何年経っても中々上達しなかった
母を亡くしてからというもの、上手く笑えない。
「君の場合、無理に笑わなくても十分に人を惹きつけられる。だが、たまにでいい。客に微笑みかけるんだ。それだけで、相手は満足する」
男の言葉通り、ほんのわずか口元を緩めるだけで、多くの客は容易く心を許した。
そうして心を殺し、感情を押し込めたまま店で働く日々が続いてから、数年が過ぎた。
ある日、アイビーは一人の貴族に身請けされることとなる。
その人物は店の常連で、以前から彼女を大層気に入っていた男だった。
アイビーは彼の邸へ移され、敷地内にある離れで暮らすようになる。
ほぼ毎日のように身体を求められたが、その代償として、彼の愛人という立場を与えられ、衣食住に不自由のない贅沢な生活が約束された。
少なくとも表面上は、苦しみから解放されたかのように見えた。
だが、その安穏とした日々も長くは続かなかった。
主人である貴族が長期留守にしている間、彼の妻が訪れたのだ。
事情を悟った彼女は激昂し、アイビーに容赦ない折檻を加えた。
全身は痛みと血にまみれ、立つことさえままならない。
このままでは、きっと殺される——。
アイビーは残された力を振り絞り、夜陰に紛れて邸から逃げ出した。
「——お嬢さん、どうしたのかね。そんなに傷だらけで……」
行くあてもなく夜の街を彷徨っていたアイビーに声をかけてきたのが。
当時の孤児院のパトロン、ホール男爵である。
事情を深く詮索することなく、男爵は彼女を孤児院へと連れ帰った。
そこでの暮らしは、母を亡くして以来、アイビーが初めて手にした穏やかな時間だった。
温かな食事。清潔な寝床。誰かに怯えずに眠れる夜。
そんな静かな日々の中に、突如として彼は現れた。
「——ヒュー・ウィンザーだ。……また聴かせてくれ。じゃあな」
落ち葉を巻き上げて一瞬で通り過ぎる木枯らしのような。
あまりにも鮮烈な出会いだった。




