第6話 本音
その後、ヒューは手洗いに行ってくると言い、こっそり花を売っている屋台へと向かった。
「いらっしゃい。何にする?」
店主の男が気さくに声をかけてくる。
「——これを」
ヒューは色とりどりの花が並ぶ中から、迷いなく目当ての一本を指差した。
店主は全てを察したように薄く笑い、赤い薔薇を丁寧に紙で包む。
「まいど。——上手くいくといいな、兄ちゃん」
軽く手を振って店主に礼を返し、ヒューは薔薇を大切に抱えて、アイビーが待つ高台へと戻った。
なだらかな丘の先に設けられた高台からは、村全体を一望できる。
空は夕暮れ色に染まり、茜と金が溶け合うような柔らかな光が、村全体を包み込んでいる。
アイビーは柵に手をかけ、その景色を静かに眺めていた。
風に揺れるドレスの裾、夕日に照らされて淡く輝く髪。
その後ろ姿は、あまりにも美しく、ヒューは無意識に息を呑む。
そっと彼女の隣へと歩み寄り、手にした薔薇が見えぬよう、後ろ手に隠した。
二人の間にしばしの沈黙が流れる。
やがてアイビーがおもむろに口を開いた。
「とても綺麗な景色ですね……。これで最後だと思うと、少し残念です」
その言葉に、ヒューは眉をひそめる。
「……? 行きたいのなら、また来年も連れてきてやる。だからそんなふうに残念がる必要は——」
「申し訳ありません」
言葉を遮るように、アイビーが謝罪した。
突然のことに戸惑っていると、彼女は寂しげな表情でこちらを向く。
「近いうちに、修道院へ行くことが決まりました」
「……え?」
あまりにも予想外の言葉に、ヒューは言葉を失い、思わず隠し持っていた薔薇を落としそうになった。
貴族の娘が修道院へ入る理由など限られている。
何か不祥事を起こしたか、あるいは事情があって婚期を逃したか——そのどちらかだ。
だがアイビーはそのどちらにも当てはまらない。
日頃の素行は非の打ち所がなく、縁談も引く手数多。
それにも関わらず修道院へ行かなければならない理由が、ヒューにはどうしても思い浮かばなかった。
「なんで……」
掠れた声が、微かに震える。
今まさに想いを伝えようとしていた、その矢先の出来事なのだ。
困惑するなという方が無理な話である。
「——誤解なきようお伝えしますが、これは私自身の意思です。……私が、そうしたいと思ったから」
アイビーはそっと視線を伏せる。
「これまで、さまざまな方から縁談のお話をいただきました。ですが……私は元々孤児です。孤児院に入る前は、生きるために、たくさん汚いこともしてきました。——そんな私が、高貴な方の隣に立つなど……」
胸元で指を絡めるようにし、彼女は自嘲気味に微笑む。
その小さな仕草が、ひどく痛々しく見えた。
だが、同時に——。
——今だ。
彼女の言葉を受け、ヒューの胸に確信にも似た思いが芽生える。
ここで「出自など気にしない」「どんな過去を背負っていようと関係ない」と告げれば。
きっと彼女は振り向いてくれる。
自分の隣に、留まってくれる、と。
「アイビー……俺は——」
「……なんて、今のはただの言い訳に過ぎません」
またしても言葉を遮られた。
彼女の口元には自嘲めいた笑みが浮かんでいる。
「本当は……私自身、結婚が怖いだけなのです。殿方と一緒になるのが……」
柵を握るアイビーの手は、微かに震えていた。
その様子を目にして、ヒューはようやく悟る。
自分が想いを告げようとする行為そのものが、彼女にとっては恐怖であるのだと——。
「——……出立はいつになる?」
喉元までせり上がってきた言葉を必死に押し戻し、ヒューは何食わぬ顔で問いかけた。
「だいたい一ヶ月後です。——次の孤児院への訪問を終えた後になるかと」
「そうか……寂しくなるな」
あくまで親しい知人としての立場を崩さぬよう、胸の内に渦巻く恋情を悟られぬように、ヒューは声の調子を保つ。
「お前が旅立つ前に、一緒に来られて良かった。……せいぜい残りの時間も、悔いのないように過ごせ」
「……はい」
アイビーはほんの少しだけ寂しそうに微笑んだ。
やがて帰路につく時間となったので、アイビーには先に馬車へ向かってもらった。
ヒューは一人、高台に残り、沈みゆく夕日をただ眺め続ける。
手の中には、渡すことのできなかった赤い薔薇。
その花びらを一枚、また一枚ともぎ取り、掌に乗せた。
花びらは風に乗り、夕焼けに染まる街並みへと吸い込まれていく。
夕空を舞うその光景は、あまりにも儚く、寂しく、美しかった。
けれど。
次第に情景は滲み、輪郭を失っていく。
それが夕日が目に沁みたせいなのか、それとも胸に込み上げるもののせいなのか、
ヒュー自身にも、もう判別はつかなかった。




