第2話 少年伯爵とアイビー②
一ヶ月後。
ヒューは再び孤児院を訪問した。
馬車を降りた途端、冷たい風が頬を刺す。
まだ雪が降る季節には早いが、空気の芯は確実に冬へと向かっていた。
門をくぐり、建物へと歩みを進める途中。
ふわりと、何かが頭上から落ちてくる。
反射的に手を伸ばし、掴み取ったそれは——一枚のタオルだ。
顔を上げる。
二階のベランダにいる、洗濯物を取り込んでいた途中らしいアイビーと目が合った。
どうやら彼女の手元から滑り落ちたものらしい。
アイビーは一瞬だけ硬直していたが、すぐに室内へと身体を引っ込めた。
表情は相変わらず乏しいが、その動作から慌てていることはなんとなく伝わってくる。
ヒューはタオルを手にしたまま、建物の中へ入った。
すれ違う子供達と挨拶を交わしながら、以前と変わらぬ賑やかな空間を進んでいく。
階段の前に差し掛かったところで、上から軽い足音が響く。
アイビーがタタタ、と階段を駆け下りてきた。
「おい、そんなに走ると危ない——」
ヒューが言い終えるより早く、最悪の事態が起きる。
アイビーの足がもつれ、身体が大きく前へと傾いた。
刹那、ヒューの脳裏に——。
転びそうになっている彼女の姿と、遠い記憶の中の母の姿が重なった。
考えるよりも先に身体が動いていた。
ヒューは一歩踏み出しアイビーを抱き留める。
しかし勢いを殺しきれず、そのままバランスを崩し、二人は床に倒れ込んだ。
「——!? 伯爵様っ」
アイビーが弾かれたように、慌ててヒューの上から退く。
身を起こした彼女の表情には、はっきりとした驚きと、そして申し訳なさが浮かんでいる。
彼女がここまで感情を露わにするのを、ヒューが目にしたのはこれが初めてだった。
心臓の音が耳の中でうるさく響く。
手の震えが止まらない。
それでも悟られまいと、必死に平静を装った。
「まったく……言わんこっちゃない……——っ」
言葉の途中で、ヒューは自身に生じた異変に気付く。
右の足首がズキズキと疼いていた。
——捻ったか……。
認識した途端、痛みは強烈な存在感を放ち始める。
思わず、負傷した箇所に手を伸ばした。
その仕草を目にしたアイビーの表情がさらに曇る。
やがて騒ぎを聞きつけた職員が駆けつけ、応急手当てを施してくれた。
現在、ヒューは客間のソファで安静にしている。
一人にしてほしいと伝えたため、客間にはヒューだけ。
心臓は未だ早鐘を打っている。
頭の中では、過去の辛い記憶が何度も何度も反芻されていた。
——クソ……またか。
ヒューは項垂れ、苛立ちをぶつけるように髪をくしゃりと掴む。
たったあれだけの出来事で心を乱される。
そんな己の弱さが、心底嫌だった。
なんとか心を落ち着かせようと、大きく息を吸い込む。
深く、ゆっくりと。
吐く息に合わせ、頭の中の景色を切り替える。
思い浮かべたのは、祝歌を口ずさむ母の姿だった。
柔らかな微笑み。
静かで、温かな歌声。
記憶の中の旋律に耳を澄ませるにつれ、荒れていた鼓動が、ほんの僅かだが落ち着いていく。
するとここで、コンコンと控えめなノックの音が扉の向こうから響いた。
「伯爵様、入ってもよろしいでしょうか?」
扉越しに聞こえてきたのは、アイビーの声だった。
大方、先程の件の謝罪に来たのだろう。
正直、今は誰かと話せるような精神状態ではない。
だがここで追い返して怒っていると誤解されるのも厄介だ。
「……ああ、入れ」
ヒューは答えながら背筋を正し、何事もなかったかのような表情を作った。
「失礼します」
アイビーが静かに扉を開け、室内へ入ってくる。
「足の具合はいかがでしょうか?」
彼女はこちらに近付きながら尋ねてきた。
その視線は、包帯が巻かれたヒューの右足に向けられている。
表情はやはりいつもより沈んでいるように見えた。
「大した怪我じゃない。二週間も経てば治る」
「左様ですか。——申し訳ありません。私のせいで……」
「いい、気にするな。それより少し一人にしてくれ」
「はい、ではここで失礼いたしま——」
刺々しい態度を気にする様子もなく、淡々と挨拶を口にしていた彼女の声が途中で止まる。
「……顔色がよろしくありませんが。本当に大丈夫ですか?」
問いかけにヒューは一瞬だけ言葉を失い、視線を逸らす。
「……問題ない。いいから早く出ていけ」
「医務室で休まれた方が——」
「大丈夫だと言っている」
「ですが……」
「くどい!!」
相手があまりにも引き下がらないので、感情に任せて勢いよく振り向き声を荒らげた。
びくりと跳ねるアイビーの身体。
その反応を目にして、ヒューはやってしまったと後悔する。
いくら精神が不安定だったとはいえ、相手に苛立ちをぶつけていい理由にはならない。
「すまない……。今、情緒が不安定で……」
ヒューは項垂れ、大きく息を吐いた。
両手で顔を覆い視界を閉ざす。
胸に込み上げてくるのは、どうしようもない自己嫌悪。
「……怖かったですか? さっきの」
アイビーの言葉に、ヒューは顔を上げ彼女を見た。
何故分かったのか。
瞳にはっきりとした驚きが浮かぶ。
「手、震えていたので」
淡々とした声だった。
——気付かれていたのか。
ヒューは一度息を整えた後、ゆっくりと口を開く。
「——幼い頃、母が階段から落ちて死んだんだ」
妊娠中のことだった。
腹が大きくなっていたせいで足元がよく見えず、きっと、ほんの一段を踏み外しただけだったのだろう。
それだけで——人は簡単に死ぬ。
「そばにいたのに何も出来なかった……」
ヒューは拳をぎゅっと握り締めた。
あまりにも一瞬の出来事で、声を上げる間もなく、手を伸ばす暇すらなく、視界に焼き付いたのは——。
床に倒れ、血を流す母の姿だけ。
あのときの後悔が、今も胸に巣食っている。
だからこそ、今回考えるよりも先に、身体が動いたのだった。
「——伯爵様は、悪くありません。幼かったのなら……なおさらです」
アイビーの声は静かだったが、否定の余地を与えないほどに真っ直ぐだった。
「ああ、分かってる」
ヒューは短く答え、視線を落とす。
「仮にあのとき母の手を掴んだとしても……きっと俺のほうが引っぱられて、一緒に落ちていただろう」
既に何度も行き着いた結論だ。
助けられなかったのではない、助けようがなかった。
「滑稽だろう? 頭ではきちんと理解しているのに……未だに引きずって」
ヒューは自嘲気味に笑う。
「父もいなくなった今、当主としてしっかりしなければいけないというのに……」
父は一年前に病で亡くなった。
病状の進行は早く、最期に言葉を交わす時間すら得られなかった。
胸が押し潰されそうな思いだったが、それでも、悲嘆に暮れてばかりではいられない。
当主となったからには、毅然と振る舞わなければならない。
少しでも隙を見せれば、他の貴族に足元をすくわれる。
それなのに。
現実の自分は、この有様だ。
「伯爵様は……充分頑張っていらっしゃると思います」
アイビーがゆっくりとこちらの前にしゃがむ。
「お立場上、気を休めることも容易くないことは、重々理解しております。ですが——」
言葉を区切り、彼女はそっとヒューの右手を取ってきた。
両手で包み込まれた手は、驚くほど温かい。
張り詰めていたものが、指先から静かに溶けていくような感覚。
「孤児院にいる間くらい、気を緩めても問題ないと思います。伯爵様の心が癒されるのであれば……私は、なんでもいたします」
真っ直ぐな瞳。
ただ真心だけがそこにある。
そう見えた。
あまりにも眩しくて、ヒューは思わず目を逸らした。
こんなふうに向けられる善意に、どう応えればいいのか分からない。
そして何より、それがひどく心地よかったから——。
「なら……」
ヒューは少し考えた末に、躊躇いがちに口にした。
「歌ってくれないか? ローゼングラスの祝歌を」
あの歌を聴くと、不思議と心が落ち着く。
ちらりとアイビーを見ると、彼女の表情が僅かに変わっていた。
予想外だったのだろう。目を丸くして、瞬きをしている。
やはり、頼むべきではなかったか。
遅れて気恥ずかしさがやってきて、前言撤回しようと口を開きかけたが。
その前に、アイビーがすっと立ち上がった。
「お安い御用です」
言いながら、彼女は緩く口角を上げる。
無意識のうちに、ヒューは息を呑んだ。
それは彼が初めて目にする、アイビーの——はっきりとした笑顔だった。
歌声が室内に満ちていく。
柔らかく、澄んだ旋律。
母の記憶と重なりながらも、今この場所に確かに存在する声。
その歌に身を委ねるうち、ヒューの精神は、ゆっくりと落ち着いていった。
それでも。
胸の高鳴りだけは何故か収まらない。
だが、不思議と——。
先程までのような、嫌な動悸ではなかった。




