第12話 近付く別れのとき
それから、ひと月後。
今日は孤児院への定期訪問の日。
アイビーとともに馬車で向かう。
「いよいよ明日が出立か」
何気なく口にしたつもりだったが、胸が僅かに痛む。
明日の今頃には、彼女は修道院へと旅立っている。
刻一刻と、別れの時間は確実に迫っていた。
「はい……。孤児院へ行くのも、これで最後になります」
向かいに座るアイビーは、目を細めて窓の外を見つめている。
その横顔は、どこか名残惜しそうで――。
「寂しがるだろうな、子供達は。お前はよく慕われていたから」
「——そうですね。本当に、私には身に余るほどに……」
ぽつりと呟いた彼女の笑顔は、なぜか自嘲を帯びているように見えた。
その理由はヒューには分からない。
きっと気のせいだろう――そう思うことにして、視線を伏せた。
「明日は家まで見送らせてくれ」
こちらの言葉に、アイビーは首を縦に振る。
「はい、ぜひ」
そんなやりとりの後、馬車は丘の上に建つ孤児院へと辿り着いた。
扉が開き、二人は馬車を降りる。
午後の爽やかな風が頬を撫で、初夏の気配を運んできた。
太陽から送り届けられる温もりも、日に日に増している。
それはまるで、刻限を忘れさせるかのような穏やかな午後だった。
門をくぐったその先、玄関前に見覚えのある老紳士の姿を見つけ、ヒューとアイビーは思わず足を止めた。
「ホール様……!」
アイビーの驚いた声に、老紳士がゆっくりと振り返る。
「おおっ。ウィンザー伯爵、アイビー。これはこれは、お久しゅうございますなぁ」
朗らかな笑みを浮かべるその人物は、孤児院の前任のパトロン――ピーター・ホールだ。
以前より皺は深く刻まれていたが、その背筋は未だしゃんと伸び、変わらず矍鑠とした様子だった。
三人で建物の中へ入った後、ヒューはホールにアイビーが修道院へ入ることを伝えた。
「そうですか、アイビーが……」
ホールの視線は、自然とアイビーのほうへ向かう。そこには、隠しきれない寂しさが滲んでいた。
一方のアイビーは、子供たちや職員に囲まれ、ひとりひとりに丁寧に別れの挨拶をしている。
涙をこらえる子供、声を詰まらせる職員――その輪の中心で、アイビーは柔らかな笑みを返していた。
「だいぶ表情豊かになりましたな、ここに来たばかりの頃と比べて」
「——そうだな」
彼女と会った日のことを思い返す。
アイビーは人形のような少女だった。
それが今では、常人と比べればその起伏は小さいけれど、あのように素直な感情を表に出している。
木漏れ日のような笑顔が、ヒューはたまらなく好きだった。
「……私も、最後に少し話をさせてもらいますかな。あの子達の邪魔をするのは忍びないですが……」
ホールは頬をかきながら、困ったように笑む。
見かねたヒューは子供達に歩み寄り声をかけた。
「お前達、男爵も別れの挨拶をしたいそうだ。だから少しアイビーを借りるぞ」
案の定、あちらこちらから不満の声が上がる。
「まだアイビーお姉ちゃんと遊びたい!」
「代わりに俺が遊んでやるから」
「えー」
「えーとはなんだ、えーとは」
そんなやり取りを微笑ましげに見つめていたアイビーが「すぐ戻るからね」と優しく子供達を宥める。
名残惜しそうな視線を背に受けながら、彼女はホールとともに客間へ向かった。
去り際、ホールがこちらに頭を下げる。
ヒューは「気にするな」という意味を込めて手をひらひらと振った。
それからしばらくして。
いつの間にか、空は橙色に染まっていた。
「ご飯よー!」
職員の声が中庭に響き、子供達は待っていましたとばかりに食堂へ駆け出していく。賑やかな足音が遠ざかり、あとには静けさだけが残った。
ヒューは苦笑しながら地面にへたり込む。
「まったく……子供の体力は無尽蔵だな」
鬼ごっこに始まり、かくれんぼやボール遊びにまで付き合わされたせいで、腕も脚も悲鳴を上げていた。身体の節々がじりじりと痛む。
だが、嫌な疲れではない。胸の中にあるのは、どこか温かな充足感だった。
——さて、そろそろ帰らなければならないが、話は終わっただろうか。
ヒューは重たい腰を上げ、客間へと向かった。廊下を進み、扉の前に立つ。ノックをしようと拳を上げた、そのとき——。
「……私は、ウィンザー様が好きです」
——え?
扉の向こうから聞こえてきたのは、紛れもなくアイビーの声。
思考が追いつかず、ヒューはその場で固まる。上げたままの手が、行き場を失ったように宙に止まり、胸の鼓動だけがやけに大きく耳に響いていた。




