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第11話 このままでいい

 祝祭の翌日の昼下がり。

 フォレスト家から届いた一通の手紙を読んだ瞬間、ヒューはサァッと顔を青くした。

 そこに記されていたのは、アイビーが怪我を負い、意識を失っているという知らせ。


 居ても立ってもいられず、ヒューはすぐさまフォレスト邸へと向かう。

 ラッセルに案内された部屋で目にしたのは、ベッドに横たわるアイビーの姿。


 頭には痛々しく包帯が巻かれ、長い睫毛に縁取られた瞳は固く閉ざされたまま動かない。

 彼女の養母はベッド脇の椅子に腰掛け、嗚咽を堪えるように肩を震わせながら、静かに涙を流していた。


「……どうやら、階段から落ちたらしい。幸い発見が早かったから、しばらくすれば目を覚ますだろうって医者は——」


 ラッセルの声が途中からひどく遠くに感じた。

 ヒューの心臓が激しく脈打つ。ドク、ドク、と耳鳴りのように響くその音に、思わず呼吸が浅くなった。


 脳裏に浮かんだのは、かつて階段から落ち、血を流して横たわる母の姿。


 ——落ち着け、落ち着くんだ……。ラッセルも、大事には至らないと言っているじゃないか。


 必死に自分へ言い聞かせる。

 それでも胸中に巣食う不安は、どうしても消えてはくれない。

 このままアイビーが、二度と手の届かない場所へ行ってしまうのではないか——。そんな考えが、何度も頭をよぎるのだ。




「——ヒュー……ヒュー」


 ラッセルに名を呼ばれ、ハッと我に返る。


「大丈夫か?」

「あ、ああ……。すまない、話の途中で……」


 アイビーの部屋を出た後、ヒューはラッセルの書斎に通され、いくつか気になっていたことを尋ねていた。

 室内にいるのは二人きり。

 ヒューはソファに腰を下ろし、ラッセルは書斎机のチェアに深く座っている。


「まぁ……無理もないさ」

 ラッセルがこちらを気遣うように穏やかな笑みを向ける。


「じゃあ、アイビーの修道院行きは、本当に本人の意思なんだな?」

「ああ。俺としても、あの子に無理強いはさせたくない」


 ラッセルはデスクに肘をつき、思案するように眉を寄せた。

 伯爵家の当主として、どこかの貴族の家へ嫁いでほしかった。

 しかし父親として、彼女の意思を尊重したい。

 そんな葛藤が、表情から読みとれた。


「……そうか」


 ヒューは呟いて、ゆっくりと視線を落とした。

 身体がずしりと重くなる。

 ショックを受けているのだろうか——。自分にはそんな資格はないというのに。


「——お前には悪いことをしたと思ってるよ」

 ラッセルの呟きに、ヒューは訝しむように顔を上げる。


「……? どういう意味だ」

「だって、お前……あの子のこと好きなんだろう?」


 何気ない一言に、ヒューの動きがぴたりと止まった。

 呼吸も、瞬きも、思考さえも凍りつく。

 まるで突然、石像にでも変えられてしまったかのように——。


「……話した覚えはないが」

「ハハッ! 存外お前は分かりやすいからなぁ」

 ラッセルが愉快げに声を上げて笑う。


「祝祭のときに告白しようとしてたんだろ? 顔に書いてあったぞ」


 完全に頭の中を見透かされている。

 ヒューは小さく息を吐いた。


「——参ったな。まさかそこまでお見通しとは」

 自嘲気味にフッと笑い、ゆっくりと視線を伏せる。


「ああ、そうだな。結局、伝えられずじまいだったが……これで充分だ」

 薄く目を開け、天井を仰ぐ。


「良い初恋だった……」


 孤児院で出会った日のこと。

 母の死を打ち明けた際に、慰めてくれたこと。

 歌声に耳を澄ませた日々。

 控えめに笑う彼女の横顔。

 一つ一つの思い出が蘇り、目頭がじわりと熱くなる。


 幸せな家庭を築くのが夢だった。

 父と母のように仲睦まじく。

 子供にたくさんの愛情を注いで。


 出来ればそれを、アイビーと実現したかった。

 彼女と家族になりたかった。

 だが相手が望んでいないのなら、諦めるほかない。

 縛りつけるようなやり方で実現させたところで、それはヒューの望むかたちではない。


「……長居し過ぎたな。そろそろ失礼する。アイビーが目を覚ましたら、また連絡してくれ」

「ああ、必ず伝える。じゃあ、気ぃつけてな」


 軽く頷くと、ヒューは書斎から出ていった。


 ラッセルに想いを見抜かれていたことへの気恥ずかしさはあったが、今まで誰にも打ち明けられなかった胸の内を、ほんの少しでも吐き出せたことで僅かに気分が軽くなった。


 そんなことを考えながら廊下を歩いていると——。


「ヒュー様っ」


 背後から、やけに弾んだ声が響く。

 振り返らなくとも分かる。


 ジェマだ。


 ◇


「それでなんだ、見せたい物って」

 促されるまま客間へと移動した。


「こちらですわ」


 ジェマはこちらの隣に座ると、手にしていた物を机の上へ置く。

 本型のバインダーだ。


 訝しみながらヒューはそれを手に取り、中を開く。


「——これは……」

 思わず言葉を失う。

 挟まれていたのは、数枚にわたるアイビーについての調書。


「はい。お義姉ねえ様の経歴です。たまたま見つけてしまいまして……」

 ジェマは視線を伏せ、困ったように言葉を添える。


 書類には、アイビーの過去が淡々と、しかし克明に記されていた。

 幼い頃、母親と二人で暮らしていたこと。

 その母を病で失った後——。

 娼館で働いていたこと。


「……ショックですわ。まさかお義姉ねえ様が——こんな過去を持つ方だったなんて……」


 ジェマは胸元に手を当て、いかにも心を痛めているかのように嘆いてみせた。その仕草はあまりにも芝居がかっている。


「貴方は騙されていたのです。娼館で働いていたなんて……。そんな方が、ヒュー様の隣に立とうとしていただなんて……許されることではありませんわ」


 そう言いながら、ジェマはそっとヒューの腕に身体を寄せる。

 甘えるように、縋るように。


「身分も、過去も、清らかさも……すべてが不相応です。だからヒュー様、あんな穢れた女ではなく私を——」


 バンッと、乾いた音が客間に響いた。

 ヒューが乱暴にバインダーを閉じたのだ。


 あまりの音に、ジェマはびくりと肩を震わせ口を閉じる。


 そんな彼女に、出来るだけ内心の怒りを抑えながら告げた。


「知っている」

「……え?」


 思いがけない返答だったのか、ジェマは目を丸くする。


「あいつの過去なら既に知っている。ラッセルから聞いた」


 つい先程のことだ。

 本来なら詮索すべきではない——そう分かっていながらも、ローゼングラスの高台で耳にしたアイビーの言葉がどうしても引っかかっていた。


 ——私自身、結婚が怖いだけなのです。


 理由が知りたくなり、ヒューはラッセルに尋ねたのだ。

「過去に何かあったのか」と。


 ラッセルはしばし言葉を濁し、深く息を吐いたあと、重い口を開いた。


 孤児院に引き取られる以前、アイビーは娼館で働かされていた——。

 その事実を。


 薄々予想はしていたが、これで合点がいった。

 何故、彼女があれほど婚姻を恐れていたのか。


「……過去を知っても、俺の気持ちは変わらない」


 出自など気にしない。

 どんな過去を背負っていようと関係ない。


 彼女が胸の内を打ち明けてくれたときに抱いた心情は、紛れもなく本心だ。


「——それで、なんの話だったか」

 ヒューはゆっくりとジェマの方へ顔を向けた。


「もう一度、言ってくれないか?」


 地を這うような低い声。

 自分が今どんな表情をしているのかは分からない。

 ただ、ジェマが怯えたように震えているのを見て、よほど酷い顔をしているのだろうと察した。


 ジェマが腕から離れると、ヒューは何も言わず立ち上がり、客間から出る。


 手にはバインダーを持ったまま。

 ジェマが元の場所に戻す保証はない。

 ラッセルに直接渡した方が確実だろう。


「ヒュー!」


 廊下を進んだ先で、探し人はすぐに見つかった。

 向こうから駆けてきたラッセルは、肩で息をしながらも、どこか嬉しそうな表情を浮かべている。


「アイビーが目を覚ましたぞ!」


 その言葉に、ヒューはぐわりと目を見開いた。




 再びアイビーの部屋へ足を踏み入れると、そこにはベッドで上体を起こしている彼女と、胸をなで下ろすように涙をこぼしながら、彼女を強く抱き締めている養母の姿があった。


「ウィンザー様……」

 アイビーがこちらに気付く。


「身体の具合はどうだ?」

 思わず駆け寄り問いかける。


「問題ありません。ご心配をおかけしました」

 こちらを安心させるように、彼女はにこりと小さく微笑んだ。


 ラッセルは「本当に良かった……」と安堵を漏らしながら妻ごとアイビーを包み込むように抱き締める。

 アイビーは少し苦しそうに、だがとても嬉しそうに表情を崩す。

 ヒューは強張っていた顔を緩めて、その光景を目にしながら改めて思った。


 結ばれなくてもいい。

 遠い地へ行っても、彼女が幸せでいてくれるなら、それだけで。

 彼女が旅立つまでの間、このまま穏やかな関係が続いてくれるなら——。

 それで充分だ。


 そう自分に言い聞かせる。

 胸の内に走る痛みから目を逸らしながら。

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