第1話 少年伯爵とアイビー①
これは若き伯爵が、元孤児の令嬢に想いを伝えるまでの話——。
始まりは秋。
澄みきった空がどこまでも高く広がり、淡い日差しが街道を照らしていた。
その下を、一台の馬車が規則正しい蹄の音を響かせながら進んでいく。
「改めまして、こちらの頼みを聞き入れてくださったこと、大変感謝いたします。ウィンザー伯爵」
向かいの座席で、老紳士が穏やかに微笑み、十三歳の少年——ヒュー・ウィンザーに深々と頭を下げた。
「礼には及ばない。貴殿には、父も世話になったからな」
ヒューは淡々と答える。年齢に似合わぬ落ち着いた声音だった。
「ありがたいお言葉です。——私ももう年ですし、いつ何が起きるか分かりませんからな。新しいパトロンが見つかって、本当に良かった」
老紳士は安堵したように小さく息をつく。
事の発端は数週間前。ヒューのもとに、一通の手紙が届いたことから始まった。
差出人は、今まさに向かいに座っているこの老紳士、ピーター・ホール男爵。
内容は、彼が長年支援してきた孤児院の新しいパトロンになってほしい、という依頼。
ヒュー自身、慈善活動への強い関心や意欲があったわけではない。
ただ金は腐るほどあり、他ならぬ、父の代から付き合いのあるホールからの頼みだったから引き受けたに過ぎない。
誰かに言われなければ、他者のために動こうなどと思わない。
当主となってまだ日が浅いヒューには、そんな心の余裕はなかった。
ほどなくして、馬車は最寄りの村から少し離れた場所にある、丘の上の建物の前で止まった。
ここが出資先となる孤児院である。
馬車を降りると、出入り口から中年の女性が姿を現した。
「ここの園長でございます」そう名乗る彼女に促され、ヒューは中へと足を踏み入れる。
途端に、室内の空気が一変した。
ヒューよりもずっと幼い子供から、歳の近い子供までが入り混じり、楽しげに走り回り、笑い声を上げている。活気に満ちていると言えば聞こえはいいが——。
——……騒がしい。
鼓膜がじんと痛む。
甲高い声、足音、笑い声が無秩序に重なり合い、神経を逆撫でる。
今後の視察は必要最低限でいいだろうと、ヒューは内心で結論づけた。
客間に通され、出資に関する引き継ぎや細かな打ち合わせを行う。
その間も、子供達の喧騒が途切れることはなかった。
一刻も早くここを離れたい。
その一心で打ち合わせを手早く終わらせ、別れの挨拶を手短に済ませ、部屋を出た——その直後。
雑音に交じって、ふと、歌声が聴こえてきた。
どうやら中庭から流れてきているらしい。
廊下と中庭を繋ぐ扉は開け放たれており、澄んだ旋律がはっきりと耳に届く。
透き通るように柔らかく、それでいて心の奥に静かに染み入る声。
子供のものとは思えないほど安定しており、言葉の一つ一つが丁寧に紡がれていた。
思わずヒューは足を止める。
——この歌……母上の故郷の……。
幼い頃の記憶がよみがえる。
夜更け、眠る前に。
母が優しく微笑みながら口ずさんでいた、彼女の生まれ故郷の村に伝わる祝歌。
こんな場所で、それを耳にするとは思わなかった。
驚きと戸惑いを胸に、ヒューは中庭へと視線を向ける。
声の主は、花畑の中央に座っていた。
ここから見えるのは後ろ姿だけだが、歳はヒューと同じくらいの少女に見える。
柔らかな淡い桃色の髪を腰まで伸ばし、赤いリボンで一つにまとめている。
白を基調とした素朴なワンピースに、薄手のカーディガンを羽織ったその姿は、飾り気がないのに不思議と目を引いた。
少女は周囲に集まった幼い子供たちに語りかけるように、優しく歌っている。
「綺麗な声でしょう?」
不意に、隣にいたホールが声をかけてきた。
「彼女、つい最近ここに来たばかりでしてね。路頭に迷っていたところを保護したんです。よろしければ、少し話されていかれますか?」
ヒューは一瞬だけ逡巡した。
本来なら断っていたはずだ。視察は最小限にすると決めたばかりなのだから。
それでも——。
気が付けば、黙って頷いていた。
廊下を抜け、庭へと足を踏み出す。
花の香りを含んだ空気が肌に触れ、先程までの室内の喧騒がほんの少しだけ遠ざかっていく。
風がヒューの濃い藍色の髪を優しく揺らした。
最初にこちらに気付いたのは、周囲で歌を聴いていた子供達だった。
いくつもの視線がこちらへ向けられ、次いで、少女の歌声がすっと途切れる。
少女がゆっくりと振り返った。
大きく澄んだ瞳。
淡い紅を帯びたその色は、光を映して揺れ、どこか人ならざるものを思わせる透明感を湛えている。
けれど、表情は動かない——。
感情の波を一切浮かべない、静かな顔だった。
「こんにちは!」と子供達が一斉に声を上げる。
「……ああ、こんにちは」
ヒューは一瞬だけ気圧されながらも、軽く頷いて応えた。
その後子供達は、出入り口付近に立つホールの存在に気付くと、歓声を上げながら彼のもとへ駆け寄っていった。
中庭にはヒューと少女だけ。
ザア、と風が吹き抜ける。
花々が揺れるなか、ヒューは口を開いた。
「ローゼングラスの者か?」
一拍、少女の瞳に疑問符が浮かんだ気がした。
こちらが言葉を省略し過ぎた上に唐突だったため、出身地を聞かれていると、すぐには理解出来なかったのだろう。
「いえ。ですが、母がそうでした。この歌も、母から教わったものです」
少女は答え、ゆっくりと立ち上がる。
背丈はヒューより僅かに高い。
「そうか……。いや、知っている歌だったから聞いただけだ。その……いい声だな」
「お気に召していただけて嬉しいです」
そう口にしながらも、少女の表情は変わらず。
ただの社交辞令なのか、それとも感情の起伏が乏しいだけなのか——今のヒューには分からない。
「——良かったら、買ってくださいますか? 旦那様」
少女が自身の胸にそっと手を当てる。
「……? 使用人なら足りている」
雇用目的で声をかけたわけではないと伝えれば、少女は少し間を置いた後に「それは残念です」と、やはり本心か判然し難い態度で言ったのだった。
「お前、名前は?」
ヒューの問いかけに、少女はゆっくりと唇を開く。
「アイビーです」
一拍置いてから、ヒューも名乗る。
「——ヒュー・ウィンザーだ。……また聴かせてくれ。じゃあな」
それだけ言い残し、ヒューは中庭を後にした。
子供達と戯れているホールのもとへ戻る。
「出来れば、定期的に顔を出してあげてください。その方が、子供達もきっと喜びます」
ホールの穏やかな言葉に、ヒューはすぐには答えず、再び中庭へ目を向けた。
花畑の中に立つアイビーの髪が、風に揺れている。
淡い色の髪が光を含み、雲のようにたなびく様子が、何故かひどく目に焼き付いた。
「……ああ。そうさせてもらう」
思えばこのときから——。
——自分は、彼女の虜になっていたのかもしれない。




