第九章 重さ
研究所を去った日のことを、遊はほとんど覚えていなかった。
覚えているのは、机の上に残された自分の名前だけだった。
白い紙の上に印字されたそれは、まるで死亡通知のように静かだった。
プロジェクト名 -「遊」。
それは理論の名前であり、炉の名前であり、そして同時に、彼自身の名前でもあった。
自分が否定されたのか。
それとも、自分という存在そのものが、実験の一部に過ぎなかったのか。
答えは与えられなかった。
研究所の扉を出た瞬間、世界は何も変わっていないように見えた。
空は同じ色で、
人々は同じ速さで歩いていた。
変わったのは、自分だけだった。
彼はもう、研究所員ではなかった。
◆◇◆◇
その日、空はどこまでも低かった。
灰色の雲が重なり合い、世界そのものが蓋をされているように見えた。遊は、白い建物の前に立ち尽くしていた。火葬場だった。
風はなく、煙だけが、まっすぐに立ち上っていた。
遊は、最後まで、その煙を見ていた。
それがどこへ行くのか、確かめなければならない気がした。
だが、どこにも行かなかった。
ただ、空に溶けて、消えた。
自分と同じだと、遊は思った。
名前も、声も、温度も。
すべて、もう、どこにも残らない。
ここへ来るまでの記憶は、ほとんど残っていない。手続きをして、名前を書き、誰かに頭を下げたはずだった。だが、その一つひとつは、水の底で誰かが動いているのを眺めているように遠かった。
由真、と書かれた紙だけが、現実だった。
由は、始まりの字だ。真は、本当の字だ。
自分の始まりから、本当の自分へ辿り着けるように -そう願ってつけた名前だ。
やがて、時間が来た。
案内された部屋は静かだった。白い壁と、磨かれた床。窓の外には、色の抜けた冬の木が立っている。
部屋の中央に、小さな台があった。
その上に、白い箱が置かれていた。
職員が何かを言った。遊は頷いたのかもしれないし、頷かなかったのかもしれない。ただ、自分の足が前に進んでいることだけを知っていた。
箱は、両手で持てるほどの大きさだった。
「こちらに」
そう言われた気がした。
遊は、手を伸ばした。
指先が、箱に触れた。
その瞬間。
軽い、と思った。
あまりにも、軽かった。
拍子抜けするほどに。
まるで、中身など最初から存在しなかったかのように。
その重さは、由真が生まれた日のことを思い出させた。
あのときは、こんなにも重かった。
壊れてしまいそうで、それでも確かにここにいるとわかる重さだった。
小さな指。
小さな呼吸。
小さな体温。
それらすべてが、確かに重さを持っていた。
なのに、今は違う。
遊は箱を抱えた。
胸に引き寄せた。
何も、伝わってこなかった。
本当に、これだけなのか、と思った。
あれほどの時間が、
あれほどの未来が、
これだけなのか、と。
温度がなかった。
重さも、なかった。
ただ、形だけがあった。
それが、終わりだった。
そのとき、初めて思った。
自分は、本当に何も残せなかったのだと。
守れなかったのだと。
研究も。
妻も。
娘も。
すべて。
箱の白さが、目に痛かった。
遊は目を閉じた。
だが、涙は出なかった。
泣き方を、忘れていた。
火葬場を出ると、風が吹いていた。
冷たい風だった。
遊の腕の中で、由真は軽かった。
あまりにも軽くて、少し力を抜けば、風にさらわれてしまいそうだった。
それでも、遊は強く抱きしめた。
これ以上、失わないように。
もう何も残っていないと知りながら。
-
その夜。
遊は、自宅に戻っていた。
鍵を開けても、誰も気づかなかった。
ただ、暗闇があるだけだった。
電気をつけると、そこに、生活の跡だけが残っていた。
椅子。
テーブル。
カーテン。
そして、マグカップ。
白地に、笑っている動物の絵が描かれた、小さなマグカップだった。
縁が、少しだけ欠けていた。
由真のものだった。
施設から渡された遺品の中に、それはあった。
職員は言った。
— 最後まで、これを探していました。
遊は、マグカップを手に取った。
軽いはずだった。
空の、ただの陶器だ。
だが。
持ち上げた瞬間、腕がわずかに沈んだ。
重い、と感じた。
ありえないほど。
その重さは、物の重さではなかった。
時間だった。
ここに触れていた、小さな手の時間。
ここから飲もうとしていた、続くはずだった時間。
そして、そのとき、自分がいなかったという事実。
遊の指が、縁の欠けた部分に触れた。
冷たかった。
骨壺と同じはずなのに、まったく違った。
骨壺は、軽かった。
だが、これは違った。
空なのに、失われたものが、すべて詰まっていた。
そのとき、初めて理解した。
自分は、骨壺ではなく、
こちらを、
持っているのだと。
由真が、最後に掴もうとした時間を。
由真が、最後に信じていたはずの、
未来を。
自分は、それを受け取らなかった。
指が震えた。
落としそうになった。
だが、落とすことはできなかった。
これだけは、落としてはいけないと思った。
遊は、マグカップを胸に抱いた。
空のはずのそれは、この世界の何よりも重かった。
◆◇◆◇
それからの時間を、
遊は、よく覚えていない。
何をしていたのか、何を考えていたのか、
思い出せなかった。
ただ、音だけがなかった。
生活の音が消えていた。
笑い声も、足音も、呼ぶ声も。
何もなかった。
世界から、
熱だけが、
抜け落ちてしまったようだった。
-
気づけば、
遊は、机に向かっていた。
紙が広げられていた。
ペンを持っていた。
線を引いていた。
何を描いているのか理解しないまま、手だけが動いていた。
円。
構造線。
隔離層。
流入口。
制御式。
炉の設計図だった。
研究所には、もう戻れない。
戻る場所は、どこにもない。
だから、ここでやるしかなかった。
自分の手で、もう一度作るしかなかった。
それが何を生むのか、そのときの遊はまだ知らなかった。
それでも、手を止めることだけはできなかった。
止めてしまえば、自分も完全に止まってしまう気がした。
-
そのときだった。
「……遊」
声がした。
振り返ると、ひよりが立っていた。
いつからいたのか、わからなかった。
ひよりは、何も言わなかった。
机の上の設計図と遊の手の中のマグカップを見た。
そして、静かに言った。
「ここに、いたんだね」
遊は、何も答えなかった。
答えられなかった。
ひよりは、それ以上何も聞かなかった。
ただ、遊の隣に立っていた。
触れもせず、離れもせず。
そこにいた。
-
炉の最初の線が引かれた。
それが、何を生み出すのか。
何を失わせるのか。
そのときの遊は、まだ知らなかった。
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