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器 -UTSUWA- 零  作者: 猿吉


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第八章 失ったもの

本作には、人の死と喪失に関わる描写が含まれています。


それは恐怖や刺激を目的としたものではなく、

一人の人間が、自らの選択と向き合う過程を描くために必要な出来事です。


※この物語は、失われたものを描くと同時に、

失われたあとに残るものを描く物語です。

研究所の廊下は、夜になるほど静かだった。

白い床は光を失い、ただ天井の灯りだけが、等間隔に続いている。音は、自分の靴音だけだった。


私は歩きながら、何も考えていなかった。


いやーー考えないようにしていた。


澪が死んでから、家は空洞になった。

由真を施設に預けた後、その空洞は形を失った。


家は、ただの箱になった。


帰る理由がなくなった箱だ。


だから私は、研究所に戻った。


ここには、数式があった。

現象があった。

答えがあった。


感情はなかった。


それが、救いだった。


◆◇◆◇


研究棟の中央にある実験区画は、すべてがガラスで囲われている。


外周には、いくつもの制御卓が円を描くように並び、その中心に、それはあった。


炉。


黒い耐熱外殻に覆われた円筒形の実験装置。

幾重もの冷却管と固定具に支えられ、まるで心臓のように、そこに鎮座している。


まだ稼働前だというのに、存在そのものが熱を持っているように見えた。


「先生」


振り向くと、柏木がいた。


まだ若いが、この研究において、唯一、私の理論を完全に理解している男だった。


彼だけは、私の説明の先を読んだ。


私が言葉にする前に、必要なデータを用意していた。


そしてーー彼だけは、私の沈黙を恐れなかった。


「出力制御、再確認しました。いつでもいけます」


私はうなずいた。


「始めようか」


柏木は迷いなく制御卓に向かった。


躊躇はなかった。


私を信じていたからだ。


炉が起動する。


低い振動が、床を伝った。


ガラスが微かに鳴る。


制御画面の数値が、ゆっくりと上昇していく。


安定している。


問題はない。


ーーはずだった。


最初に気づいたのは、柏木だった。


「……先生」


声が、わずかに震えていた。


「炉内圧力、微増しています。想定値を……」


言葉が止まった。


炉の観測窓の奥で、


黒いものが、揺れていた。


煙のようで、


液体のようで、


そのどちらでもない。


それは、形を持っていた。


後で分かったことだが、それは影だった。


「……不純物が排出されたんだろう」


私は言った。


「許容範囲内だ」


柏木は、こちらを見た。


何かを言おうとした。


その瞬間だった。


影が、溢れた。


窓の内側から、這い出すように。


ガラスの内面を伝い、


外の空間へと滲み出る。


金縛りにでもあったかのように、柏木がぎこちなく後退りした。


「......先生!」


影が、彼に触れた。


いや、


「触れた」というより、包み込んだ。


柏木の身体が沈む。


黒いそれに。


床に影が落ちるように、


彼は影の中に落ちた。


「ーー先生っ!!」


それが、最後だった。


影が、彼を覆い尽くした。


そして、


何もなくなった。


音も、


形も、


存在も。


そして、炉だけが、動いていた。


私は立っていた。


理解していた。


何が起きたのか。


だが、


それを認めなかった。


事故だ。


想定外の現象。


機器の問題。


私の理論ではない。


問題は、ここにある不純物だ。


排除すればいい。


改善すればいい。


それでいい。


それでーー


いい。


私は制御卓に歩いた。


震えていた。


だが、止まらなかった。


記録を保存した。


この現象は、貴重なデータだった。


柏木が消えた場所を、見なかった。


見る必要はなかった。


意味はなかった。


研究とは、そういうものだ。


失われるものではなく、


得られるものによって、


前に進むものだ。


そう、信じていた。


ーーあの時の私は、


まだ何も理解していなかった。


感情が何であるかを。


失うということが、


何を奪うのかを。


そして、


この日、自分が捨てたものが、


二度と戻らないことを。


柏木の机の上に、

冷めたコーヒーが残っていた。


◆◇◆◇


さっきまで、柏木が座っていた席。

白いカップの縁に、薄く残った唇の跡だけが、そこにいた証のように残っている。


私は、それを見ていた。

見ているだけだった。


扉が開いたのは、そのときだった。


ノックはなかった。


無音のまま、数人の男たちが入ってきた。

全員、同じ色の背広を着ていた。

足音だけが、やけに硬かった。


誰も、柏木だったそれを見なかった。


床に広がった黒い痕も、

割れたガラスも、

倒れた椅子も。


まるで、最初から何もなかったかのように。


男の一人が、私の横を通り過ぎた。


そして、


私ではなく、


炉を見た。


ガラス越しに、じっと。


値踏みするように。


生き物ではなく、


“機能”を見る目だった。


やがて男は、手元の資料に視線を落とし、

もう一度、炉を見て、


静かに言った。


「ーーこれが、“遊”か」


私は、答えなかった。


答える必要がない気がした。


そのとき、初めて理解した。


ここで失われたのは、


柏木ではない。


ーー私なのだと。


男たちは、それ以上何も言わず、

淡々と作業を始めた。


黒い痕を覆い、

ガラスを閉鎖し、

炉を、世界から切り離していく。


証拠は、手際よく消されていった。


柏木がいたという事実ごと。


そして、


私が、ここにいた理由ごと。


最後に一人が、私に紙を差し出した。


そこには、


私の名前が書かれていた。


まるで、


最初から、


ここにいなかった者の名前のように。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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