第七章 欠けたマグカップ
本作には、家族の死に関わる描写が含まれています。
それは衝撃や刺激を目的としたものではなく、喪失と向き合う物語の中で避けて通れない出来事として描かれています。
描写は直接的ではありませんが、読む方によっては強い感情を呼び起こす可能性があります。ご自身の心の状態を大切にしながらお読みください。
※この物語が描こうとしているのは絶望そのものではなく、失われたあとに何が残るのか、そして残された痛みをどう受け止め直すのかという問いです。
施設の自動ドアは、音もなく開いた。
白い廊下。
消毒液の匂い。
どこかで、子どもの笑い声がした。
由真は、遊の手を離さなかった。
「パパ、ここ、どこ?」
「……少しだけ、泊まる場所だ」
由真は、少し考えた。
「おうち、かえらないの?」
遊は、答えなかった。
答えられなかった。
由真は、ぎゅっと指先に力を込めた。
小さな手。
温度のある手。
その感触が、胸の奥に、引っかかったまま離れなかった。
職員が、静かに近づいてくる。
「お父さま、こちらへどうぞ」
遊は、由真の手をほどこうとした。
その瞬間、
由真が、ふいに言った。
「ねえ、パパ」
「……なに」
「ママ、もう、かえってこないんだよね」
遊の動きが止まった。
由真は、泣かなかったが、遠くを見るような目をしていた。
「ママがいないと、パパ、さみしい?」
その問いに、遊は答えられなかった。
由真は、少しだけ笑った。
「だいじょうぶだよ」
その言葉が、胸に刺さった。
なぜ、子どもが慰める側なのか。
なぜ、自分は、抱きしめられないのか。
遊は、何も言えなかった。
由真の手を、離した。
◆◇◆◇
帰り道、
遊は歩きながら、ふと立ち止まった。
夕暮れだった。
研究棟の廊下と、同じ色の空。
その瞬間、記憶が、ほどけた。
◆◇◆◇
あの日の夕方。
研究棟の長い廊下で、
澪は、足を止めていた。
振り返らなかった。
ただ、何かを言いかけて、
言葉にしなかった背中。
声をかければ、
何かが変わったかもしれない。
でも、遊は声をかけなかった。
合理的で、
正しくて、
何より、臆病だった。
澪の背中は、
そのまま、廊下の奥に溶けていった。
◆◇◆◇
遊は、空を見上げたまま、動けなくなった。
もし、あの日ー
もし、自分がー
考えるな。
考えるな。
思考は止まらどころか、グルグルと回り続けた。
由真の小さな手の温度と、
澪の静かな背中が、
胸の奥で、重なった。
◆◇◆◇
夜。
部屋には、誰もいなかった。
テーブルの上に、
澪のマグカップが置かれている。
欠けていない。
割れていない。
使われていない。
遊は、それを手に取った。
指先が、震えた。
そのとき、
胸の奥で、はっきりと理解した。
自分は、失ったのではない。
手放したのだ、と。
守れなかったのではない。
向き合わなかったのだ、と。
そして今、
同じことを、もう一度、繰り返したのだ。
由真の声が、耳の奥で、遅れて響いた。
ーだいじょうぶだよ。
その言葉は、
慰めではなかった。
許しでもなかった。
子どもが大人になってしまった音だった。
遊は、マグカップを置いた。
置き方が、わからなかった。
澪の場所に、
触れてはいけない気がしたからだ。
部屋の空気は、静かだった。
音はないのに、
何かが、ずっと崩れ続けていた。
◆◇◆◇
夜。
施設の廊下は静かだった。
消灯後、
由真は喉が渇いて目を覚ます。
共有スペースの棚に置いてあるマグカップ。
あの、澪が遊に贈った、少し可愛いキャラクターの。
本当は家にあったはずのもの。
でも由真は、それを使っていた。
「パパのだから、だいじにするね」
誰にも言わず、心の中でそう決めていた。
背伸びをする。
椅子に乗る。
少しバランスを崩す。
落ちる音は、小さかった。
割れる音も、小さかった。
誰かが駆けつけたとき、
床には、欠けたマグカップと、動かない由真。
事故は、ただそれだけだった。
誰も悪くない。
少しだけ、間に合わなかった。
◆◇◆◇
遊が電話を受けたとき、
研究室のモニターには数式が並んでいた。
理解できるもの。
制御できるもの。
なのに、電話口の言葉は、理解できなかった。
「……残念ですが」
そこから先は、音にならなかった。
研究室の床が、急に遠くなる。
走ったのか、歩いたのかも覚えていない。
そこには、
間に合わなかったという事実だけが、
頭の奥で反響していた。
◆◇◆◇
施設の机の上に、それは置かれていた。
欠けている。
でも、完全には割れていない。
遊は、それを両手で包んた。
澪が、笑いながら渡してきた日のことを思い出す。
「研究ばっかりだから、せめて可愛いの使って」
あのとき、
ちゃんと笑っていただろうか。
由真が、これを持って、
どんな顔をしていたのか。
想像できなかった。
いや、
想像する勇気がなかった。
遊は、それを持って帰った。
抱えるように。
遺骨よりも、軽い。
なのに、持てないほど重い。
◆◇◆◇
夜。
家。
テーブルの上に、
欠けたマグカップと、
使われていない澪のマグカップ。
並ぶ。
完全なものと、欠けたもの。
遊は、床に崩れ落ちた。
守れなかった。
違う。
守ろうとしなかった。
あの日、澪を呼び止めなかった。
あの日、由真の手を離した。
二度、選ばなかった。
二度、間に合わなかった。
これは事故ではなく、自分の選択の積み重ねだ。
涙は出なかった。
感情が、うまく動かなかった。
胸の奥で、何かがひび割れ続けていた。
◆◇◆◇
数日後。
研究室。
扉が、静かに開く。
ひよりは何も言わない。
泣きもしない。
叱らない。
欠けたマグカップを見る。
そして言う。
「それ、捨てないんだ」
遊は答えない。
ひよりは続ける。
「壊れたもの、すぐ直そうとしなくていいよ」
しばらく沈黙。
「そのままで、いいよ」
それは慰めではなかった。
許しでもなかった。
壊れたままの存在を、否定しない言葉だった。
ひよりは代わりにならない。
埋めない。
崩れきらないように、
そこにいる。
彼女は救済ではなく、
証人だ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。




