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器 -UTSUWA- 零  作者: 猿吉


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第六十ニ章 影

夜は静かだった。


町を包む風は穏やかで、軒先に吊るされた灯りが小さく揺れている。


遠くから聞こえる川のせせらぎ。


虫の声。


どこかの家から漏れてくる笑い声。


誰にとっても、それはいつもと変わらない夜だった。


石畳を、一人の男が歩いている。


肩には仕事道具を提げ、疲れたように小さく息をついた。


「……今日は、少し遅くなったな。」


空を見上げる。


雲ひとつない夜空には、星々が静かに瞬いていた。


家では幼い娘が待っている。


帰ったら、今日の出来事を話そう。


そんなことを考えながら、男は足を進める。


その時だった。


ぴたり、と足が止まる。


石畳の隅を、黒いものが流れていた。


水ではない。


油でもない。


月明かりを受けても光を返さず、闇そのものが地面を這っているようだった。


「……何だ?」


男は身をかがめる。


黒い液体は、ゆっくりと動いている。


流れているのではない。


意思を持つように。


静かに、こちらへ近づいてくる。


男は一歩下がった。


その瞬間。


黒い液体が音もなく立ち上がる。


霧とも煙とも違う。


輪郭を持たないまま、人の背丈ほどの高さへ伸びていく。


そこには顔もない。


目もない。


口もない。


それでも。


見られている。


男の背中を冷たいものが走った。


「な、なんだ……お前は……。」


答える声はない。


黒い影は、ただ揺れている。


男は踵を返し、走り出した。


石畳を蹴る音だけが夜へ響く。


息が乱れる。


胸が苦しい。


振り返る。


影はいない。


安堵しかけた、その瞬間だった。


目の前の闇が、ゆっくりと盛り上がる。


黒い液体が地面から這い上がり、男の進む先を塞いでいた。


「う、あ……。」


逃げ道はない。


男は後ずさる。


その足がもつれ、石畳へ倒れ込む。


黒い影が、静かに近づいてくる。


恐ろしいほど静かだった。


襲いかかるわけでもない。


吠えるわけでもない。


ただ、そこにある。


男の胸へ、黒い霧がそっと触れた。


その瞬間。


胸の奥へ押し込めていたものが、一気に溢れ出す。


言えなかった「ごめん」。


届けられなかった「ありがとう」。


守れなかった約束。


誰にも見せなかった涙。


黒い影は、それらを包み込むように揺れた。


男は叫ぶ。


声にならない叫びだった。


身体が飲み込まれていく。


溶けるのではない。


砕けるのでもない。


存在そのものが、静かに闇へ溶けていく。


やがて。


夜は、また静かになった。


黒い影は小さく脈打つ。


ほんの一瞬だけ、その姿が膨らんだように見えた。


しかし次の瞬間。


風に溶ける煙のように、その場から消えていく。


あとには、男が提げていた道具だけが残されていた。


誰も知らない。


誰も気づかない。


町では変わらず灯りが揺れ、人々は食卓を囲み、笑い声が夜へ溶けていく。


その穏やかな日常のすぐ隣で。


誰かの人生は、音もなく終わりを迎えていた。


その頃。


遠く離れた丘の上で、CUYONはふと足を止める。


風の流れが変わった。


胸の奥を、微かな痛みがよぎる。


「……今。」


CUYONは町の方角を見る。


そこには、いつもと変わらぬ灯りが並んでいる。


何も起きていないように見えた。


それでも。


確かに一つの想いが、この世界から消えた。


CUYONは駆け出す。


風を切り、夜の草原を抜け、石畳の町へ辿り着く。


だが、そこにはもう誰もいなかった。


残されていたのは、地面に落ちた仕事道具だけ。


そして、夜風だけが静かに吹き抜けていく。


CUYONはその場へ膝をつき、そっと道具を拾い上げた。


まだ、ぬくもりが残っていた。


「……また。」


その声は震えていた。


「……間に合わなかった。」


夜空を見上げる。


星は変わらず、美しく輝いている。


町の灯りも、何ひとつ変わらない。


けれど。


CUYONの胸には、小さな痛みが確かに刻まれていた。


その痛みは、やがて遥かな未来まで続く長い旅路の、最初の傷跡となることを、まだ誰も知らなかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。現れた影の意味は?

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