第六章 由真の手紙
朝、パパはもう起きていた。
キッチンの明かりはついているのに、
パパは何も作っていなかった。
机の上に、開いたままのノートがある。
難しい字がたくさん書いてあって、
わたしには読めない。
「パパ、おはよう」
わたしが言うと、
パパは少し遅れて、顔を上げた。
「……おはよう」
声はやさしいけど、
目は、わたしを見ていない。
わたしは知っている。
パパは、わたしを見るとき、
いつもどこか遠くを見ている。
たぶん、ママのところ。
ママは、もう帰ってこない。
それはわかってる。
でも、パパはまだ、わかっていないみたいだった。
◆◇◆◇
学校から帰ると、家は静かだった。
テレビの音もない。
洗濯物も干していない。
パパはずっと部屋にいる。
ドアの向こうで、
ずっとカタカタ音が鳴ってる。
わたしは、ドアを叩かなかった。
叩いたら、
パパが困る気がしたから。
だから、わたしは一人で絵を描いた。
ママの絵。
でも、顔は描かなかった。
描いたら、
本当にいなくなってしまいそうだったから。
◆◇◆◇
ある日、パパが言った。
「少しの間、別のところで暮らそうか」
声は静かだった。
「なんで?」
わたしが聞くと、
パパはすぐに答えなかった。
下を向いたままで黙ってた。
その後、やっと、
「そこは、いいところなんだ」と、言った。
いいところ。
それが何なのか、
わたしにはわからなかった。
でも、パパの顔は、
嘘をついている顔だった。
パパは、嘘をつくとき、
いつもまばたきが多くなる。
それを、わたしは知っていた。
◆◇◆◇
施設に行く日。
建物は、白くて大きかった。
中はきれいで、
知らない大人がたくさんいた。
「ここで、しばらく過ごそう」
パパは言った。
わたしは、パパの手を握った。
「パパも?」
そう聞くと、
パパは、ほんの一瞬だけ、笑ったような困った顔をした。
「……仕事があるから」
その笑い方が、
ママがいなくなってからのパパの笑い方だった。
わたしは、その意味を知っていた。
「じゃあ、迎えに来る?」
わたしが聞いたとき、
パパは、答えなかった。
わたしは、泣かなかった。
泣いたら、
パパがもっと困ると思ったから。
代わりに、聞いた。
「ねえ、わたし、いい子だった?」
パパの指が、
わたしの手から、ゆっくり離れた。
「……ああ。いい子だよ、とっても」
その声は、震えていた。
でも、その震えは、
わたしのせいじゃない。
たぶん、ママのせい。
だから、わたしは言った。
「じゃあ、だいじょうぶだね」
パパの目が、初めて、わたしを見た。
でも、もう遅かった。
◆◇◆◇
玄関の前で、パパは立ち止まった。
自動ドアが閉まると、
外の音が遠くなった。
風の音も、車の音も、
全部、ガラスの向こう側に行ってしまった。
パパは、わたしの前にしゃがんだ。
目の高さが同じになる。
でも、目は合わない。
「ここで、少しだけ頑張ろう」
少しだけ。
大人はいつも、
終わりのない言葉を、やさしく言う。
「どれくらい?」
わたしが聞くと、
パパは、答えを探すみたいに、口を閉じた。
「すぐだよ」
すぐ。
それが嘘だって、
わたしはもう知っていた。
「パパは、わたしといるの、いや?」
わたしが聞いたとき、
パパの肩が、わずかに揺れた。
「そんなことはない」
すぐに否定した。
でも、否定の速さは、
本当の気持ちを隠すのには十分な速さだった。
「じゃあ、なんで?」
その瞬間、
パパの顔が、壊れた。
「……パパは、うまくできないんだ」
「澪がいなくなってから、全部、壊れた」
声は小さかった。
でも、その言葉は、
わたしには十分すぎるほど大きかった。
「なにが?」
「全部だ」
パパは、わたしを見なかった。
「家族も、仕事も、気持ちも」
わたしは、初めて気づいた。
パパは、
わたしよりも、ずっと泣きたいんだって。
「わたし、パパの子でしょ?」
パパは、ゆっくりうなずいた。
「じゃあ、パパができなくても、いいよ」
その瞬間、
パパの喉が、鳴った。
「わたし、できるよ」
何ができるのか、
わたしにもわからなかった。
「ママみたいに、笑うのもできるし」
その言葉で、
パパの顔から、色が消えた。
「言うな」
初めて、強い声を出した。
「……ママの話は、するな」
その言葉は、
刃物みたいだった。
わたしは、初めて理解した。
ああ、
わたしは、ママなんだ。
パパにとって。
◆◇◆◇
夜の部屋は、静かだった。
知らない天井。
知らない匂い。
知らない布団。
わたしは、目を閉じたまま、
ずっと耳を澄ませていた。
誰かが来る音を。
でも、来なかった。
カーテンが、少し揺れた。
その音が、
なぜか、怖かった。
わたしは、布団の中で、
小さくなった。
パパの手の大きさを、思い出した。
冷たい手。
でも、
冷たい手が、恋しかった。
泣かなかった。
泣いたら、
本当に終わってしまう気がしたから。
でも、
終わっていた。
もう、ずっと前から。
わたしは、布団の中で、
声を出さない練習をした。
「パパ」
声にしないで、口だけ動かす。
そのとき、初めて気づいた。
パパは、
もう迎えに来ないかもしれない。
胸の奥が、
ぐしゃっと潰れた。
涙が出た。
でも、泣き方がわからなかった。
だから、
息だけが震えた。
布団を噛んだ。
その夜、
わたしは初めて泣いた。
自分が壊れたことを、
誰にも気づかれないように。
◆◇◆◇
何日か後、
わたしは紙をもらった。
「おうちの人に、お手紙を書いてみよう」
わたしは、書いた。
⸻
パパへ
パパは、
いまも、しごと、がんばってますか。
わたしは、
ここで、がんばっています。
ごはんも、ちゃんと食べています。
でも、ひとつだけ、わからないことがあります。
パパは、
わたしがいなくなって、
すこし、楽になりましたか。
もし、楽になったなら、
わたしは、ここにいて、よかったです。
⸻
遊は、紙を開いた瞬間、呼吸を失った。
自分は父親ではなかった。
ただ逃げた人間だった。
数式なら理解できた。
機械なら扱えた。
でも、人の心だけは、
どんな法則にも従わなかった。
遊は、机に額を打ちつけた。
何度も。
そのとき、
静かにドアが開いた。
ひよりだった。
彼女は一瞬、立ち止まった。
ここは、澪の場所だ。
ひよりは、胸の奥で、そっと呟いた。
「……澪。ちょっとだけ、場所、借りるね」
それは、奪う言葉じゃなく、
受け継ぐ言葉だった。
ひよりは、遊の背中に手を置いた。
壊れ物に触れるみたいに。
「だいじょうぶ」
ひらがなみたいな声だった。
遊の肩が、震えた。
ひよりは、離れなかった。
代わりになるわけではない。
崩れきる前に、手を伸ばしているだけだった。
その姿は、
まるで、消えた人の「残り火」だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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