第五章 人生で一番幸せだった日
遊は、子どもの頃から一人だった。
親は忙しく、家の中はきれいに整えられていたが、いつもガランとしていた。
話し相手は、人ではなくロボットだった。
ロボットは裏切らない。
正しく組めば、正しく動く。
人は違う。
何を考えているかわからない。
なぜ怒るのかも、なぜ笑うのかも。
だから彼は、人よりも数式を好んだ。
◆◇◆◇
そして、研究所で澪と出会った。
彼女は、数式を見て微笑む人だった。
「きれいだね」
その一言で、遊のそれまでの世界が崩れた。
数式を「きれい」と言った人を、
彼は初めて見た。
◆◇◆◇
朝、遊は目を覚ました。
隣に、妻がいた。
それだけで、胸が少しだけ苦しくなった。
—うん。夢じゃない。
彼は、毎朝それを確かめるように目を覚ましていた。
台所から音がする。
娘の由真が椅子を引きずる音。
「ママ、こぼれた!」
澪の声がする。
「慌てないで。大丈夫」
その言葉が、やけに優しかった。
遊は、布団の中でしばらく動けなかった。
こんな朝が、自分に許されていることが、
いまだに信じられなかった。
ー
食卓に座ると、マグカップが並んでいた。
淡い青のカップ。
彼が妻の澪に贈ったもの。
その隣に、小さな花柄のカップ。
由真が勝手に使い始めたもの。
「それ、パパのだぞ」
そう言うと、由真は首を振った。
「これはね、ママの好きなやつだから」
遊は言葉を失った。
澪は、何も言わずに笑っていた。
その笑顔が、なぜか怖かった。
ー
「今日、早く帰ってくる?」
由真が聞いた。
遊は一瞬、迷った。
研究は山ほどあった。
けれど、なぜか口から出たのは別の言葉だった。
「あぁ、帰ってくるさ」
由真は、声を上げて喜んだ。
澪は、何も言わなかった。
ただ、その日は一日、やけに機嫌がよかった。
ー
その日は、何も特別なことはなかった。
買い物に行き、由真が菓子売り場で駄々をこね、
澪が困ったように笑い、遊が黙ってそれを眺めた。
帰り道、由真は眠ってしまった。
澪は、娘を抱いたまま歩いた。
「重いだろ」
そう言うと、彼女は首を振った。
「大丈夫」
その声は、やけにやわらかかった。
遊は、娘を抱き取った。
思ったよりも軽かった。
「もっと食べさせたほうがいいな」
そう言うと、澪は笑った。
「観察対象みたいに…」
その言葉に、遊は少しだけ笑った。
◆◇◆◇
夜。
由真を寝かしつけたあと。
澪は、洗濯物を畳んでいた。
遊は、その横に座って箪笥に洗濯物を片付けていた。
「ねえ」
澪が言った。
「なに」
「もしさ、私がいなくなったらどうする?」
遊は笑った。
「くだらないこと言うな」
澪は、少しだけ黙った。
「……そうだよね」
それ以上、何も言わなかった。
◆◇◆◇
遊は、その夜、珍しく澪の手を握った。
澪は驚いたようにこちらを見た。
「どうしたの?」
「なんでもない」
ただ、それだけだった。
だが、その手は、いつもより温かかった。
ー
翌日。
妻は、帰らなかった。
◆◆◆◆
妻がいなくなってから、家は静かになった。
音が減ったわけではないのだが、意味が消えた。
娘は、相変わらず朝に起き、
相変わらずパンを食べ、
相変わらず笑った。
それが、遊には怖かった。
—なぜ、泣かない?
妻が死んだという事実よりも、
娘が生きているという現実のほうが、彼を追い詰めた。
娘を見るたびに、妻の顔が重なった。
同じ目。
同じ癖。
同じ声の響き。
そのたびに、胸の奥が裂けそうだった。
遊は、娘を抱きしめることができなかった。
抱きしめたら、壊れてしまいそうだった。
何が壊れるのかは、わからなかった。
たぶん、自分だった。
◆◇◆◇
ある夜、娘が言った。
「ねえ、パパ」
遊は振り返った。
「ママ、いつ帰ってくるの?」
その問いは、鋭利な刃物みたいだった。
答えられなかった。
娘も、それ以上は聞かなかった。
ただ、「そっか」と言って、部屋に戻った。
その背中を見ながら思った。
—俺が、この子を壊してしまう。
根拠なんてなかった。
でも、確信だけがあった。
◆◇◆◇
彼は、施設のパンフレットを机に並べた。
どれも同じに見えた。
安全。
教育。
将来。
正しい言葉ばかりだった。
その夜、遊は初めて泣いた。
妻の死では泣けなかった。
娘の寝息を聞きながら、泣いた。
ー俺は、まともな父親じゃない。
ー
娘を施設に預けた朝。
娘は、意外にも泣かなかった。
「ここ、学校みたいだね」
そう言って、笑った。
その笑顔が、遊には耐えられなかった。
「すぐ迎えに来る」
そう言った自分の声が、他人みたいだった。
娘は、うなずいた。
「約束だよ」
遊は、上手く笑顔を作れなかった。
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