表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
器 -UTSUWA- 零  作者: 猿吉


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/7

第五章 人生で一番幸せだった日

遊は、子どもの頃から一人だった。


親は忙しく、家の中はきれいに整えられていたが、いつもガランとしていた。


話し相手は、人ではなくロボットだった。


ロボットは裏切らない。

正しく組めば、正しく動く。


人は違う。


何を考えているかわからない。

なぜ怒るのかも、なぜ笑うのかも。


だから彼は、人よりも数式を好んだ。


◆◇◆◇


そして、研究所で澪と出会った。


彼女は、数式を見て微笑む人だった。


「きれいだね」


その一言で、遊のそれまでの世界が崩れた。


数式を「きれい」と言った人を、

彼は初めて見た。


◆◇◆◇


朝、遊は目を覚ました。


隣に、妻がいた。


それだけで、胸が少しだけ苦しくなった。


—うん。夢じゃない。


彼は、毎朝それを確かめるように目を覚ましていた。


台所から音がする。


娘の由真が椅子を引きずる音。


「ママ、こぼれた!」


澪の声がする。


「慌てないで。大丈夫」


その言葉が、やけに優しかった。


遊は、布団の中でしばらく動けなかった。


こんな朝が、自分に許されていることが、

いまだに信じられなかった。



食卓に座ると、マグカップが並んでいた。


淡い青のカップ。

彼が妻の澪に贈ったもの。


その隣に、小さな花柄のカップ。


由真が勝手に使い始めたもの。


「それ、パパのだぞ」


そう言うと、由真は首を振った。


「これはね、ママの好きなやつだから」


遊は言葉を失った。


澪は、何も言わずに笑っていた。


その笑顔が、なぜか怖かった。



「今日、早く帰ってくる?」


由真が聞いた。


遊は一瞬、迷った。


研究は山ほどあった。


けれど、なぜか口から出たのは別の言葉だった。


「あぁ、帰ってくるさ」


由真は、声を上げて喜んだ。


澪は、何も言わなかった。


ただ、その日は一日、やけに機嫌がよかった。



その日は、何も特別なことはなかった。


買い物に行き、由真が菓子売り場で駄々をこね、

澪が困ったように笑い、遊が黙ってそれを眺めた。


帰り道、由真は眠ってしまった。


澪は、娘を抱いたまま歩いた。


「重いだろ」


そう言うと、彼女は首を振った。


「大丈夫」


その声は、やけにやわらかかった。


遊は、娘を抱き取った。


思ったよりも軽かった。


「もっと食べさせたほうがいいな」


そう言うと、澪は笑った。


「観察対象みたいに…」


その言葉に、遊は少しだけ笑った。



◆◇◆◇


夜。


由真を寝かしつけたあと。


澪は、洗濯物を畳んでいた。


遊は、その横に座って箪笥に洗濯物を片付けていた。


「ねえ」


澪が言った。


「なに」


「もしさ、私がいなくなったらどうする?」


遊は笑った。


「くだらないこと言うな」


澪は、少しだけ黙った。


「……そうだよね」


それ以上、何も言わなかった。


◆◇◆◇


遊は、その夜、珍しく澪の手を握った。


澪は驚いたようにこちらを見た。


「どうしたの?」


「なんでもない」


ただ、それだけだった。


だが、その手は、いつもより温かかった。



翌日。


妻は、帰らなかった。



◆◆◆◆


妻がいなくなってから、家は静かになった。


音が減ったわけではないのだが、意味が消えた。


娘は、相変わらず朝に起き、

相変わらずパンを食べ、

相変わらず笑った。


それが、遊には怖かった。


—なぜ、泣かない?


妻が死んだという事実よりも、

娘が生きているという現実のほうが、彼を追い詰めた。


娘を見るたびに、妻の顔が重なった。


同じ目。

同じ癖。

同じ声の響き。


そのたびに、胸の奥が裂けそうだった。


遊は、娘を抱きしめることができなかった。


抱きしめたら、壊れてしまいそうだった。


何が壊れるのかは、わからなかった。


たぶん、自分だった。


◆◇◆◇


ある夜、娘が言った。


「ねえ、パパ」


遊は振り返った。


「ママ、いつ帰ってくるの?」


その問いは、鋭利な刃物みたいだった。


答えられなかった。


娘も、それ以上は聞かなかった。


ただ、「そっか」と言って、部屋に戻った。


その背中を見ながら思った。


—俺が、この子を壊してしまう。


根拠なんてなかった。


でも、確信だけがあった。


◆◇◆◇


彼は、施設のパンフレットを机に並べた。


どれも同じに見えた。


安全。

教育。

将来。


正しい言葉ばかりだった。


その夜、遊は初めて泣いた。


妻の死では泣けなかった。


娘の寝息を聞きながら、泣いた。


ー俺は、まともな父親じゃない。



娘を施設に預けた朝。


娘は、意外にも泣かなかった。


「ここ、学校みたいだね」


そう言って、笑った。


その笑顔が、遊には耐えられなかった。


「すぐ迎えに来る」


そう言った自分の声が、他人みたいだった。


娘は、うなずいた。


「約束だよ」


遊は、上手く笑顔を作れなかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ