第四章 来訪者
―報告
執務室は広く、そして静かだった。
夜の帳が降りた窓の外には、都の灯りが遠く滲んでいる。
机に向かう男は、書類から目を上げなかった。
「珍しいな」
低く、乾いた声だった。
「命じたわけでもないのに、お前の方から報告に来るとは」
鷹宮滉一は、一歩前に進み、姿勢を正した。
無駄な敬礼はしない。ただ、必要な距離を守る。
「耳に入れておいていただきたい件があります」
そう言いながら、鷹宮は書類を手渡す。
男、久我玄堂は、ようやく視線を上げた。
感情は読めない。ただ、相手を量る目だった。
「ほう」
鷹宮は一拍置く。
言葉を選んでいるのではなく、言う必要のある部分だけを切り取っている。
「元・国立技術研究所 主幹研究員。
斎原 遊」
その名が、部屋の空気をわずかに変えた。
「先の一件以降、表舞台から姿を消していましたが……
居所が判明しました」
久我は黙って聞いている。
問いも、相槌もしない。
「彼を…
我が研究所へ迎え入れたいと考えています」
沈黙。
久我は、場が熱を帯びるほど静かになる男だった。
誰かが声を荒げても、誰かが感情をぶつけても、彼だけは一歩引いた場所で、落ち着いた目でそれを見ている。
余計な言葉は言わない。けれど口を開いた瞬間、場の空気は不思議と落ち着き、騒ぎはいつのまにかおさまっていく。
人を冷やすのではなく、熱くなりすぎた空気に、そっと手を当てるような男だった。
やがて、久我は静かに口を開いた。
「鷹宮」
名を呼ぶだけで、圧があった。
「なぜ彼が研究所を出されたのか。
……分かって言っているのか」
鷹宮は即答しない。
ほんのわずかな間、視線を伏せた。
「分かっています」
そして、前を見据えて、はっきりと言った。
「だからこそ、
我が研究所にはふさわしいかと」
久我は椅子の背に身を預けた。
目を閉じることはない。ただ、考えている。
鷹宮は一歩、踏み込んだ。
「斎原遊の技術は、単なる代替ではありません」
久我は、わずかに眉を動かす。
「既に国を支えてきた、盤石な供給網があります。
長年、雇用と税収を抱え、
この国の屋台骨を形担ってきた分野です」
直接の名は出さない。
だが、誰もが何を指しているのか理解している。
「それらと正面から競合すれ当然、軋轢は生じます。
斎原は、そこを踏み抜いた」
「……それで弾かれた、か」
「はい。ただし――」
鷹宮は、言葉を選ぶように一拍置いた。
「この技術には、未来があります。
単なる復興のためではありません。
焼け落ちた国土を元に戻すだけではなく、
その先の未来へ国力を押し上げる力があります」
「高度成長、という言葉は、
今の時代には重すぎるかもしれません」
「それでも―」と、鷹宮は続ける。
「この停滞を打開する推進力になり得る。
それだけの可能性を、
斎原遊の技術は持っています」
久我は、しばらく黙っていた。
「……だが、今の我々には余力がない」
「承知しています。
だからこそ、“今すぐ”ではありません」
鷹宮の視線は、静かに真っ直ぐだった。
長くも短くもない沈黙のあと。
「……なるほど」
それだけだった。
許可でも、否定でもない。
だが鷹宮は理解した。
―歯車は、もう回り始めている。
彼は一礼し、静かに踵を返した。
背後で扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
久我は、机の上の書類に視線を戻す。
その端に、誰にも気づかれぬほど小さく、名が記されていた。
斎原 遊
久我玄堂は、それを指でなぞることもなく、ただ見つめたまま、机に置いた指を一度だけ鳴らし、静かに言った。
「未来を生む技術ほど、今の国には重すぎる―だが、捨てるには惜しいな」
◇◆◇◆
自室に戻ると鷹宮は、モニターに映し出された報告書の最後の一行を見つめていた。
内容そのものよりも、
それが誰に届き、
誰がどう動くか。
彼が見ているのは、事実ではなく、その先だった。
―久我は、これを見過ごさない。
久我玄堂という人間の思考速度、判断基準、行動傾向。
すべて、鷹宮の頭の中ではすでに数式のように整理されている。
久我は感情で動かない。
だが、過去と責任には必ず反応する。
「論文を持ち出す」
鷹宮は、まだ起きていない光景を、すでに確定事項として認識していた。
遊の前に現れ、
何も説明せず、論文を差し出す。
そして、あの一言を投げる。
―覚えているか。
その場面は、鷹宮にとって想像ではなく、
論理的に導かれた結果だった。
さらに重要なのは、遊という人間の性質。
彼は説得される人間ではない。
だが、自分の過去を突きつけられたときには、逃げ場を失う。
論文。
自分の言葉。
自分の選択。
それを差し出された瞬間、
遊はもう拒否できない。
「条件は、すべて揃った」
鷹宮は、感情のない声で呟く。
彼が操作したのは、人間ではなく、状況だった。
久我が動くことも、
遊が受け取ることも、
その先にある決断も。
すべては、最初から計算の内側にあった。
鷹宮はペンを置き、静かに息を整える。
表情は変わらない。
だが、その目には、
完成に近づいた構造を眺める者だけが持つ、わずかな満足が宿っていた。
◇◆◇◆
日が沈みきる直前の時間だった。
昼の喧騒はすでに引き、街はゆっくりと呼吸を取り戻しつつある。
夕日は姿を消したはずなのに、光だけがまだ空の底に残っていて、
建物の影は長く、曖昧に伸びていた。
石造りの家。
崩れかけた壁。
空き地に積まれた瓦礫。
その中に、場違いなほど滑らかな素材や、
この街の歴史とは噛み合わない形の構造物が、
まるで偶然そこに置かれたかのように混じっている。
だが、誰もそれを不思議とは思わない。
この街では、それが当たり前だった。
遊の部屋も、その延長にあった。
机の上には分解された装置と、紙に書かれた数式。
床には工具が無造作に転がっている。
ひよりは机に向かい、データの整理をしていた。
遊は装置の内部を覗き込みながら、黙々と手を動かしている。
二人の距離は近い。
けれど、どこか微妙にずれていた。
先日の鷹宮の一件が、まだ空気の底に沈んでいる。
互いに触れない。
触れないまま、普段通りを演じている。
大人のやり方だ。
部屋の片隅では、低い声が流れている。
ニュースとも雑音ともつかない声。
作業の邪魔にならない程度の、存在感だけを残す音。
―それが2人の間の微妙な空気のバランスをとっていた。
そのときだった。
玄関のほうで、かすかな気配がした。
ひよりが顔を上げる。
「……今、なにか音しなかった?」
遊は答えなかった。
すでに、気づいていた。
次の瞬間、玄関に人影が立っていた。
ノックはない。
呼びかけもない。
ただ、そこにいる。
ひよりの目が見開かれる。
「……え?」
遊の手が止まる。
そこに立っていたのは、久我玄堂だった。
新聞で見たことのある顔。
論文の署名で見覚えのある名前。
だが、紙の上の存在とは違う。
現実の重さを持った人間が、確かにそこに立っている。
久我は部屋の中を見渡し、最後に遊を見る。
言葉はない。
ゆっくりと歩み寄り、遊の前で足を止める。
そして、懐から一冊の論文を取り出し、差し出した。
遊の論文だった。
遊は一瞬、理解できなかった。
どこで手に入れた。
なぜ、いま、ここで。
問いは浮かぶのに、声にならない。
―終わったはずだ。
そう思っていたのに。
久我は淡々と口を開く。
「研究は進んでいる」
遊の視線が、論文から離れない。
「今、おまえがいない研究所でな」
沈黙が落ちる。
久我は、ほんの一拍置いて言った。
「覚えているか」
その一言には、命令も説得もなかった。
ただ、事実だけがあった。
遊の指が、論文の端を掴む。
―逃げ場は、もう残っていない。
ひよりは、耐えきれずに声を出す。
「……ずるい」
久我は視線をひよりに向けない。
ただ、遊だけを見る。
そして、最後の一言を落とす。
「おまえが抜けた穴は、まだ埋まっていない」
言葉は静かだった。
だが、それ以上の圧を持っていた。
遊は、目を伏せたまま動かない。
論文の紙が、わずかに軋む。
その音だけが、答えだった。
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