第三章 言葉にならない距離
三日目の夜だった。
……たぶん。
遊もひよりも、もう正確な日時を覚えていなかった。
寝ていない、というより、寝るという概念がこの部屋から消えていた。
「ちょっと、また逆につけてる!」
「違う、今度は合ってる」
「さっきもそう言ってた!」
金属音。
レンチが床を転がる。
機械は相変わらず、洗濯機大の無骨な塊で、無言のまま鎮座している。
汗だくの遊は、額に手の甲を当てて、唸った。
「……おかしいな。理屈は合ってる」
「理屈が合ってても、機嫌が悪いと動かないのが機械でしょ」
ひよりはそう言いながら、コードをまとめ、差し入れのパンを差し出す。
「はい。脳の燃料」
「ありがとう」
一口かじりながら、遊はまた図面に目を落とす。
カリカリ、ペンの音だけが続く。
ひよりは、その横顔を盗み見る。
必死で、夢中で、楽しそうで。
そして――少し、怖い。
(この人、こうやって自分を保ってるんだ)
何かから目を逸らすために。
何かを思い出さないために。
ひよりは、それ以上考えるのをやめて、首を振った。
「ほら、いくわよ。ラストスパート」
「……おう」
◇◆◇◆
機械の奥で、低く詰まった音が鳴った。
遊が息を止めるのと同時に、床に伝わる微かな震えが、確かに増していく。
金属の箱は自ら呼吸するように小刻みに揺れ、内部で何かが噛み合った瞬間、鈍い振動が一気に走った。
――動いた。
その事実だけが、静まり返った部屋に、遅れて残った。
準備が整う。
二人は向かい合い、頭のコードをつなぐ。
「今回は、擬似トークね」
「喧嘩するやつ?」
「そう。軽めにね、軽めに」
「了解」
最初は本当に軽かった。
「遊ってさ、靴下裏返しのまま洗うタイプでしょ」
「細かいな」
「で、干すのは私」
「感謝はしてる」
針が、ゆっくり動く。
「でもさ」
ひよりが、ふっと視線を逸らす。
「逃げるのは得意よね」
一瞬、空気が止まった。
ひよりは言葉を放ったあと視線を床に落とし、上がりかけた口元を押し戻すように指先で爪をなぞりながら、小さく息を吐いて「我ながら意地悪だ」と胸の内で思い、それでも姿勢を崩さず向かい合っていた。
「……それ、今言う? ちょっと間を置く優しさとかさ」
「ごめん、つい」
機械が低く唸る。
「あ…いや、そのぅ、なんだ。」
急にしおらしくなるひよりに遊が、バツが悪くなったように言った。
「逃げないと、壊れることもある」
「……そう」
次の瞬間。
機械が、急に静かになった。
「え?」
「……来たか?」
期待が、膨らむ。
そして。
――ボン。
鈍い音。
小さな衝撃。
「ちょ、ちょっと!」
灰色の煙が、もくもくと立ち上る。
「げほっ、げほ!」
「換気、換気!」
遊が窓を開けた瞬間。
溜め込まれていた煙が、ふわっと勢いよく外へ吐き出された。
朝の空気に、灰色が広がる。
◇◆◇◆
外。
通りの向かいで、その様子を見上げる男がいた。
政府機関に所属する諜報員。
同時に、研究者でもある男だ。
(……やはりだ)
数日前から掴んでいた情報。
ある研究者が、何かを作っている。
煙だけで、失敗だったという確証を得ることはできない。
これは、実験段階に入ったということだろう。
男は、静かに口角を上げた。
(見つけたぞ)
◇◆◇◆
その頃、窓から顔を出した遊が、通りと目が合っていた。
煤だらけの顔で、一瞬固まり、
「……てへ」
頭の後ろに手を当てる。
「遊! 何やってんのよ!」
ひよりは、遊の首根っこを掴んで、窓から引きずり込む。苦しくて白目を剥く遊。
「……っ、ゲホッ、ゲホッ。
……いや、換気をね。」
ひよりは、真っ黒な二人の姿を見て、思わず吹き出した。
「あははは……ねえ遊、これってさ、成功なのか失敗なのか、どっちだと思う?」
重たいものは、まだ言葉にならない。
けれど確かに、何かが動き始めていた。
◇◆◇◆
部屋の中は、灰色の戦場のようだった。
煤の跡が壁に残り、床には細かな金属片と紙切れが散らばっている。致命的な壊れ方ではないが、放っておけば次の作業に差し支えるのは間違いない。
「……とりあえず、片付けるか」
遊が言うと、ひよりは無言で頷いた。
遊は黙々と破損した部品を外し、机の上に並べていく。
ひよりはその横で、焦げた資料を選り分け、無事だったものをまとめ直す。数式の走り書きや、途中までの計算を見つけては、帳面に写し取り、横に小さく注釈を入れた。
「ここ、さっきの負荷の値よね」
「ん。多分そこが限界超えてる」
言葉は少ないが、呼吸は合っている。
ひよりは合間に湯を沸かし、茶を淹れ、無言のまま遊の手元に置いた。遊は礼も言わずに一口飲み、また機械に向き直る。
そういうやり取りが、自然に続いた。
一通り整理が終わるころには、窓の外が少し赤みを帯びていた。
「……めし、行くか」
「もう遊ったら、やっと言ったわね」
ひよりは帳面を閉じ、軽く伸びをする。
◇◆◇◆
夕方の通りは、人の流れがゆっくりと太くなっていく時間だった。
低い空に、冬の冷たい光が残っている。吐く息は白く、歩くたびにコートの裾が揺れた。
遊とひよりは並んで歩いているが、距離はほんのわずかに空いている。
近づこうと思えば近づける。その距離を、二人とも知っている。
遊は前を見て歩きながら、時折、無意識に指先を動かしていた。
ひよりはそれに気づき、ちらりと横顔を見るが、何も言わない。
視線が触れて、すぐに離れる。
言葉にならないものだけが、足元に落ちていく。
◇◆◇◆
食堂は、いつも通りの賑わいだった。
油の匂いと湯気、食器の音が混ざり合っている。
二人が腰を下ろすと、すぐ隣の席に、一人の男が座っていた。
細身で背が高い。
和服を基調としながら、仕立ては異様なほど整っている。動きに無駄がなく、背筋が自然に伸びていた。
髪はきっちりと撫でつけられたオールバック。
銀縁の眼鏡の奥の切れ長の目は、周囲を眺めているようで、どこか一点を静かに測っている。
水のような男だった。
深さを悟らせず、ただそこにいる。
遊は一瞥しただけで、特に気にする様子もなく席に腰を落ち着けた。
「今日は何にする?」
「日替わり」
それだけで会話は終わる。
定食が来るまでは、他愛のない話だった。
部品の手配が遅れているだとか、煤がなかなか落ちないだとか。
だが、膳が運ばれ、遊が箸を取り、勢いよく飯をかき込み始めたあたりから、空気が変わった。
「……あれっぽっちで、あの爆発だ」
「やっぱり、強度が全然足りてないわよね」
ひよりも箸を動かしながら、帳面を思い出すように視線を落とす。
「人の感情を集めるなら、今のままじゃ話にならない」
「計算し直す必要あるわね。感情の流れを抑えるか、薄めるか……段階的に入れる仕組みも」
遊は口に飯を運びながら、すでに頭の中で組み替えを始めている。
「……でも結局、炉そのものの強度を上げないと意味がない」
「金がいる、って話になるわね」
一瞬、二人の箸が止まった。
そのとき、隣の席から、静かな声が落ちてきた。
「……興味深い話ですね」
鷹宮滉一は、こちらを見て微笑んでいた。
その目は、偶然を装いながら、確かに二人を捉えていた。
水面が、わずかに揺れた。
◇◆◇◆
鷹宮は、箸を置き、湯のみを静かに戻した。
「国家の研究所があります。
名称は――スカーレス」
その名を、さらりと口にする。
「私の所属先です。
もしよろしければ、あなたを迎えたい」
遊は一瞬、箸を止めたが、すぐに飯を口に運んだ。
「……俺は、人のためにやってるだけです」
「それは理解しています」
鷹宮は頷く。
「ですが、国の枠組みに入れば、できることは増える。
資金も、人材も、設備も」
ひよりが、思わず身を乗り出した。
「そうよ。こんな機会、滅多にないわ」
「……」
「国がバックについてくれるなら、高炉の強化だって……
材料も、研究環境も、今とは比べものにならないじゃない!」
遊は黙ったまま、箸を動かし続ける。
顔は俯きがちで、表情が読めない。
拒絶とも、肯定ともつかない沈黙。
鷹宮は、その様子を急かさなかった。
「無理にとは言いません」
そう言って、懐から小さな紙片を取り出す。
簡素な名刺だった。名前と、連絡先だけが記されている。
「申し遅れましたが、私は 研究員をしています、鷹宮と申します。あなたの事は、上に報告しておきます。話も通しておく」
「……」
「気が向いたら、連絡をください」
そして、勘定を済ませると、静かに立ち上がった。
「今日は、ごちそうさまでした」
背筋を伸ばしたまま、食堂の喧騒の中へ溶けていく。
ひよりは、その背中を目で追っていた。
何かを言おうとして、結局、言葉を飲み込む。
鷹宮が戸を出て、音が消えたあと。
「……なんで」
ひよりが、ぽつりと呟いた。
「なんで、行くって言わないのよ」
遊は顔を上げた。
「だってさ」
「完成を目指して頑張ってきたことでしょ?」
ひよりは続ける。
「これ、あんたがずっと研究してきたことじゃない。
達成する方法を、考える立場にあるんじゃないの?」
遊は、珍しく困った顔をした。
「……考えたよ」
「じゃあ――」
「でも、俺は、あの場所でやりたいわけじゃない」
それ以上、言葉が続かなかった。
何か過去に触れそうで、触れなかった。
二人の間に、気まずい沈黙が落ちる。
勘定を済ませ、二人は黙ったまま店を出た。
夜の冷気が、昼間の熱をすっと奪っていく。
アパートの前に着いたとき、ひよりが立ち止まった。
「……ごめん」
振り返らずに言う。
「さっき、あんな言い方して」
少し間を置いて、
「……考える時間、奪うみたいだった」
そう言って、軽く頭を下げると、そのまま走り去っていった。
遊は、何も言えずに、その背中を見送った。
手の中には、鷹宮の名刺。
夜風が、それをわずかに揺らしていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。次章もご期待ください。




