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器 -UTSUWA- 零  作者: 猿吉


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第二章 不気味な笑み

 研究室は、ひどく静かだった。

 稼働を止めた試作機が、部屋の中央で黙っている。洗濯機ほどの金属の塊は、まるで主を待つ犬のように、無言でそこにあった。


 遊は立ったまま、それを見ていた。

 ひよりもまた、少し離れた場所から同じ輪郭を追っている。


 声をかければ、また始めてしまう。

 そんな予感が、2人の間に薄く張りつめていた。


 遊は白衣を脱ぎ、椅子の背に掛ける。

 一度だけ試作機に視線を残し、それから何でもないことのように呟いた。


 「……飯、行くか」


 ひよりは一瞬、言葉を探すように唇を噛む。

 視線が、試作機から遊へ、そして床へと落ちる。


 「……そうね」


 それだけだった。

 それ以上を言えば、何かが変わってしまうと、2人とも分かっていた。


 照明を落とす。

 暗がりの中で、金属の輪郭だけがしばらく浮かび上がり、やがて闇に溶けた。


 置いていくのは、機械だけじゃない。

 その感覚を胸にしまい込み、遊とひよりは研究室を後にした。


◇◆◇◆


 夕方の風は、昼の名残をまだ引きずっていた。建物の隙間を抜ける空気が、少しだけ湿っている。彼と彼女は並んで歩いていたが、肩が触れるほど近づくことはなかった。かといって、離れているわけでもない。歩幅だけが、自然と揃っていた。


 彼女は時折、何か言いかけて口を閉じる。指先が、意味もなくエプロンの端をつまみ、離す。その仕草を、彼は横目で見ていた。見ていることを悟られないように、あえて視線を前に戻す。


 路地の角で、彼女がほんの一瞬、立ち止まった。理由はない。ただ、歩調がずれただけだ。彼はそれに気づき、無意識に歩みを緩める。二人の距離が、ほんのわずかに縮まる。


 彼女の手が、揺れた。


 取ろうと思えば取れる距離だった。けれど、彼は動かなかった。彼女も、動かなかった。そこにあるのは、ためらいではない。知っている、という感覚だった。触れてしまえば、何かが始まる。その代わりに、何かを終わらせなければならない。それが何かは、二人とも口にしない。ただ、同じ形をして胸の奥に沈んでいる。


 彼女は小さく息を吸い、何事もなかったように歩き出した。彼も、それに続く。足音が、再び揃う。


 遠くに、食堂の明かりが見えた。湯気と、油の匂いが混じった、あの場所だ。彼女は少しだけ歩幅を広げ、先に立つ。その背中は、いつもよりほんの少しだけ緊張して見えた。


 彼は、その背中を追いながら思う。今は、これでいい。踏み出さないことも、選択だ。切り離せないものを、無理に引き剥がす必要はない。


 食堂の戸が開く音がして、夕暮れの空気が途切れた。二人は何も言わず、中へ入っていく。言葉にならなかった感情だけが、外に取り残されたまま、ゆっくりと冷えていった。


◇◆◇◆


 夜の食堂は、外の冷え込みとは別の世界だった。

 白い湯気が立ち上り、鍋の底を叩く音と人の声が混ざり合っている。


 遊とひよりは、向かい合って腰を下ろしていた。


 「だからさ……」


 ひよりは箸を止め、湯飲みを指先で回しながら言う。


 「無理に押し出そうとするから、澱むんじゃないかなって思うの」


 遊は曖昧に頷いた。

 聞いているようで、聞いていない。

 まだ、日常の延長線上にいた。


 「きれいなものだけを選ぼうとするとさ、逆に詰まるでしょ。水路みたいに」


 その言葉が、落ちた。


 音はしなかった。

 けれど、遊の中で何かが弾けた。


 視界が、急に狭まる。

 湯気も、人の声も、匂いも、一斉に後ろへ引いていく。


 「……あ」


 遊はそう呟いたつもりだったが、自分の声が聞こえたかどうかも分からない。


 椅子が床を擦る音。

 気づけば、立ち上がっていた。


 「すまん、ここ頼む」


 それだけ言って、もう足は出口へ向いている。


 「え、ちょっと待って!」


 ひよりの声が背中に当たる。


 「お金! 支払いどうすんのよ!」


 声は確かに聞こえた。

 けれど、意味としては届かなかった。


 遊にとって世界はもう、別の場所に移っていた。


 引き戸を押し開けた瞬間、冷たい夜気が顔を打つ。

 冬の空気だった。



 夜の街を、遊は走る。


 吐く息が白く、視界の端で街灯が流れていく。

 舗道も、建物も、人影も、すべてが遠景になっていく。


 上から見れば、

 眠りかけた街の中を、一人だけが逆流しているようだった。


 考えているはずなのに、言葉はない。

 ただ、形だけが頭の奥で組み替わっていく。


 押し出さない。

 選ばない。

 流れに任せて、残るものだけを拾う。


 コートの裾が揺れ、靴音が夜に溶ける。

 冷えた指先の感覚さえ、今は邪魔だった。



 部屋に飛び込む。


 鍵を回し、灯りをつけ、机に向かう。

 外套を脱ぐことさえ忘れて、紙を引き寄せた。


 筆を取る。


 カリカリ、という音が静かな部屋に響く。

 線が引かれ、消され、また引かれる。


 迷いはあるが、躊躇はない。

 手だけが知っている答えを、紙の上に落としていく。


 夜は深く、やがて窓の向こうがわずかに白む。

 街が目覚める前に、一本の線が定まった。


 遊は、ようやく息を吐いた。


 「……いける」


 机の上には、一枚の設計図。

 冬の夜を越えて辿り着いた、確かな形だった。


◇◆◇◆


 夜が、まだ部屋に残っていた。


 カーテンは閉じたまま、窓の外では白み始めていることを、遊は知らない。

 卓上灯だけが点いた六畳ほどの部屋で、紙と鉛筆と、金属の匂いが重なっている。


 机の上には、何十枚もの紙。

 線は重なり、消され、また引き直されていた。


 遊の指は黒く汚れ、爪の間に鉛の粉が入り込んでいる。

 それでも手は止まらない。


 カリ、カリ、カリ。


 音は一定で、呼吸よりも正確だった。


 思考はもう言葉にならない。

 水が流れるように、感情が沈殿し、濁り、分離され、

 「残すもの」と「捨てるもの」が、線として紙の上に現れていく。


 ――そうだ。

 ――ここだ。


 遊の口元が、わずかに歪んだ。


 笑おうとしているのではない。

 けれど、抑えきれない何かが、勝手に表情を引き上げる。


 薄ら笑い。


 それは達成感とも、安堵とも違う。

 長い間、胸の奥に引っかかっていた棘が、

 ようやく「抜ける形」を見せた、その瞬間の顔だった。


 カリ、カリ……。


 最後の線を引き終え、鉛筆が止まる。


 遊はしばらく、その紙を見つめていた。

 設計図――そう呼ぶには、まだ荒削りだが、

 確かに「次へ進める形」になっている。


 息を吐く。


 深く、長く。


 そのとき、背後で音がした。


 ガチャ。


 ドアが開く音。


 「……ちょっと、遊?」


 ひよりの声だった。


 遊は振り向かない。


 「……あんた、カーテンも開けずに、何して――」


 言葉が途中で途切れた。


 暗闇の中、机に向かったままの男が、

 卓上灯に照らされて、こちらを見ている。


 煤と鉛で汚れた顔。

 寝ていない目。

 そして――薄ら笑い。


 「……ひっ!」


 短い悲鳴が、部屋に跳ねた。


 「な、なにその顔!?」

 「朝からホラー?え?ホラーなの!?」


 遊は、ようやく我に返ったように瞬きをする。


 「……ああ」


 自分の状態を思い出し、

 少し気まずそうに視線を外した。


 「悪い」


 ひよりは一歩踏み込み、顔をしかめる。


 「悪いじゃないわよ。

  また徹夜なの?」


 遊は答えず、机の上の紙束を、軽く指で叩いた。


 「……できた」


 ひよりの視線が、自然とそこへ落ちる。


 沈黙。


 彼女は紙を手に取り、線を追い始めた。

 最初は訝しげに、やがて、目つきが変わる。


 「……待って」


 指が止まる。


 「これ……流す順番、逆にしてる?」


 「逆じゃない」

 遊は静かに言った。

 「分けてるんだ」


 「分ける?」


 「濁りを、先に吐かせる」

 「残すのは、沈まないほうだけだ」


 ひよりは、しばらく黙り込んだまま、紙を見つめ続けた。


 やがて、小さく息を吸う。


 「……はあ」


 「……あんた、本当に……」


 言葉を探し、

 そして、素直に吐き出す。


 「頭おかしいわ」


 遊は、少しだけ笑った。


 「よく言われる」


 ひよりは紙を置き、袖をまくる。


 「で?」


 「で?」


 「作るんでしょ。これ」


 遊は一瞬、驚いたように目を見開き、

 それから、はっきりと頷いた。


 「……ああ」


 「じゃあ、まず顔洗ってきなさい」


 遊は立ち上がり、

 ふらつきながらも、どこか楽しそうだった。


 こうして――

 三日三晩、眠らない時間が始まることを、

 このとき、二人とも、まだ軽く考えていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。お楽しみいただければ、幸いです。

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