第十四章 不器用
鉛筆の音が、カリカリと静かな研究室に響いていた。
机の上にはノートが積まれ、数式と図が幾重にも書き込まれている。
遊は解析したデータを見つめながら、そこから新しい仮説を組み立てていた。
感情を炉に取り込む前に、外部で分離する。
その考え自体は、すでに遊の中で形になっている。
以前、自宅で行った実験でも、小さな試作機を作って確かめていた。
だが、結果は安定しなかった。
条件によって煤の量が変わる。
変わるが、再現性がない。
つまり問題は、発想ではないということだ。
どういった性質のものを、どう分けるのか。
その条件がまだ掴めていない。
遊はデータの列を追いながら、ノートに新しい線を引いた。
仮説を立てる。
次の実験を考える。
また仮説を書き直す。
その作業を、ただ繰り返している。
こうなると、遊は周りが見えなくなる。
声をかけても気づかないことが多い。
自分でも分かっていた。
自分は不器用だ。
一度何かに集中すると、
他のことができなくなる。
仕事も。
生活も。
人との会話も。
だから研究に入ると、
他のことをほとんど手放してしまう。
そのことを、一番よく理解しているのがひよりだった。
研究室の隅で、ひよりは遊から渡された新しいデータの解析を進めている。
端末に視線を落としながら、
ときおり顔を上げて遊を見る。
声はかけない。
静かに見守る。
遊はいま、自分の中の迷路を歩いている。
その道からは、遊を他人が引き戻すことはできない。
できることがあるとすれば、
帰ってくる場所を静かに守っておくことだけだろう。
ひよりは立ち上がり、研究室の隅の流し台でコーヒーを淹れた。
欠けた縁のマグカップに温かいそれを注ぐ。
この研究室で、ずっと使われているカップだ。
湯気の立つそれを、ひよりは黙って遊の机の端に置いた。
遊は気づいていないようだ。
それでも構わない。
冷めたころ、きっと手を伸ばすはずだ。
ひよりは何も言わず、また椅子に座った。
研究室には、再び鉛筆の音だけが響く。
遊はふと手を止め、新しいページを開いた。
そこに短く書く。
ー 分離点の条件を再検証する
視線は、机の奥に置かれた装置へ向いた。
自宅で作った試作機を元に、研究所で改良された新しい実験機。
まだ完成とは言えない。
だが、次の実験で
もう一歩、原因に近づけるはずだ。
それからの研究は、根気のよい仮説と実験、検証との繰り返しだった。
装置を動かす。
データを取る。
ひよりが解析する。
結果を見て、仮説を書き直す。
また装置を動かす。
成功と呼べるものは、まだない。気が遠くなるような作業だ。
だが、失敗のたびに、原因の範囲は少しずつ絞られているばすで、霧の中で道を探すように、 輪郭だけが、ゆっくりと見えてくる。
気づけば、三ヶ月が過ぎていた。
研究室の中央には、新しい実験機が置かれている。
自宅で作った試作機を基に、研究所で組み直した装置だ。
感情を取り込む前に、外部で分離するための機械。
まだ完成とは言えない。
だが、ここまでは来た。
遊は腕を組んだまま、それを見つめていた。
しばらくして、ひよりが静かに立ち上がる。
装置の前まで歩き、
しばらく黙って眺めた。
そして、小さく言った。
「ねえ、遊」
「もしこれが、ちゃんと動いたら」
ひよりはそこで言葉を切った。
遊は視線を上げる。
「誰かの悲しいを、見つけられるかもしれないね」
遊は何も言わない。
研究の話だと思っているのだろう。
ひよりは小さく息をつく。
(もしかしたら……)
(遊の気持ちも、わかるかもしれない)
言葉には出さない。
そんなこと、本人に言えるはずがない。
ひよりは肩をすくめるように笑った。
「……まあ、まだ試作だけどね」
研究室の中央で、装置のランプが静かに灯っていた。
その小さな光を見つめながら、
遊はようやくコーヒーの入ったマグカップに手を伸ばす。
もう、すっかり冷めていた。
そのときだった。
装置の奥で、
小さな警告ランプが、ひとつだけ点滅した。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。




