第十三章 器の中の時間
夜。
研究室は静かだった。
窓の外では
雨が降っている。
机の端に
マグカップが置かれている。
白い陶器。
笑っている動物の絵。
縁の一か所が
少し欠けている。
遊はそれを見ている。
そのとき。
扉が開く。
ひよりが顔を出す。
「ちょっと」
腕を組む。
「まだ帰ってないの?」
遊は答えない。
ひよりは机を見る。
「ほんとさ」
積み上げた書類を軽く叩く。
「研究もいいけど、ちゃんと寝ないと体壊すよ?」
反応がない。
「前も言ったよね。倒れても--」
言葉が止まる。
机の上。
マグカップ。
遊の視線。
部屋が
静まり返る。
ひよりは首を傾げる。
「……どうしたの?」
声が少し小さくなる。
遊が言う。
「由真が」
少し間。
「昔、これを持ってきたんだ」
遊はマグカップを持つ。
両手で。
「両手で」
子どもには
少し大きい。
まるで
小さな子が花瓶を抱えるみたいな大きさ。
「重いだろって言った」
遊は少し笑う。
「大丈夫って」
雨の音。
ひよりは椅子に座る。
黙って聞く。
遊は続ける。
「ココアだった」
「母親と作ったって」
少し間。
「嬉しそうだった」
遊はカップを見る。
欠けた縁。
指で軽く触れる。
そのまま机に戻す。
そのとき
指が底に触れる。
「……?」
遊はカップを持ち上げる。
底を見る。
小さな文字。
油性ペン。
「パパへ」
その下。
「ゆま」
遊の手が止まる。
雨の音が強くなる。
ひよりはそれを見る。
そして
小さく言う。
「……あ」
遊はつぶやく。
「書いてたのか」
誰に言うでもない声。
カップを戻す。
今度は
少し丁寧に。
遊は立つ。
棚から
ココアの粉を取り出す。
ひよりが言う。
「……作るの?」
遊はうなずく。
「飲む?」
ひよりは少し笑う。
「もらう」
お湯が注がれる。
ココアが溶ける。
甘い匂いが
部屋に広がる。
遊が一口飲む。
欠けた縁に
唇が触れる。
少しだけ
引っかかる。
遊は言う。
「……甘いな」
ひよりもカップを持つ。
少し眺める。
それから
欠けた縁に
そっと指を置く。
なぞる。
小さな傷。
ひよりはそれを見ながら言う。
「ねえ」
遊は顔を上げない。
ひよりは続ける。
「そのカップ」
少し間。
「ずっと使ってるよね」
雨の音。
ひよりは
欠けた部分を軽く叩く。
そして言う。
「きっと喜んでると思うよ」
遊は何も言わない。
ただ
もう一口飲む。
窓の外では
まだ雨が降っている。




